あの刹那が、永遠であればよかったのに。

犬井作

風が吹き荒んでいたあの日、わたしたちは終りを迎えた。

 アイツの唇は砂の味がした。

 顔を離すと、開いたままの目は空虚を覗き込んでいる。

 青い瞳。

 額に空けた穴から垂れた血液は、彫りの深い目鼻立ちを流れる河となり、膨らんだ唇を横切って、顎へと続いている。

 流れは砂塵に触れて渇き、浅黒い肌にこびりついてしまっている。

 赤黒い流れがアイツの面に為した微妙なカーブは、アイツの命が失われる刹那の複写だ。

 艶やかな、黒い、ゆるいウェーブがかかった髪は、扇形にひらいて、まとまりなく散っている。

 その隙間に、無数の砂を噛んでいる。砂の白さは無造作に、美しい黒を汚していた。

 その一房を、わたしは踏みつけている。アイツを汚したわたしが、なおも、アイツを汚している。

 足をそっと持ち上げると、粘着質な音がした。わたしの靴の下に、潰された白い塊がある。血にまみれたそれは、アイツの脳のかけらだ。砂と思っていた白のいくつかは、これと同じものだった。

 見えていたのに見えていなかった。わたしは拳を握った。こわばった指先は、長時間の緊張に疲弊して、震えている。

 わたしは、アイツの青い瞳をずっと覗き込んでいる。

 呼吸が浅い。

 意図して、息を吐く。

 現実を視る。

 スコープ越しに何度も覗いたあの女が、目の前に、横たわっていた。

 唇が震えていた。

 わたしは、膝をつく。

 涙が溢れてきた。

 渇いた空気に水分を奪われた肌は、わたしの涙すらも貪るように味わう。塩辛さが、肌に沁みるのか。涙は止まらない。

 体を沈め、アイツの両肩を抱き起こすと、わたしはもう一度、唇を寄せた。


 今日は、強風だった。だけど、今は凪いで、嘘みたいに静かだった。

 あの強風が、わたしの弾丸を彼女の額に寸分たがわず運んでくれた。

 美しい面持ちをそのままに、正確に額を穿ってくれた。


 わたしが出会った時、すでにアイツはこの街の番人だった。

 テロとの戦い。大西洋の向こうにある大陸に住む、遠い親戚が建国した、現代世界の警察野郎。その大統領が続行した戦争が、無関係だったこの街を飲み込み、大西洋に面する現代都市に匹敵する発展を奪って、アイツも変えてしまったらしい。

 かつては夫を持ち、二人の息子を育て上げた平凡な主婦は、長男の結婚式に行われた誤爆により家族を。

 続く市街戦により思い出を。

 すべてを奪われて、銃を持つに至った。

 らしい。わたしが知る彼女の経歴にはそう記されていた。

 所属するPMCのオペレータから提供されたプロファイルに、アイツの平凡だった頃の笑顔は、最大の障害を示す赤い烙印とともに記されていた。

 ほかにも、いろいろ。

 鹵獲した五十口径のライフルを用いているらしい。

 小隊一つを壊滅させたらしい。

 二キロ先から狙撃するらしい。

 街の人すら居所を知らないらしい。

 街を拠点とする組織の構成員を拷問しても、名前すら知られていなかったらしい。

 様々な噂がアイツを事実以上に大きな存在にしていた。

 それがアイツの力にもなっていただろう。

 ただ一人の、砂漠の大地に根ざした女として、砂漠の意思を体現するように、異物を排除し続ける。

 畏敬を込めて呼ばれる番人という渾名。

 わたしが別の戦場から呼ばれ、この街の攻略に参加することが決まった時、オペレータはこの女を排除するよう要請した。だから、わたしはアイツを理解することから始めた。わたしも、狙撃手だったからだ。

 アイツを理解するためにはなんでもした。アイツを知る人を追い、現地の言葉を覚えて話を聞いた。私服で、架空の会社のロゴをプリントしたTシャツでも着ていれば、外から来た記者だと街の人は勘違いする。それを利用して、痕跡を追いかけた。

 直近で参加した戦闘の現場。そこでは、わたしはアイツの狙撃スポットを見つけた。し尿のにおいで明らかだった。長時間うつ伏せになって狙いを定めていると、便所に立つ暇などない。垂れ流すものは重ねた布で吸収して、手近なところに飲み水を置く。わたしが叩き込まれた鉄則を、アイツはどうやら独学で身につけていたらしかった。

 アイツがかつて、好んで利用したマーケットにも顔を出した。話を聞いてまわり、好物を特定した。その副産物で、長男の結婚式の跡地も見ることができた。

 いまや瓦礫の山になりつつ街。その昔の姿を収めた写真を上司経由で入手して、比較しながら、アイツが見たものを、変貌した姿に感じる何かを捉えるために、視続けた。

 この街で産まれ、この街で暮らしていた。だから、生地も、学校も、何もかもを追いかけて。わたしは、わたしの中にアイツを産むに至るまで、追いかけて。

 目を通じて、繋がった。

 だから、わたしはアイツを殺すことができた。


 参加した三度目の戦闘で、ようやく出会った。砲火は交えられなかったが、アイツはわたしの観測手を殺した。五年一緒だった相棒を。たしかにアイツはアンチ・マテリアル・ライフルを使用していて、相棒の顔は一撃でミンチにされていた。見事な仕事で、嘆きよりも感心が先に出た。

 狙撃距離は半径二百ヤード以内。必中を担保するためにアイツはそばに来るくせがあった。三時間ごとの移動もあると、そのとき相棒が気づいてくれた。

 四度目の戦闘で、補充された観測手をアイツは殺した。わたしはアイツの移動のクセを覚えた。

 五度目の戦闘では、上司に頼んで補充させなかった。アイツは、街に根ざした組織の男たちを殺すわたしではなく、直接戦うわたしの会社に狙いを変えた。だから今度は、わたしがアイツを追う番になった。顔を見たのは、その時だ。引き金を絞ったが、アイツが作ったバリケードとの間に吹く強風が狙いをそらした。アイツがまだかたちを残す高層建築ばかりを拠点にすることに気づいたのはその時だ。

 アイツはビル風を利用していた。

 六度目の戦闘で、わたしも風を利用した。たしかにこのほうが狙いが定まる。アイツが五人殺したからわたしは六人殺した。お互いの顔は見えなかったが、確かに息遣いを感じていた。

 そして訪れた七度目の戦闘が、今日。わたしとアイツが視線を交えたはじめてとなった。


 わたしの会社はアイツに損害を被りすぎて、ついにはアイツ一人のために作戦を展開することにした。わたしがアイツの警戒地点を予測して、そこに陽動として騒ぎを起こす。住人たちの家を無理に捜索する。アイツの目的は街の守護だ。騒ぎと白人をこのうえなく嫌っていた。だからおびき寄せるために無理やり声を上げさせた。

 アイツが現れたのは三件目の捜索をしていたときだ。着けていたイヤホンが吐き出す、その家に住む少女を傷つけ上げさせた本物の悲鳴に、仲間のむさ苦しい断末魔が混じった。それがアイツの足音だ。

 小隊長が張り上げる声。倒れる音。展開される部隊が交わす通信をわたしの通信機はすべて捉え、実況する。

 わたしは息を潜めてそれを聞いた。アイツに気取られるわけにはいかなかったからだ。

 一人、ひとり、殺されていった。

 昨日一緒に飲んだ誰かの悲鳴が、

 すすり泣きが、

 怒りが、

 死で奪われて沈黙に変わった。

 この街に、珍しく吹き荒んだ風が、アイツの弾丸を運び、殺意を伝えた。

 だけど風はアイツの味方であるビル風も奪い、わたしは六時間の我慢の末に、アイツの居所を――アイツがちょうど、マガジンを換装する一瞬を、捉えることができた。

 移動しながら検討をつけて、陣取った場所は、アイツの布陣の真向かいだった。

 わたしは八倍スコープ越しに見た。

 アイツの鼻の穴が膨らむのを、

 額に浮いた汗をアイツが拭うのを、

 ふと顔を上げて、向かいの立体駐車場で反射した光を、

 わたしの存在に気がつくのを、

 すべてを見た。

 そして、いのちを奪った。

 アイツが奪ってきたように。

 風に乗せて、殺意を伝えた。


遠くから声が聞こえる。

 イヤホンがわたしの名前を呼んでいる。

 わたしは、だけど、

 とめどなく流れる涙に耐えることしかできなくて、

異国の地に生まれた、わたしがもっとも深く繋がった存在の、その抜け殻を抱きしめていた。

 あの刹那が永遠であればよかったのに。

 慟哭を漏らして開いた口に、砂塵が舞いこむ。歯を噛むと、じゃりじゃりと、音を立てた。

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あの刹那が、永遠であればよかったのに。 犬井作 @TsukuruInui

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