2010年 夏(やり直し)
「俺みたいな選ばれざる者は、どうすればいいんだよ……?」
通話がぶつりと音を立てて切れたとき、駿一はようやく我に返った。違う。明は関係ない。八つ当たりなんて最低じゃないか。明に謝らなければ。
電話をかけ直すと、「おかけになった番号は……」というアナウンスが流れた。電源を切ってしまったか、着信拒否か。いずれにせよ、電話より直接会うべきだと思い直した。できればいますぐに。でもいまごろ、明は自転車で走っている最中だ。電車やバスでは追いつけないし、詳しい家の場所までは知らなかった。明日まで待って、文学部棟に明が現れるのを待つしかない――はずだった。
ヒヒィーン! ブルルルルル!
なぜだか馬のいななきが聞こえた。幻聴ではない。真っ白なサラブレッドが忽然と現れ、潤んだ瞳で駿一を見つめている。
なぜこんなところに馬が? どこかの競馬場から逃げ出してきたのか? しかし、紫のゼッケンに白抜きで馬名が書いてある。「ザチョーズンワン」、片仮名でもご丁寧に定冠詞つきだ。
駿一は悟った。これは間違いなく自分の馬だ。
『早く乗れ! 明を追いかけるんだ!』
駿一は乗馬なんてしたことがない。ましてや耳元で、アニーと名付けられた自分の幽霊が必死で叫んでいるとは知る由もない。それでも、意を決して白馬にまたがった。法学部の駿一は知っている。馬は道路交通法上、軽車両扱い。公道を走ってもかまわないのだ!
首都高の下を国道が併走している。白馬は駿一を乗せて、車と車の隙間を縫うように駆け抜けていく。駿一が操っているのではなく、アニーの命令通り走っているのだ。人々が驚いて白馬の王子様を指さすが、駿一は身を伏せていて気づかない。
道路が渋滞している。少し先に首都高の入口が見えた。迷わず駆け上がると空が一気に開けた。ETCゲートは強行突破したし、そもそも軽車両は走行禁止だ。それがどうした、罰金なら後で払う! 僕はまだ一億持ってるんだ!
「そこの車……じゃなかった、馬! 止まりなさい!」
運悪くパトカーに見つかった。だがアニーの眷属は、けたたましいサイレンの音にもひるまない。
駿一の馬は高く跳ねた。ちょうど明が、下道をとぼとぼと走ってきたところだった。人馬一体となった駿一とザチョーズンワンは首都高のフェンスを飛び越え、傾きかけた真夏の太陽を遮って明の眼前に躍り出た。
「あきらーっ!」
アニーと駿一が同時に叫んだ。
とはいえ、首都高の高架から飛び降りたらただではすまない。駿一は馬の背から放り出された。アニーが合図をすると、白馬は太陽の光の中へ姿を消した。駿一の身体は宙を舞ったが、街路樹の枝葉に救われて勢いを弱め、つぶれたラーメン屋の赤いオーニングにワンバウンドしてからうつ伏せに地面に落ちた。
顔面を強打した瞬間、駿一はアニーとひとつになった。痛い。それでも生きている。過去が変わったのだ。
全身が痛い。立てない。
駿一は這いつくばって喘ぎながらも、たじろぐ明の顔をまっすぐ見上げた。明の両目は赤かった。
「明、君に、言ってないことがある」
「な……何?」
「本当は、三億円当たったんだ、宝くじ」
「へえ……すげえな。……それで?」
明の言いたいことはよく分かった――そんなことを伝えるために高速を走ってきたの? 馬で?
「その金で、大学のそばにマンションを買って、家族みんなで引っ越してきた」
駿一は答えた。
「……それと、この顔も」
明の顔から作り笑いが消えていく。
駿一が美しい名前に負けない容姿を手に入れるためには、数千万円と二年の月日を要した。両目を切開して二重にし、頬と顎とえらを削り、鼻にプロテーゼを入れた。顎を引っ込めるために歯を抜き、足の骨を切って身長を伸ばしさえもした。入退院を繰り返したのはそのためだ。
当たった三億円を、両親は好きに使っていいと言ってくれた。未成年だった駿一が、彼らとは似ても似つかなくなるための手術を受けたいと言ったときも、同意書にサインしてくれた。だからこの美しい顔は、名前と同様に両親からの贈り物なのだ。後ろめたい気持ちはない。
「けど……顔は変えられても、中身までは変えられんでなあ」
つい感情が高ぶって、生まれ故郷の訛りが出る。
大勢友だちを作ったり、かわいい子と付き合ったりしたかった。泉水さんのことが好きだったわけじゃない。ただ普通になってみたかっただけだ。そのために顔も身長も変えて、誰も知り合いのいない東京に来たつもりだった。
けれども一度死んでみて、駿一は気づいた。自分が本当に望んでいたのは、もっと別のものだったのだと。
「駿一……」
明は脂っぽい頭を掻きながら、照れくさそうに言った。
「中身まで変えなくても、いいんじゃ、ねえかな……? お前ははじめから、ずっといいやつだよ」
いいやつなのは明のほうだ。服が汚れるのも構わず、駿一を抱え起こしてくれようとする。駿一はその手を強く握り返し、明の目を見つめて言った。
「明、本当にごめん。君は選ばれざる者なんかじゃない。僕が君を選ぶからだ。――できれば君にも、僕を選んでほしい」
まるで愛の告白のようだ。いや、このことを伝えるために死の淵から帰還したのだから、紛れもなく愛の告白なのだ。
「あ、ありがとう」明はどもりながら答えた。「でもお前、ちょっと格好よさげなこと言ってるけど、すげー鼻血出てるし……」
言われるまで気づかなかった。どうりで道行く人がぎょっとした目で通り過ぎ、ときどきくすくす笑っているわけだ。
明に支えられて、駿一はどうにか歩き出す。明の自転車は、さっきの場所に止めたままだ。
「駿一って、昔のあだ名、何だった?」
「『アゴ長ストッキング強盗』。明は?」
「俺? 『ジャバ・ザ・ゲロアキラ』」
「ひどいな」
「本当にひどい」
駿一は明と一緒に大笑いした。笑いすぎて、涙が止まらなくなった。鼻血もまた止めどない。痛くて、ぬるぬるして、気持ち悪い。もう幽霊ではない証拠だ。駿一はユアンにお礼を言いたかったが、どこにも姿は見えなかった。
口元を覆いながら駿一は思う。明の部屋で、ティッシュをもらおう。
選ばれし者の帰還 泡野瑤子 @yokoawano
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