「他者を守る」回路の欠落

ときどき痛感する自分の欠点に、

・他の人や生き物を守れないこと

があります。

それをするための回路が、自分の脳みそからごっそり欠落しているのでは? とさえ思います。


具体的に言うと、命あるものの世話をしたいと、あまり思えません。

例えばペットとか観葉植物とか欲しいと思ったことがほとんどありません。世話をするのが面倒にしか思えないからです。実際小学生の時には、飼っていた金魚の世話を怠って死なせたこともあります。

高校生の時に受けた、小さな子供と触れ合う授業のことを振り返っても、その欠落を強く感じます。他の生徒たちが笑顔で子供と触れ合う中、自分は目の前の子供に対して笑顔にもなれずろくに触れ合えもしなくて、クラスメイトから「もっと触れ合えよ!」と突っ込まれました。


それから、「人を助けるためにとっさに身体が動く」ということも、自分にはありません。

例えば運転免許返納した(https://kakuyomu.jp/works/1177354054895092612/episodes/1177354054921926400)日、本当に返納するか迷いながらも、自分はバスで運転免許のセンターに向かっていました。そこで隣に座ってた人がパスケースを座席に落とした時、自分はそれが落ちないように押さえるどころか反射的に身体を少し引いたため、あえなく床に落ちたパスケースを持ち主が自分で拾っていました。

同じようなことが、昔から何度もありました。だから、そのパスケース事件で改めて、

「自分は目の前の人が危険にさらされていても、きっととっさの判断を誤る」

と痛感したことが、免許返納の決め手の一つとなりました。

車の運転に限らず、例えば警察官とか消防士とか自衛官とかの「人を守る仕事」も、自分にはまず無理だと思います。


そのことでも、やはり家庭環境に原因があるのではと疑っています。

弟の話をしたとき(https://kakuyomu.jp/works/1177354054895092612/episodes/1177354054917467755)や祖母たちの話をしたとき(https://kakuyomu.jp/works/1177354054895092612/episodes/1177354054917783531)にも書きましたが、肉体的・精神的な暴力が幼少期から当たり前だった家庭で、自分自身それにじっと耐えたり、第三者がそれを受けるのを傍観していたりしたために、

「人間は憎しみ合って傷つけ合うもの」

と認識する回路ばかりが育って、

「命あるものを守りたい!」

「他人を助けたい!」

と思う回路のほうが潰されてきたのかもしれません。


ただ自分も、後者の回路を全く失ったわけではないと思います。たまには小さな人助けもしますし、この雑記も、少しでも読者様の役に立ったら……という思いで書いています。

言い換えると、人間として欠落がある自分でも、できる範囲で何か役に立てたらいい、と思っています。

この記事が、同じような欠落を感じられてるかたの気持ちを楽にできれば幸いです。

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