2009年 夏
明はつねに陽気な男だった。それでいて、自分の見ている明るい世界がすべてと思い込む無邪気な鈍感さや、厚かましさがなかった。駿一の容姿にことさら言及したり、入学以前の話を根掘り葉掘り聞いてきたりしないところも気に入っていた。
駿一は明以外の「凡庸な人々」には関わりを求めなかった。彼らが駿一をサークルに勧誘したり、合コンや学祭のミスターコンテストに誘ったりするとき、必ずどこかに「早乙女君は美形だから」という媚びた文句が異口同音に紛れ込む。駿一はそれらを冷ややかな態度で断り続けた。
「やめておこう。テニスサークルが目の保養サークルになる」
「僕を合コンに誘うとは、あえて負け戦をしたいのか?」
「コンテストで優劣を競う、その発想がいかにも凡庸だ」
その甲斐あって、二年生に進級する頃には、凡庸な人々からはほとんど声をかけられなくなった。
明とは学部が別だから授業では会わなくなったが、時間が合えば学食で一緒に昼食を食べ、週末には一緒に遊んだりもした。カラオケもボウリングも、二人とも全然上手くなかった。
テスト期間中には大学生らしく、ファミレスや喫茶店を長々と陣取って勉強した。特に裏門を出てすぐの、首都高沿いにある「ヨネダコーヒー」にはよく通ったものだ。
コーヒーのほかに、駿一が八五〇円(+税)のカルボナーラを注文すると、明は「金持ちぃ!」と目を見開いた。福島からひとり上京してきた明は、大学の近くは家賃が高いと言って、自転車で一時間もかけて通学している。
「宝くじが当たったやつは違うよなあ」
明には、当選額は三等の五百万で、大学の学費に充てたということにしている。
「選ばれし者だからな、僕は」
事実、宝くじの当選金はまだ一億円以上余っていたから金持ちには違いないが、何より駿一はこの店のカルボナーラを気に入っていた。チェーン店だし、レトルトのソースをかけているだけなのだろうが、自分が美味しいと思うのだからそれでいい。
「お前が宝くじに当たってる頃、俺なんか競馬で大損してたよ。親父が『絶対勝つ』っていうから、お年玉貯金全額預けたのに」
二〇〇五年十二月二十五日、第五〇回有馬記念。明が選んだ馬の名前は、ディープインパクト。空飛ぶような走りでそれまで一度も負けたことがなかった名馬は、その日ハーツクライに敗れて初黒星を喫したのだった。
「あん時は、親父ともども母さんにこっぴどく怒られたよ」
「それは残念だったな」
「まったく、選ばれざる者はつらいぜ」
駿一がカルボナーラを、明がサンドイッチを食べ始めたとき、喫煙席のほうから煙草の臭いが流れてきた。当時この店は、まだ分煙が完全ではなかった。
「駿一は煙草吸う?」
「いや、吸ってない」
二人ともさほど受動喫煙を気にするほうではなかった。ただ、煙がきっかけとなって始まったこの些細な会話が、明を駿一が語らずにすませていた秘密に近づけてしまった。
「そりゃーまだ吸ってないだろうけど、俺たち未成年だし……だよな? あれっ、違ったっけか。駿一はもう誕生日来た?」
しまったと思ったが、明にさらなる嘘をつくのは忍びなかった。駿一は正直に「入学前に、二年ダブってるんだ」と答えた。
「えっ、じゃあ二コ上?」
「そういうことになるな」
駿一は内心、これで話を終わらせてほしいと願った。しかし明は「浪人してた?」とさらなる問いを重ねてくる。
「いや。……入退院を繰り返していて、大学に行けなかった」
それは駿一が打ち明けられるぎりぎりの真実だった。
「そっか……」明は食べかけのサンドイッチを手にしたままだった。「病気だったのかあ。大変だったんだな」
「まあな」
駿一はフォークにパスタを巻きつけた。申し訳程度に入っている細切れのベーコンが、上手くフォークに刺さらない。明も思い出したようにサンドイッチの残りを頬張った。陽気なBGMと副流煙だけが二人の間に漂っている。
「でもまあ、よかったよ」明がぎごちない間を破ってくれた。「お前が元気になってくれてなきゃ、いまごろ俺はひとりも友達がいなくて寂しい大学生活を送ってたわ」
「明なら、ほかに友人もできると思うが」
「えー、『凡庸な人々』と?」
明は豪快に笑った。どうやら彼も、学部内に友人を作っていないらしい。それが駿一には意外だった。
結局その日、食後のコーヒーとともに取り留めのない会話をしただけで、勉強はろくにはかどらなかった。たぶんこういうことは、学生にはよくあるのだろう。
ヨネダコーヒーを出た後、明が言った。
「そういや、駿一は、夏休みどうすんの?」
「どうもしない。家で暇するだけだ。明は実家に帰るのか」
「ん。田舎でのんびりするよ。『東京には空が無い』からなー」
明が珍しく文学部らしいことを言う。
「『
駿一は空を見上げた。確かに、店の前には首都高の高架が走って、夏のすがすがしい空を遮っている。
「東京にも空はある。首都高を走れば見えるぞ。都民に謝れ」
二人は一緒に笑った。
この会話に意味はない。二人は普通の大学生らしく、知的な(つもりの)やりとりを楽しんだだけだ。
駿一は普通であることに深い安心感を覚えていた。それは「選ばれし者」からはもっとも遠いものだと分かっていながら。
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