失わせる神さま

このはりと

失わせる神さま

「ねえ、知ってる? その神さまにふれられると、一番大切なものを取られちゃうんだって」


 失わせる神さま。わたしたち女子の間では、そんな噂がまことしやかにささやかれていた。



 *



「なあ、さくら。やっぱり嫌だったか。プレゼントが形見だなんて」

「ううん、そんなことない。好きな人からもらったものなんだから、うれしいに決まってるよ」

「なら、よかった」


 わたしの好きな人──宗治そうじくんは笑ったけれど、どこか寂しそうにしている。いつもは快活にはねている短い髪が、心なしかしおれて見えた。まただ。彼の表情を見て、そう思った。わたしの言葉には、恋人を喜ばせるだけの力がない。「好き」と伝えるだけでは補えない、何か、とても大きなものが、わたしには足りないのだ。それが何であるのか、本当はもう知っているというのに。


 *


 わたし、三和土たたき桜には彼氏がいる。小学生のときに結婚を約束して、中学になったばかりの今も続いているお付き合い。名前は金春こんぱる宗治くん。


(結婚したら、金春桜こんぱるさくらになるんだ)


 金色に輝く春に咲く、桜の花。こじつけぎみだけれど、文字だけ見れば春爛漫はるらんまん。なんて素敵な名前だろう。思わずうっとりしてしまう。


「桜、きれいだな」


 いつもの帰り道。見上げた彼が、そう口にする。どきりとした。わたしは照れ隠しに、ふたつに分け、肩から胸に流した髪の片方を撫でる。宗治くんは川辺にあるソメイヨシノを見て言ったのだ。紛らわしい。そう抗議しようと彼の方を見ると、すぐとなりにぼんやりとした、人が落としたものでない影が揺らいでいた。先ほどとは違う、背筋の凍るどきり。


(あれって、まさか……)


 わたしは彼に気づかれないよう足早に先を歩く。別れ際、「また明日」と声をかけられ「うん」と返事はしたが、振り返らなかった。なぜって? 後ろにはきっと、噂の神さまがいたはずなのだから。宗治くんには申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


 *


 翌日の朝、妙に心臓がどきんどきんとして目を覚ますと、実体のない歪んだ像がわたしを覗き込んでいた。悲鳴をあげそうになるのを、口を両手でふさいでこらえる。しかし、足に力が入らずへたり込んでしまう。体の底からくる震えと、流れる涙。逃げられない。思考は乱れているはずが、ひとつだけ鮮明なものがあった。噂になっている「失わせる神さま」である。ふれられたら、わたしは大切な何かをなくしてしまうのだ。そう覚悟したとき、影がそっと髪を撫でた。全身に鳥肌が立つ。

 腰が抜けて思うように動けずあたふたしていると、騒ぎに気づいてやってきた母がドアを開け、わたしはころんと廊下に転がり出た。恐怖から母の脚にすがりつく。おののくわたしに気づきもせず、母は感嘆の声をあげた。


「あら。どうしたの、それ。みやびな髪飾りね。その花は深山八重紫みやまやえむらさきね」


 髪をさわると、そこには宗治くんからもらった髪飾りがあった。つけた覚えなどない、きれいな青い色の花簪はなかんざしが。

 わたしは髪飾りを乱暴に掴むと、夢中で駆け出した。恋人からの贈り物──しかも、大切にしていたおばあさんの形見──のはずなのに、怖さがまさり、捨ててしまいたくてたまらなかったのだ。持っていたところで、どうせつけもせず箱にしまいっぱなし。「ある」と嘘をつきとおせばよいのだから、なくたって大丈夫。いつの間にかたどり着いた川辺で、わたしはひといきに髪飾りを投げ捨てた。


「こら。感心しないわね。いい子の桜ちゃんが、川に物を捨てるなんて」


 息を切らすわたしを、覚えのある声がたしなめた。目にうつる、深く鮮やかな青色のカーディガン。友人を通じて知り合った、千歳緑ちとせみどりさんという女性である。


 *


「ねえ、桜ちゃん。花筏はないかだ、覚えているかしら」

「わたしが昔に考えたなぞなぞですね。答えられたのは緑さんだけでした」

「まったく、小学一年生が、よくあんなに難しいものを考えられたわね。わたし、一度は降参したのよ」

「母がお花が好きで、風流な言葉をたくさん教えてくれたんです」


 緑さんは三十歳を超え、画家になる夢を叶えた女性だ。今度、小さな美術道具屋さんで個展を開く運びである。展示される絵は、全部見せてもらっていた。青い紫陽花あじさい、雨に咲く色とりどりの傘の花、一枚の短冊が結ばれた七夕飾り、闇夜に浮かぶ提灯ちょうちん、十五夜のお月様、どれも美しい絵だった。中でも一番のお気に入りは、桜の舟に乗る女の子の絵だ。


「あの絵のモチーフは桜ちゃんなのよ。川はもちろんここ。そんなすてきな思い出のある場所なの。何があったの? 話、聞かせて──?」


 柔和にゅうわな笑顔を向けられ、わたしは胸の内にある恐怖を打ち明けた。宗治くんのそばにいた影と、今朝わたしの部屋で見た実体のない像、そして「失わせる神さま」の噂。怖い思いを伝えているはずなのに、話しながらまるでお母さんといるような安堵に包まれるのを感じる。そういえば、と思い出す。わたしの仲良しの女の子は、こうして緑さんにたくさんのお話を聞いてもらっていたそうだ。対面してみるとよくわかる。彼女は聞くのが上手で、何でも話したくなってしまう。


 *


 ひととおり話し終えると、緑さんはわたしを連れ立って川へ向かって歩き出した。


「一緒にさがしてあげる。いい。いっときの感情で物を捨ててはいけないわ。きっと後悔するから。たとえばそれが、大切な人からもらった物なら、なおさらね」


 彼女はいたずらっぽくわたしに笑いかける。「でも」と言いかけたとき、緑さんの姿はすでに川の中にあった。


「桜ちゃんはさっきの噂話、ひょっとして怖いものと決めつけていない? 確かに、神さまというより幽霊のようだから、怖がるのも無理はないわ。けれど、彼のそばにいた、髪飾りをつけてくれた、どちらもあなたから何かを奪おうとしたようには思えないのよね」


 緑さんは至って冷静である。実際に見ていないからそんなことが言えるのよ、と少し腹立たしくもなったが、悪さをされていないのは事実だ。でも、噂とは何の根拠もなしに広がるものだろうか?


「失わせる、か……。桜ちゃんが髪飾りをつけたら、何かなくすものはあるかしら?」


 不思議なことを言う人だな、と思った。噂を怖がるみんなとは、まったく違う目線。噂の真実──それを謎とするなら、彼女は誰よりも“こたえ”の近くにいるような、そんな気がした。それっきり話すのをやめ、緑さんとわたしは、わたしが故意になくそうとした物を探し続けた。

 この川に入るのは、小学生の頃、母に叱られて以来だ。そっと手を差し入れると、緩やかな流れが心地よい。コツンと手に何かが当たる感触があった。川面に揺れる青色の正体は、見るまでもない。引かれ合ったとでも言うのだろうか。髪飾りはあっさりわたしの手に戻ってきた。

 緑さんは別れ際に、「ひとつ、失われなかったわね」と言いながら微笑んだ。


 *


 見つけたそれを手に家へ帰ると、すぐに登校の支度をする時刻になった。


(身だしなみ身だしなみ、と)


 髪ははねていないかしら。ボタンのかけ違いは、大丈夫。スカートのすそを手ではらって、と。


(それから──)


 ポケットに忍ばせた、青い紫陽花のあしらわれた髪飾りを取り出した。わたしの誕生日に彼がプレゼントしてくれたもので、今朝わたしが捨て、すぐに手元へ戻ってきた。なぜかそうしなければならないと感じて、今日、初めてつけてみる。影を思い出すと、正直に言って怖い。似合っていなかったらどうしよう、の不安もある。けれど──。


(宗治くんなら、きっと気に入ってくれる、よね)


 彼の喜ぶ顔を想像して、迷いを振り切った。


 *


 家を出て少し歩くと、彼との待ち合わせ場所にたどり着く。宗治くんの姿を見つけて、恥ずかしさのあまり俯きかけたが、「それじゃあ、今までのわたしと変わらないじゃない」と気持ちを奮い立たせ、思い切って顔をあげる。


「桜、それ……」


 宗治くんはすぐに気づいてくれた。そして、照れくさそうにしながら、今まで見たことのない笑顔をわたしに向ける。うれしい。そう思いわたしも気持ちを返そうとしたとき、それを見てしまう。

 彼のすぐそばに、ぼんやりと揺らぎ、気のせいか人をかたどった像。深く息をはき、わたしはそれには目をやらず、恋人の瞳を真正面から見つめた。今、見るべきは噂の主なんかじゃない。


「宗治くん。せっかくのプレゼント、遅くなってごめんね」

「よく似合ってる。つけてくれて、うれしいよ」


 こうしてわたしは、好きな人を、本心から喜ばせることができた。わたしがしたいと思い、それが彼の望みを叶えたのだ。

 その後、わたしの前に黒い影は現れなくなり、いつしか神さまの噂はひっそりと消えていった。わたしから失われたものがあるとしたら、それは──。



 おしまい

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