第35話 瑠璃子の意思

 柔らかい午後の日差しが病室を照らす中、渉はベッドの上で寝転がっていた。だいぶ傷も癒えたので、身体を動かしたいのだが周りの人間がそれを許してくれなかったのだ。そんな折、結城氏が跡取り息子の秀臣を共連れに訪ねてきた。秀臣は久々に慕っている渉に会えて嬉しそうであったが、結城氏はどことなく落ち着かない雰囲気を醸し出していた。渉はおずおずと口を開く。

「瑠璃子さんはご一緒ではないのですか」

 結城氏は渉と目を合わせた。二人はしばし見つめ合う。結城氏がこれほどまでに真剣な瞳をするところを渉は見たことがなかった。

「ああ、今日は瑠璃子には遠慮してもらったよ。男と男の話し合いだからな」

「話し合い……ですか。エエト、どういう意味ですか……」

 結城氏は秀臣を呼び寄せる。秀臣は軽く小首を傾げながらも父の隣へと赴く。亜麻色の髪がさらさらと揺れた。結城氏は秀臣の髪を優しく梳く。その眼は優しい父親の瞳だ。

「この大地震で横浜もひどいことになった。そこでだ、支社がある神戸へ一時的に避難しようと思うのだが……。秀臣と渉くんの考えを聞かせて欲しい」

 結城氏は真剣な表情で渉を見ている。渉は頭を少し掻いた。口火をきったのは幼い秀臣だ。

「そうすると、父様と僕で暮らすことになるのかな」

「いや、渉くんには申し訳ないが瑠璃子も連れて行こうと思う。渉くんは今怪我をしている上に財産もない。そもそも結婚もしていない、私の娘なのだから生活に関しては親に責任がある」

「俺は、瑠璃子さんと離れるのは嫌です。ずっと一緒にいるって約束をしました。生活なら、なんとかします」

「そうは言っても、正式にまだ結婚した訳ではない。それに、渉くんが本を出す話はどうなったんだい。その約束が果たせないと結婚をさせてあげれない。感情だけではどうにもならないこともあるんだ」

 一理ある、と渉は思った。親の責任や約束等を出されては彼も反論が出来ない。感情だけではどうにもならない事項がある。また自分は独りになるのかと渉は頭の片隅で思った。窓の外では子供たちの戯れる声が聞こえる。その声だけが部屋の中には響いていた。その静寂を破ったのは秀臣だった。

「父様、姉様のお考えは聞かないでもいいの。姉様は横浜に残りたいんじゃないかな」

「瑠璃子は……きっと残りたいと言うだろう。渉くんがいるところにいたいと言うに違いない。しかし、生活を自分でしたことのない瑠璃子が、その暮らしに耐えられるのかが私にはわからないんだ」

「確かにそうですね。瑠璃子さんと会えなくなるのは寂しいですが……いまは一番それが良いでしょう」

 その時、扉が大きな音を立てて開いた。そこには瑠璃子が立っていた。

「お父様……いまのお話は本当ですか」

「瑠璃子どこから居たんだ」

「最初からです。お父様も渉さんも分からずやさんです。どうして私の気持ちを考えてくれないのですか」

 男衆は自然と顔を見合わせる。結城氏は困ったように髭を弄る。秀臣は少しこの場の雰囲気を楽しむように微笑んでおり、渉は瑠璃子の方を見れずに穴が開くほど結城氏の顔を眺めていた。渉は勇気を出して、瑠璃子の方に顔を動かす。

「瑠璃子さんの気持ちを置いてけぼりにしたこと、謝ります。ごめんなさい。でも、貴女がご家族とご一緒じゃないと生活出来ないんじゃないかなと思うのです」

「それでも、苦労しても、何があっても、私は渉さんが一緒にいてくれないと嫌なのです。渉さんは如何ですか。一緒にいたくはないのですか」

 全員が渉の一言に注意を払っている。この一言で全てが決まる。場の雰囲気がそう言っていた。渉は長い沈黙の後、重々しく口を開いた。

「俺は瑠璃子さんとずっと一緒にいたいです。それは微塵も変わりません。俺からもお義父さまにお願いします。瑠璃子さんと離れたくないのです。瑠璃子さんを横浜に残してくれませんか」

 結城氏は眉尻を下げて笑った。その笑顔はどこか清々しさを感じるものであった。

「仕方ない……。渉くん、瑠璃子を託そう。瑠璃子と幸せに過ごしてくれ」

 瑠璃子の表情が途端に華やぎ、勢いよく渉に抱きついた。強い強い抱擁を瑠璃子は渉に施す。渉は少し息苦しさを感じたが、胸の内は幸せでいっぱいであった。

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