『誕生日*当日』side伊織


 何かが変わった、そんな気がした。

 けれど、それを知るのがこわかった俺は、その背中を見送ることなく踏み出した。

 音もなく伸ばされた手の意味を知りたくて、でも、知るのがこわくて、いつもより早足で歩き続ける。

 あの時、俺が何も言わなかったら、大和は、あの手は、どうなっていたのだろう。

「……」

 変わることはない、と思っていた。

 俺がどんなに変わっても、大和だけは変わらないのだと。だから、この距離は、この関係は、ずっと続いていくのだろうと。そう思っていた。そう思えたから、少し無茶な素振りをしても、ほんの少しはみ出してみても、何も不安なんてなかった。変えてみたいと、変わりたいと、自分の中では冗談のように吐き続けられた。変化が起きるように自分から仕掛けておきながら、どこかで変わるはずはないとタカを括って、安心していた。だから、いざ、その兆しが見えると途端に怖気付いた。本当はこわかったから。変化の先にあるのが、「幸せ」だけなんて、そんなふうには、俺は、とても思えなかったから——


「伊織?」

 チラシに埋もれる郵便物を片手に振り返った母さんの腰に結ばれたコートのベルトが揺れる。自動ドアを抜け、エレベーターへと向かっていた俺の足が止まる。

「あ、お帰りなさい」

「今、素通りしようとしたでしょ?ポストの前を通る時は確認してって言ってるでしょ」

 不要なチラシを備え付けのゴミ箱に放り込んだ母さんは、手元に残った封筒で俺の肩を軽く叩いた。

「あー、ごめんなさい。ぼーっとしてて」

 俺がエレベーターのボタンを押しながら適当に答えると、メガネ越しに向けられる大きな瞳が「風邪でもひいた?」と不安げに揺れる。

「熱は?」

 額に向かって伸ばされた白い手を、俺はそっと振り払う。

「ないよ。本当に風邪じゃないから大丈夫」

「そう?それならいいけど。寒くなってきたから気をつけてね。雪も降り出したし」

「え、」

 思わず出入口へと振り返った俺の耳にエレベーターの到着を知らせる音が響く。

 先に乗り込んだ母さんが「9」の数字を押した指の先、ベージュ色の爪が小さく光る。

「雪、気づかなかった?」

「ドアが閉まります」と言った機械的な声とともに動き出したエレベーターの中で、母さんが視線を振り返らせる。柑橘系の爽やかな香水の香りが閉め切られた箱の中でふわりと舞う。

「うん。ちょっと考え事してたから気づかなかったみたい」

「考え事ねぇ……あ、今日、大和くんの誕生日じゃない?」

 階数表示が「9」を示し、ドアが開く。

 母さんはエレベーターを降り、カバンから鍵を取り出すと、少し声を弾ませて言った。

「今年もちゃんと『おめでとう』って言ってきたんでしょう」

 そう言って笑う母さんの表情かおが俺によく似ていると最初に言ったのは大和だった。

「……言ってきたけど」

「そっか、そっか。それで雪にも気づかなかったのか」

「なにそれ?どういう意味?」

 鍵の回る音が静かな廊下に響く。

「ふふ、だって昔からそうじゃない」

 開かれたドアの先でライトが光る。

「?」

「何事も器用にこなす伊織が悩むのなんて、大和くんのこと以外ありえないもの」

「!?そんなこと、」

 黒いパンプスのヒールがカツンと乾いた音を立てる。

 コートを脱ぎ、黒のパンツスーツ姿になった母さんが少し意地悪く笑う。

「いいじゃない。そんなに悩むほど仲がいいってことでしょ」

「だから、別に大和のことを考えてたわけじゃないから」

 俺はスニーカーの紐を解きながら、廊下の先を歩く母さんの背中に声を飛ばしたが、「あー、お腹すいたぁ。伊織、ご飯よろしくー」という母さんの明るい声にかき消された。

「……ったく、なんだよ、ソレ」

 俺はそう呟きながらも、少しだけ温かくなった指の先で、ポケットに突っ込んだままだったチケットを握りしめた。

 変わりたくない。

 変えたくない。

 それでも、変わっていくものがあるように。

 変わらない。

 変えられない。

 変わることなく残り続けるモノも確かにある。

 だったら、俺は——



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