『いい夫婦の日』side伊織(1)


 玄関にスニーカーを揃え、マフラーに手をかけながら、その大きな背中を追う。

「結婚記念日だって?」

「そう……」

 俺に視線を合わせることなく、リビングへと向かう大和の声はどこか遠く不鮮明な色を見せる。

「?」

 先ほどの家に入る前のやりとりを思い返してみる。

 いつもなら俺の言葉に何かしら言い返してきそうなものなのに。

「なぁ、なんかあった?」

「別に何もないけど……」

 そう言ってリビングのドアを開け、視線だけを振り返らせた大和が「伊織、お腹空いてる?」と呟くように聞いてきた。

 俺は大和の顔を見上げてみるが、不思議なほどうまく視線が合わない。

「まぁ、空いてるけど」

「じゃあ、とりあえずゴハン食べようぜ」

 そして再び視線は戻っていき、大和はキッチンへと向かっていく。

 リビングの入り口に残された俺は、その背中を追うことをやめ、見慣れたソファへと向かう。外したマフラーと肩にかけていたリュックをまとめて足元に置いて、テレビのリモコンを掴む。冷えた体を包み込むように沈むクッションの心地よい弾力が俺の呼吸を落ち着かせていく。

 特に観たいものがあるわけではなかったが、テレビの番組を変えてみる。

 どこかの神社を歩くタレントが「ここは縁結びで有名なんですよ」と笑顔を見せる。

「縁結びねぇ……」

 俺がため息とともに呟いた言葉はエアコンの稼働音に重なり、俺の頬には温かな風が優しく触れている。慣れ親しんだ大和の家のニオイに包まれた俺は、外の冷たい空気の余韻をほどくように、ゆっくりと意識を手放していった。


 それはとても懐かしくて。

 どこまでも心地よく温かい。

「……」

 何かがそっと触れた、気がして目が覚めた。

「あ、起きた?」

「!」

 視界を埋めるほどの近さから届いた声に、俺の心臓は軽く跳ねた。

「ゴハン準備できたと思ったらさぁ、伊織、寝てるし」

 ソファを背にして座っていた大和の視線は、ソファを占領するように寝ていた俺の視線と同じ高さにあった。

「あー、ごめん。どれくらい寝てた?」

 まだ意識がふわふわとぼやけている頭を持ち上げ、心地よいソファから無理やり体を起こす。

「30分くらい?」

 先に立ち上がった大和が壁にかけられた時計を振り返る。

「マジか。起こしてくれればよかったのに」

 両腕を突き上げ、体を伸ばしながら立ち上がると、つけっぱなしになっていたテレビが目に入る。先ほどの番組は終わったのか、画面を流れるのはCMばかりだ。映し出された赤い箱に、見慣れたチョコレートのお菓子に、意識を手放す前のぎこちない大和の声を思い出し、俺のいたずら心が目覚める。

「なぁ」

「何?」

 キッチンへと向かっていた大和の足が止まる。

「大和ってキスしたことあるの?」

「!?」

 振り返った大和をまっすぐ見上げ、俺はにっこりと笑ってやる。

 先ほどの映像で、俺はつい10日ほど前の出来事を思い出したのだ。

 女子に迫られたゲームは、大和が箱ごとお菓子を奪ったせいでやることなく終わったけれど、確かあれはキスしそうになるルールだったな、と。

「なぁ、なぁ、どうなんだよ??」

 幼なじみ歴の長い俺は、大和に彼女がいたことがないのはもちろん知っている。

 それでも恥ずかしさを隠して逃げようとする大和を、ただ、見たかっただけだ。

 そうやって当たり前にからかって笑って、いつもと同じ心地の良い空気を感じたかっただけなんだ。

 ——だから、耳まで真っ赤になった大和が俺から顔を背けて放った言葉に、俺は息を忘れた。

「どうって、あるに決まってんじゃねーか」

「!!」

 全く予想していなかった返答だった。

 うまく言葉が出てこない。

 え?

 今、なんて?

 恥ずかしさからか、怒りからか、大和の顔はその大きな手でも隠しきれないほど赤くなっている。

 ドクン……ドクン……

 熱を高める大和とは対照的に俺の体からは熱が消えていく。

 ドクン……ドクン……

 心臓がやけにうるさくて、何か言葉を続けようとする大和の声がうまく聞こえない。

「……」

「おい、なんでそこでビックリ顔なんだよ」

 言葉を失ったままの俺を見下ろし、大和がため息をつく。

「いや、だって」

「忘れたとは言わせないからな」

「?」

「だーかーらー、お前だろうが、俺のファーストキス奪ったの!!」

「!?!?」

「お前、本当に覚えてないのかよ!?」

「え、いや、」

 は?

 俺?

 俺なの??

「幼稚園のときの劇で……」

「あー、アレか!アレね。あったね、そういえば」

「あったね、じゃねーよ。まったく」

 大和はあんな子供の頃の事故のような出来事を、律儀にカウントにいれてるってこと?

「……」

 ふわりと、熱が戻る。

 俺と大和はまるで兄弟のように家族のような距離感で育ってきた。

 それなのに、大和の中で俺は「兄弟」でも「家族」でもないのだと、そう言われた気がした。少なくとも大和の中で、俺はちゃんとキスの相手にカウントされるらしい。

 あー、やばい。

 くすぐったくて、笑えてくる。

 これはもう、大和をからかい続けてごまかすしかない。

「大和は忘れられなかったの?俺とのキス」

「!!そんなの、とっくに忘れたに決まってるだろうが」

 先ほどとはまるで違う、矛盾だらけの、予想通りの大和の反応に俺は笑いをこらえきれなくなる。

「ふ、ふは、あはははは」

「伊織の分まで食ってやる」

「お腹壊しても知らないよ」

「……」

 俺の言葉にムッと眉を寄せながらも、大和はお皿を二枚持ってキッチンへと入っていく。

「……あとでポッキーでも買ってこようかな」

 俺はコップに麦茶を注ぎながら、言葉を小さくこぼす。

 キッチンでシチューを温め直していた大和が、カウンターから顔を覗かせる。

「なにか言ったか??」

「ううん、なにも言ってないよ」

 今はまだ——



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