『誕生日*翌々日』side伊織


 まさか、このタイミングで風邪をひくとは。

「じゃあ、お母さんもう行くけど、ちゃんと寝てるのよ」

 そう言って振り返った母さんの姿を、ベッドの中、ぼやけた頭を少しだけ動かして見送る。

「うん、いってらっしゃい」

「ごめんね、なるべく早く帰るからね」

「大丈夫、寝てれば治るよ」

 俺のその言葉に、少しだけ寂しそうに笑ってから母さんはゆっくりとドアを閉めた。

 意識の外、遠くで玄関の鍵がかかる音が響いたかと思うと、すぐに家の中には静けさが満ち始めた。誰もいない。一人きりの空間。

「……」

 頭が痛い。体は熱っぽいのに、寒気を感じる。薬のせいでまぶたが重くなっていく。このまま意識を手放してしまえばいい。そう思うのに、目を閉じるとどうしても昨日のことを思い出してしまう。

「……っ、」

 胸がガサガサにささくれだって苦しいのは、風邪のせいだけじゃないって、本当はわかっている。


     *


 閉園を知らせるアナウンスが繰り返される園内で、出口へと向かう人混みに紛れ込む。

 楽しかった余韻を引きずるようにゆっくりと流れていく人の波に合わせて歩いていると、俺の半歩前を歩いていた大和が、小さく振り向いた。

「……なに?」

 白さが増した息を吐き出しながら俺が見上げると、大和は「いや、伊織、ちゃんといるかな、って確かめただけ」とどこか寂しさを隠すように笑って顔を戻した。

「なにソレ。俺が迷子になるとでも思ってるわけ?」

 睨むように視線を向けても、俺に見えるのは夜の色に溶け込むように巻かれた紺色のマフラーと短く刈り上げられた黒髪と揺れるように消えてしまう白い息だけだ。

「そうじゃないけど……」

 その言葉が、どんな表情かおで言われているのかさえ、俺にはわからない。

「けど?」

 見えないから、見せてくれないから、その声だけでも捉えようと、俺はその余韻を捕まえる。

「いや、なんでもない。ほら、伊織ちっちゃいからさ、見失っちゃいそうで」

「ちっちゃいって言うな」

 両手を上着のポケットにしまったまま、大和の大きな背中に肩をぶつけてやる。

いたっ」

「俺が先、歩いてやる」

 そう言って歩幅を変えた俺に、大和は素直に前を譲った。

 俺は自分の視界から消えた大和の姿を、足元で揺れる影に重ねる。

「これでもう振り返らなくていいだろ」

 そう声を尖らせて言った俺のすぐ近く、カラフルにライトアップされた花壇の前で、最後の記念撮影をしようと人が集まっていた。この瞬間を忘れないようにとシャッター音を響かせ、楽しそうに笑う声がざわめきとなって耳に届く。

 その中で、大和がポツリと言った。それは一瞬にして見えなくなる息と同じように、簡単に紛れてしまうほど小さな、けれど――とても優しい声だった。

「……確かに、この方がいいな」

 そう呟く声があまりにもハッキリと俺の耳に届いて、どうしようもなく胸の中を苦しくさせるから。だから、俺の声は大和とは反対にからかうような笑いを小さな棘にして含ませる。

「何?そんなに俺が見えると安心するわけ?」

 それなのに、それでも大和の声が、さっきよりも一層温かさを増したように響くから。

「うん……見えるほうがいい」

 その言葉の意味がわからないほど、俺はもう鈍感にはなれなくて。

 だけど、それに見合う言葉を返せるだけの覚悟もなくて。

 だから、やっぱり気づかなかったフリをするしかなかった。

「なに?何か言った?」

 だってそう言えば、大和はきっと「なんでもない」って言ってくれるから。そうやって笑って、いつも通りに、当たり前に、隣を歩いてくれるから。

「……」

 だけど、大和はなにも言わなかった。

「……大和?」

 思わず足を止めて振り返った俺に、大和はコートのポケットにずっとしまっていた手を口に当て、震える声で言った。

「……伊織、ごめん。やっぱ、先、帰って」

 流れの真ん中で立ち止まってしまった俺たちを避けるように足音が過ぎていく。

「え?いや、先に、って帰る方向一緒じゃん。何?なんか買い忘れたものでもあった?それなら俺も……」

 まるで初めからそこにあった障害物か何かのように、誰にも振り返られることなく、人波に取り残されていく俺と大和。

「ごめん。ほんと、ごめん」

 そう言うと、大和は大きな流れの中からはじき出されるように、一人で方向を変えて走っていってしまった。

「大和!」

 そう呼ぶ俺の声に、大和が振り返ることはなかった。

 大和は最後まで俺を見てはくれなかった。

「……」

 今、追いかけたなら、追いつけるはずで。

 今、走っていけば、その腕を捕まえることができるはずで。

 そうわかっていたのに、俺は大和を追いかけることができなかった。

 あんなに大きく見えていた大和の姿は、大勢の人のうねりの中にあっという間に消えてしまった。


     *


 ――大和は、大丈夫だったかな。

 枕の横に転がっているスマホへと視線を向け、ゆっくりと手を伸ばす。

 真っ暗な画面に触れると、見慣れた桜の写真が現れる。まだ冬の寒さが残る薄い青空を背景に、咲き始めたばかりのピンク色の花。これは今年の春、高校の入学式の日に撮ったものだ。大きな数字で表示される時刻が、一時間目の始まりを告げる。メッセージは特になかった。俺は黒一色に戻した画面を裏返し、布団を引き上げるようにして体を丸める。

 ――大和のスマホの中にも、この時の写真は、まだあるだろうか?


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