第36話 幸せな結婚

 あれから三週間が経った。渉は無事に退院し、元気を取り戻しつつある。幸いなことにふみの父は会社の資料の燃え残りが無いか確認するため渉を再び雇い、商会の方での社史編纂を行う方針は変わらなかった。

 秀臣と結城氏は一年ほどで戻ると言い、神戸へと旅立って行った。一方、渉と瑠璃子は二人きり、バラックで暮らしていた。渉が起きれば、瑠璃子が飯の支度をする。雨が降れば二人で雨風を凌ぎ、夜は瑠璃子と共に眠る。当たり前のことであるが、二人にとって幸せな日常がそこにはあった。

 ある日曜日のことである。ふみと正清が渉と瑠璃子のバラックを訪ねてきた。

「やあ。元気かい。今日は二人にちょっと用事があって来たんだ。ちょっとついて来てもらえないかな」

「ああ、どうもふみさん、正清さん。お元気そうで何よりです。用事とは……一体何です」

「それはついてきてのお楽しみ……ですよ。渉さん。瑠璃子さんも相変わらずお美しい。この男が嫌になったらすぐにでも私のところへ来ていただきたいところです」

「はい。でも嫌になることなんてありませんから」

 瑠璃子は正清をさらりと受け流すように微笑を浮かべる。ふみは面白そうにくすりと笑う。

「とりあえず、二人共ついてきたまえ。いいところに連れて行ってあげよう」

 ふみは踵を返し、バラックの外へと出る。瑠璃子と渉が顔を見合わせると、正清が二人の背中を押してくる。

「考えごとはいいですから。とりあえず行きましょう」

 四人は連れ立って歩く。雲ひとつない良い天気である。横浜はまだまだ復興はしていないが人々の活気は溢れていた。正清とふみの足取りは山手の方角へと向かっている。もう山手には何も無いはずなのに、どうしたのかと渉は思った。やがて、瑠璃子の家の跡地へと着いた。そこには藤堂探偵と瑠璃子を救った警官の二人がいた。

「蔵人くん。一体どうして」

「そこのお二方に呼ばれましてね。何でも、西洋式の結婚式をやるとかで」

 結婚式。それは瑠璃子と渉にとって寝耳に水であった。ふみと正清はにこにこと穏やかな笑顔を浮かべている。

「いや、瑠璃子の父君から渉くんへ瑠璃子が託されたということは結婚の許可が降りたってことだろう。なら、ちゃんとした結婚式が出来ないご時世だから僕ら流で結婚式をやってあげようと思ってね」

「ほら、瑠璃子さんはふみについていってください。渉さんは私と」

 瑠璃子はふみに引きずられるように連れていかれた。渉は歩き始めた正清の後を慌てて追う。そこにはふみの執事、宇喜多がいた。

「石田様、お久しゅうございます。息災なら何より。さぁ、これにお着替えくださいませ」

 宇喜多が持っていたのはモーニングであった。渉がいつも着ているよれよれのシャツではない、パリッとした新品のシャツだ。渉は宇喜多や正清に手伝ってもらいながら、よろよろと着替える。

「普段より、いい男ですよ。最も、私には及びませんが」

「当たり前です。君は側から見てもいい男ですから」

「ふふっ……。瑠璃子さんを必ず幸せにしてくださいね。これは私からの生涯の頼みですから」

「勿論ですよ。瑠璃子さんは俺が必ず幸せにしますから」

 正清は着替えた渉をつれ、長い緋色の絨毯の先にある年代物の机の前に立つと、渉の白いネクタイをおもむろに直した。

「にあってますよ、色男」

 そう一言だけ言うと、正清は机の上に書類を出した。婚姻届と一冊の本だ。一体何をするのか、渉には想像が出来なかった。

 風が少し出てきた。しばらく待っていると藤堂が口笛を吹いた。

「すごいね、大谷。西洋のお姫様が花嫁さんになったみたいだ」

 渉が緋色の絨毯の先を見ると、そこにはふみに連れられた華やかな黒い着物を着た瑠璃子が立っていた。白い角隠しもかぶっている。

「本当は西洋のドレスが良かったんですけど、無かったものですから」

 正清は小声で呟く。渉にはしっかりと聞こえていた。

 緋色の絨毯を瑠璃子はふみと腕を組み、渉の元へと歩いて行く。瑠璃子は一歩一歩、絨毯を踏みしめるように、今までの道程に想いを馳せるように歩く。渉の元へとたどり着いた。正清は笑顔で二人に問う。

「渉さん、あなたは健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しいときも……瑠璃子さんを妻として愛し、敬い、いつくしむことを誓いますか」

「勿論、誓います」

「瑠璃子さん。瑠璃子さんも健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しいときも渉さんを妻として愛し、敬い、いつくしむことを誓いますか」

「ええ……誓います」

 正清は微笑みを絶やさない。そして印鑑を取り出した。

「では、この婚姻届にお二方のお名前を……」

 渉はさらさらと書いていく。瑠璃子も着物を汚さぬようにゆっくりと書いていく。

「はい、ここにお二方の結婚が成立しました。では誓いの口付けを……」

 渉は瑠璃子の顎を少しだけ指で角度をつける。渉は自分の心臓の音が聞こえる気がした。渉の心臓は早鐘のように鼓動を打っている。瑠璃子は恥じらうように微笑む。

「恥ずかしいです、渉さん」

「えっと……すいません」

 渉は瑠璃子の頬を愛おしげに覆う。

「これでみなさんからは見えませんから」

「ありがとうございます……あなた」

 渉は瑠璃子に口付けをする。藤堂探偵と警官は拍手をし、ふみは涙ぐんでいた。正清はただただ微笑んでいた。

「これからもずっとこの幸せが続きますように」

 十月の風が気持ちよく吹くその日、荒廃した横浜で世界の誰よりも幸せな結婚式が行われた。瑠璃子の小さな言葉は渉の耳に届いた。この幸せを守って行こうと渉は改めて誓う。例えどんなことがあってもずっと一緒にいて瑠璃子を幸せにする、そう決意を固くした。

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やがてひとつのみちになる 石燕 鴎 @sekien_kamome

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