鳥籠の蒼
未翔完
鳥籠の蒼
天井を見上げた。
そこには、白しかなかった。
それは当然のこと。僕は家の中で、ソファに座っているのだから。
「もう何か月、学校行ってないんだろ?」
ふと呟いた。その言葉だけ切り抜いたら、まるで僕が不登校のよう。だけど学校に何か月も行っていない学生は、僕以外にもたくさんいる。
それも日本中に。……原因は言わずもがな。
COVID-19、いわゆる新型コロナウイルス感染症だ。
去年の年末頃から中国・武漢に端を発したこの感染症は、当初の政府見解とは裏腹に世界的な感染拡大を続けた。
日本でも、緊急事態宣言に伴って外出自粛がしきりに喚起されたが……。
感染状況の緩やかな改善とは別に、一つの革新的な選択肢が叫ばれた。
すなわち〈日本全国の学校における9月入学〉である。
まだ感染が終息したとは言えない状況下で、何か月も外出自粛で登校できていない学生たちが今までの勉強の遅れを取り戻すというのは、中々に無茶な話。
その為、この意見が提案されたのだ。それについて、様々な議論が慎重かつ迅速に話し合われた。結果、6月の上旬に政府発表で9月入学が決定されたのである。
そして。今は7月下旬、例年なら夏休みが始まる頃だ。外からはミンミンと、蝉たちのうるさい大合唱が聞こえる。
学校の教員たちは9月入学という大改革に合わせる為、夏だというのに大忙しのてんてこ舞いらしいが……。
僕のような学生は、学校から課せられた大量の課題を消化する以外は暇である。
因みに僕は16歳。6月に誕生日を迎えた新高校一年生だ。
いつまでも入学ができないという事実に、5月頃まで
僕は中学の頃、卓球部に所属していた。運動するのは元から好きで、だからこそこの4か月以上の外出自粛にはとんでもなく嫌気がさしていたのだ。勿論毎日家での運動や筋トレは欠かしていないが、それでも限界というものがある。
そして今は、午前中からダラダラとソファの上で時を過ごしていた。しばらくそうしていると、一瞬だけ脳裏にある光景がフラッシュバックした。
「そういや……去年の今頃は総体に出てたんだっけ」
去年の7月下旬。ちょうど一年前の夏。
毎年、市で行われている卓球の
「
「
右手には、シェークハンドでラケットを。
左手には、真っ白なスリースターボールを持つ。
身には、僕の名前を現すかのように蒼いユニフォームを纏い。
背中には、大きく〈東野〉と書かれたゼッケンが。
目の前には、前傾姿勢を取る強豪校の対戦相手。
僕の表情は極めて冷静かつ真剣。ただ、心臓はとにかくひどく強く高鳴り。
その緊張を更に増幅させているのは、前後から受ける声援であった。
「四回戦、勝つよー!」
「まず一本決めろ!」
前方上部の観戦席からは、部活のメンバーたちの熱い応援。
背後で座っているアドバイス係や顧問からも叱咤激励の嵐。
気づけば多量に分泌されていた唾を呑み込み、一度深呼吸。
けれど、この心臓の高鳴りは決して止むことは無いのだろう。
それは試合開始前の練習の時から。いや、それよりもずっと前。
今までずっと僕は、この瞬間を望み、頑張ってきたのだから。
……だから、僕は。
「試合開始!」
全力を尽くし、目の前の相手をただ打ち倒すのみ。
その意思の前には声援による緊張など、些細なことだ。
「一本!」
僕は声を出して自らに喝を入れると、最初のサーブを決めた。ボールを真上に上げ、ラケットがボールの下を力強く掠めるように放つ。
典型的な下回転サーブだ。これで相手がどのように返してくるか。
まずはお手並み拝見。練習後にラケット交換をしたときに確認したが、相手のラケットにはどちらの面にも粒高が無かったので、逆回転で返ってくることはなさそうだ。それに持ち方も僕と同じシェーク。戦型もなるべく同じであった方が、戦略の立てようもあるが……。
――カッ……。
「ふっ……!」
相手は順当にフォアツッツキで返してきた。そこまでは予想通り。
しかしそのボールは早く、しかもかなり強い下回転。何とかバックツッツキで返せたが、少し僕の方が押されている感じだ。
この相手……。強豪校の三年だけあって、僕以上の実力と気迫を感じる。
けど僕だって、負けるわけにはいかないんだ――!
カッッ―――!
「――っ!?」
瞬時に返された送球に、僕は目を見張った。
あまり高くも低くもなく返したつもりのボールだったのに、それを相手は回転を打ち消すようにスマッシュで応酬してきたのである。
これが強豪かと唇を噛み締めそうになった。だけどそんなことをしている間にも、ボールは僕のコート上で一度跳ね、得点を掻っ攫おうと落ちていく。
僕はまたも、何とかボールを捉えて送球した。スマッシュの勢いもあって、半分受け身で返した割にはスピードも強さもある返しだ。
カッ――!
「……!」
そして返ってきたのはまたもスマッシュ。ボールは左へ。
これは消耗戦だ。どちらかが球のスピードに追いつけなければ、即終了。
体力はそれなりに失われるだろう。まさか、一本目からこんな展開になるとは。
だが、着実に最初の一本は取っていきたい。素早いボールの動きに反応し、足を並行に動かす。卓球において、反復横跳びの練習が重要なのはこの為。
追いつき、相手がいる位置から離れた左側にボールを打ち込む。
正しいスマッシュのやり方で、片足を前に踏み込みながら。
――カッ!
「ッ……!」
相手がなるべく追いつけない場所に打ったが、流石は強豪。
すぐに動きに追いついて、逆に自分の真正面にボールを打ち放つ。
体の向きを変えてフォアハンドという手もあるが、この鋭く速いボールに対してはまず追いつかない。その為僕はバックハンドでのスマッシュを繰り出した。
狙いは、左側へと誘導した相手の隙。右端だ。
この試合会場の蒸し蒸しした空気により、汗が止めどなく溢れ出る中で。
周りの歓声も、他コートでの試合も、何もかも忘れ。
僕は目の前の相手と中学最後の卓球で、運命を賭けた試合をしていた。
―――カッッッ!
刹那。
対戦相手は一気に右端へと移動しつつ、僕と逆方向の右前へ。バックスイングの後に大きく踏み込みながら、スピードドライブを繰り出したのであった。
「ッ………!」
何とか移動して、強烈な打球を阻止せんとするが追い付かない。
ボールは既に綺麗な弧を描いて台上に着弾し、床に落ちようとしている。
このまま僕は、一点を相手に与えることになるのか……!?
いいや、絶対に諦めない。追いつけるかどうかは問題じゃない。
このまま傍観して、点を取られることになるのがあまりに悔しいんだ。
僕は移動しながら球を打つような態勢になった。
本来ならば、姿勢が崩れるのでやってはいけないこと。けれど、このまま追いつけずに点を取られるわけには……!
髪や肌から汗がポタポタと滴り落ちる。
追いつけ。追いつけ、追いつけ――ッ!
「……結局、負けちまったんだよな」
僕は静かに目を閉じる。脳裏には、未だ鮮明な映像が残っていた。
最後の総体で、僕は四回戦まで進出した。
しかし、そこで当たった強豪校の三年相手に3-1で敗北した。
かなりの強者だったようで、むしろ1セット取れたことに今更ながら自分を称賛する。試合が終わった後は、珍しく泣き崩れてしまったから。
あの時のことは……恥ずかしすぎて思い出したくない。
けど一つ言えることは、僕はただひたすらに懸命に戦った。確かに負けた後の悔しさはあったが、中学での三年間卓球をやり続けてきて良かったと心から思った。
そういう意味で名残惜しさは消え、受験勉強に全力を尽くすことができた。
そして自分が行きたかった高校に合格。そこにも結構強い卓球部があるらしいので、入学したらすぐに入部するつもりだった。……なのに。
「学校にも行けず、卓球もできず……。毎日家の中。
なんでこんなことになっちまったんだよ……」
そうぼやきつつも、原因は当然の如く分かっていた。
結局のところ、新型コロナのせいなのだ。そのせいであと1か月以上も家での待機を命じられ、友達と遊んだり卓球をすることすらできない。
毎日家の中で。勉強して、家の中で運動して、ゲームをして。
同じようなことばかりを繰り返している。これじゃ飼い殺しみたいなものだ。
「……飼い殺し?」
その時、面白い考えが浮かんだ。
仮に僕が飼い殺しにされている鳥だとすると……。
さしずめ新型コロナは、僕を閉じ込める為の〈鳥籠〉だと。
「
そう言いつつも、口元は
あまりにも今の僕の状況を的確に表していて、呆れ乾いた笑いがこみ上げてきたのだ。本当に、全く笑えない冗談だ。
そんな笑みも顔から消え去ると、何だかジメジメとした暑さが全身を襲う。
今日も昼に近づくにつれて猛暑になるらしいので、当然のことか。いつもならすぐにエアコンをつけたくなるが、僕の視線はそのリモコンではなくガラス窓の外に向けられていた。
「ちょっと換気して、風にでも当たろうか」
僕はガラス窓を開け網戸だけの状態にしつつ、外へ。
ウッドデッキを抜け、サンダル姿で庭へ出る。
相変わらず蝉は鳴き、日差しは厳しく僕に襲い掛かる。
だけど吹き抜ける風は心地良くて、今までの陰鬱とした感情がスゥーッと消えていく気がした。良いストレス解消法だ。
空を見上げた。
そこには、雲一つない蒼穹があった。
本当に何一つない青空で、ふとこう思った。
あの空へ、飛び立ちたいと。
「……ああ。そうか」
僕はまだ、鳥籠の中に囚われたままの鳥だ。
けれどそれは永遠ではない。いつか。
いつか鳥籠から放たれ、蒼穹へ飛び立つ時が来る。
その時の為に、決して下を向かず。
いつか飛び立つことを信じて、歩み続けるべきだ。
決して希望を捨ててはいけないのだと。
ふと、そう想った。
僕はしばらく、その蒼穹を仰ぎ続けていた。
鳥籠の蒼 未翔完 @3840
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