2010年 夏
泉水さんとは水曜以外にも同じ授業が多く、自然と行動を共にするようになった。漫画本の貸し借りもした。駿一が好きな漫画を泉水さんも気に入ってくれると、まるで自分が褒められているかのように嬉しかった。泉水さんからは、いつの間にか「駿一君」と呼ばれていた。駿一はというと、まだ照れくさくて恵とは呼べないでいた。
反対に明とはあまり会わなくなった。真面目な明は卒業要件の単位をほとんど取得済で、大学には木曜と金曜の午後に文学部棟に来るだけだ。それに三年生になると、成績はテストではなくレポートで判断されることが多い。レポートは自宅のPCで書くから、ヨネダコーヒーに集まることもない。メールのやり取りも、明とよりも泉水さんとすることのほうが多くなった。
駿一は泉水さんと付き合っているとは思っていなかった。同じ授業を受ける日に一緒に学食に行ったり、図書館に行ったりするだけだ。ただ泉水さんはいい子だし、かわいい。付き合ってもいい――付き合えたらいい。いや、付き合ってみたい。それが普通の大学生らしい青春だろう。
「あれ? 駿一じゃん」
夏休み迫る七月半ば、木曜三時間目の後だった。駿一は明と大学構内の図書館前でばったり会った。明は愛用の自転車にまたがっていて、駿一の隣には泉水さんがいた。
明は何かを察した――勘違いしたようで、「邪魔したな!」と慌てて手を振りながら全速力で走り去っていった。
「何、あれ?」
泉水さんは眉をひそめている。駿一が「僕の友達だ」と紹介するより先に、「駿一君の友達じゃないよね?」と言う。
「なぜ、僕の友達じゃないと思う?」
「だっていまの人、太りすぎたヒキガエルみたいだったし」
それが、明に対する泉水さんの――おそらくは普通の人々の評価だった。明の容姿について何の評価も下したことがなかった駿一は、急に冷や水を浴びせられたような気分になった。
泉水さんはもう自分が言ったことを忘れたかのように、「正門まで一緒に帰ろう」と駿一の手を引こうとする。その笑顔は、初めて言葉を交わした日と同じ愛らしさを取り戻していた。
けれども駿一は反射的に、その手を振り払っていた。
「……君も、所詮は凡庸だ」
「え?」
「もう二度と、僕に近づいてくるな」
駿一は立ち尽くす泉水さんに背を向け、裏門へ歩き出した。
分かっている。泉水さんの性根が特別悪いのではない。彼女は普通だ。普通より上の者には媚び、普通より下の者を遠慮なく蔑むのがこの世の普通で、つまり凡庸ということだ。だから駿一にとって「美形だね」と言われるのは、「不細工だね」と言われるのと少しも変わらなかった。泉水さんに話を合わせて、明をあざ笑うなんてできるわけがない。
それでも振り払った手からは、自ら普通の青春を手放した痛みが這うように伝ってくる。
人通りのない裏門を抜けると同時にガラケーが鳴った。明からのメールだ。件名は「おめでとう!」で、「今度なれそめ聞かせてくれよ~(笑顔の絵文字が三連続)」という暢気な内容だった。どこかで自転車を止めてメールしているに違いない。
駿一はカッとなって電話をかけた。「もしもーし」と応じる明は半笑いだ。
「……なぜだ」駿一は口走っていた。
「ん? もしもし、どしたの駿一?」
「なぜ、君なんかのために、僕が普通の大学生活を諦めなくちゃいけないんだ!」
ガラケーの向こう側で、明が硬直したのが伝わってくる。
「……もしかして、俺のせいで、ふられたの? 俺みたいな、気持ち悪いデブが友達だから?」
どちらかというと、ふったのは駿一のほうだ。でも、どっちがふったかなんて問題ではない。
「君なんかと友達にならなければよかった。僕は普通になれたはずだったんだ。僕は……選ばれし者だったのに!」
それは単に自分を憐れむ台詞でしかなかった。あの映画の師匠とは、まるで違う。
何秒間、何分間だろうか。二人はまるで面と向かってにらみ合っているかのように、電話越しに押し黙っていた。
「駿一、ごめんな。でもよ……」
気まずい空気を破ってくれるのは、いつでも明のほうだ。しかしこのとき、明は沈黙よりも重い断絶を選んだ。
「俺みたいな選ばれざる者は、どうすればいいんだよ……?」
通話がぶつりと音を立てて切れたとき、駿一はようやく我に返った。違う。明は関係ない。八つ当たりなんて最低じゃないか。明に謝らなければ。
電話をかけ直すと、「おかけになった番号は……」というアナウンスが流れた。電源を切ってしまったか、着信拒否か。いずれにせよ、電話より直接会うべきだと思い直した。できればいますぐに。でもいまごろ、明は自転車で走っている最中だ。電車やバスでは追いつけないし、詳しい家の場所までは知らなかった。明日まで待って、文学部棟に明が現れるのを待つしかない。
ちょうど、駿一が死ぬ二十四時間前のことだった。
このまま過去が変わらなければ、翌日駿一は文学部棟の四階まで明を追いかけて階段から落ち、鼻血を垂らして死ぬのだ。
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