枯れ葉のぬくもり【短編】

河野 る宇

◆枯れ葉のぬくもり

 それは、枯れいずる木の葉のように。一枚、また一枚と記憶が落ちてゆく──。

 それでも、落ちた枯れ葉が地に降り積もり根を守るように、暖かな時間がゆっくりと過ぎてゆく。

 隣には、何十年と寄り添ってきたおじいさんが遊具ではしゃぐ子供たちを眺めている。孫でもなんでもない、誰の子かもわからない。

 それなのに、貴方の瞳は優しくて。

 何度も別れてしまおう。そう決意した頃もあったけど、気がつけばお互い歩くのも億劫な歳まで一緒にいる。

「不思議な縁ですね」

 ふいに突いて出た言葉に、おじいさんはきっと何のことか解らない。

 解らないはずなのに、

「そうだなあ」

 と、わたしへの返答なのか呆けた声が耳に届いた。

 わたしとおじいさんは幼なじみでもなんでもなく、友達の恋人の友人という知人程度の間柄だった。

「そういえば。ナンシーは元気かしらね」

「ナンシーとは誰じゃい」

「嫌ですねおじいさん。あなたの元恋人ですよ」

「いつの話をしておる」

 呆れたおじいさんを横目に小さく笑う。

 おじいさんはわたしと付き合うまえ、アメリカ人の女性と付き合っていた。わたしは何故だか、愚痴なのかのろけなのか解らない話を何も言わずに聞いていた時期がある。

「あら?」

 そうだ。知人くらいの認識の人だったのに、どうしてわたしは彼の話を聞く関係になっていたのだろう。

 あれはまだ二十歳を少し過ぎたころだったろうか。

 わたしには親友と呼べる同級生の友達が一人いて、お互いの友人を誘ってバーベキューをしようという話になり、集まった十数人のなかの一人に彼がいた。

 わたしから見た彼の印象といえば、明るくも暗くも、派手でもない。いわば、興味のない人だ。

「おじいさん」

「うん?」

「あのときはごめんなさいねえ」

「いつの話をしておるんじゃ?」

 困惑するおじいさんに思わず笑みがこぼれる。

 そのときは沢山の人のなかにいて、彼が目に留まることなどなかった。

 彼が一番の目玉であるブロックステーキを地面に落とすまでは──みんなのどよめきと落胆の声のなか、彼はそれを拾い上げ慌ててついた汚れを水で洗い流した。

 その時点でもうその肉は薄味という印象がたち、誰もかたまり肉に興味を示さなくなっていた。

 みんなでお金を持ち寄って買ったものなのに、残念でならなくて落とした彼に怒りを感じていた。

「ほんとう。何も言わないんですもの」

「なにが……」

 あとになって友人の一人が彼の背中を突いたんだと知り、わたしは、それっていじめじゃないのかと驚いた。

 そして彼に対しての申し訳なさと、いじめた人への怒りがふつふつと湧いてきた。

 しかしよくよく聞くと、会話の流れでちょっと小突いた程度であって落とすほどの勢いではなく、まさか落とすとは思っていなかったらしい。

 だから、彼は自分の過失として黙っていたのだろう。小突いた友人がみんなに説明していればと思うけれど、今さら言っても仕方がない。

 彼が笑いにしていればとも思いつつ、それが出来るほどには、あのときの彼にユーモアセンスも勇気もなかった。

 でも、あのあと彼が調理し直して焼いた肉は凄く美味しかったのを覚えている。

 ──不器用で料理の上手い人──それが、彼の印象になった。そんな人の恋人がよもやアメリカ人だなどと、誰が思うんだろう。

 彼の静かなところに惹かれたそうだけど、彼女には大人しすぎたのか、不満が溜まってとうとう別れた。

「あれ。待って」

 その恋人の愚痴を聞く関係になったところが思い出せない。

「ねえ。おじいさん」

「なんじゃ」

「貴方の恋人の愚痴を聞いたきっかけって、なんでしたっけ」

 おじいさんは「なんでいまさら……?」という顔で眉間のしわを深く刻み、わたしを見つめた。

「そんなもん忘れたわい」

「本当ですか?」

 疑わしい眼差しを向けたが視線を外された。

「なんだったかしら。別れた理由は覚えているのに」

 抜けている記憶がどうしても気になるのだけれど、覚えていないのだから仕方ない。おじいさんと付き合い始めた時期も、実はぼんやりとしか覚えていない。

 出会ったとき、おじいさんと彼女との仲はすでに冷めていて、いつ別れてもおかしくない状態にあった。

 若いときのおじいさんは、イケメンでもブサイクでもなく。やはり普通の人で、どちらかと言えば引っ込み思案だった。

 会話が続きそうにもないひと──カフェでそんな印象が追加された。

「あれ? 待ってよ?」

 カフェ? どうして唐突にカフェでの場面が出てきたの。

 そうだ。おじいさんと再会したのは、カフェの入り口だった。チーズケーキが評判の店があると知り、一人でそこに向かったら、扉の前でばったり出会った。

 別々の席に座るのも変な気がして、同席したんだ。

 彼は店の常連に近い状態で、店内に入るとマスターらしき人が彼に軽く会釈した。彼も同じく会釈で応え、後ろにいたわたしにマスターが少し驚いていた。

 あれは、ナンシーじゃなかったからなのかどうか、今となっては解らない。

 わたしとおじいさんが付き合い始めたのは、ナンシーと別れてしばらく経ってからだったと思う。

 でも、どうしてだか告白などされた記憶がまるでない。

 いつの間にか付き合い始め、いつの間にか互いの親と挨拶し、いつの間にか、わたしはおばあさんに、貴方はおじいさんになっていた。

 がむしゃらに走り続け、長いと思える年月としつきに幸せだけじゃない沢山のことがあったはずなのに、思い出すのはおじいさんとの楽しい日々ばかり。

 苦しいことを思い出せば辛くなる。だから、思い出さないようにしているのかもしれない。

 それでも、それらを差し引いたとしても──

「ねえ。おじいさん」

「うん?」

「温かいですねえ」

「そうだなあ」

「あ──」

 ずっと覚えていることがあった。思っていることがあった。

 わたしは、貴方のはにかんだ顔が好きだ。

 いま、貴方とこうして太陽の光に照らされて、枯れ行く花が大きく咲いている気分になる。

 いつだって、貴方はわたしをそんな気分にさせてくれる。

 だから、

「ありがとう」

 その言葉に、わたしの大好きな貴方のはにかんだ笑顔が応える。

 だからわたしは、

「幸せですよ」

 貴方にそう、告げていたのだ。




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