2010年 春
明との友情に転機が訪れたのは、三年生になった直後だ。
駿一が水曜の二時間目に選択した「法とジェンダー」は、テレビにも出演している
テキストは教授自身が著わした、授業名と同じタイトルの新書だった。もちろん駿一は前もって大学生協の書店で購入し、初回の授業に備えて鞄に入れてきた――はずだった。
ところが、実際に鞄から出てきたのは、法学にはかすりもしない漫画本だった。派手なオレンジ色の服を着た主人公が笑っているのを見て、駿一は密かに焦った。サイズが似ているから、本棚から取り違えたのか。
「早乙女君、よかったら私の見ない?」
隣の女子が小声で話しかけてきて、にこりと笑った。一度も染めたことのなさそうな黒髪が艶やかだ。控えめなメイクと淡い色でまとめたファッションは清楚な印象で、少なくとも容姿に関して言えば凡庸ではなかった――つまり、かわいかった。
「たっ……たの、む」
駿一の声は震えた。思えばもう何年も同世代の女子と、まともに会話していなかった。当然ながら彼女の名前も知らない。でも、彼女は駿一の名前を知っている。
「早乙女君も、少年漫画とか読むんだね。ちょっと意外」
彼女がささやいて微笑んだ。見られていたのが、とても恥ずかしい。
新書サイズのテキストが、二人の距離を近づけた。彼女の髪から甘い香りがした。
彼女は教官が読み上げる文章にピンクの蛍光ペンで線を引く。厚みのある新書が閉じそうになる。彼女が右のページを、駿一が左のページを押さえる。たったそれだけのことで、駿一の胸は不格好に脈打った。せっかくテキストを見せてもらったのに、授業は少しも頭に入ってこないまま終わった。
駿一が礼を言うと、彼女は「待って。コピー取っといたほうがいいかも」とはにかんだ。
「荒木先生、授業で強調したところからテスト出すらしいから。早乙女君、この後時間ある?」
「昼休み、の後は……憲法、と、きっ近代法制史だ」
「ほんと? 私も同じ授業だよ!」
「そ、そうか」
なぜかいつもの高飛車な態度が出ない。駿一が視線を泳がせていると、彼女はおずおずと切り出した。
「コピーのついでに……お昼一緒に、どう?」
背の高い駿一に対して自然と上目遣いになっている。
「よかろう」
緊張のあまり殿様めいた返事をしてしまったが、幸い彼女は駿一がおどけたのだと勘違いしてくれたようだ。
「早乙女君って、意外とひょうきんだね。……あ、私、
「セン、スイ、さん」オウムよりも下手なオウム返しだ。
「サ行ばっかりで言いにくいよね。恵でいいよ」
めぐ、まで言いかけてやめた。冷静になれば、サ行ぐらい言える。
「……じゃあ、行こうか、泉水さん」
駿一のガラケー(スマホではない)が、カバンの中で振動していた。明からのメールで、昼食を一緒に食べようという誘いだったが、駿一が気づいたのは四時間目が終わった後だった。
「気づかなくて悪かった。昼は法学部の人と食べた」
返信はしたものの、その相手が女の子だとは言えなかった。
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