エピローグ
第31話 エピローグ
七月四日
良く晴れた空の下、緩やかな風が庭の草木を撫でていた。強く差す日差しがじりじりと肌を焼き、吹く風も少し生暖かい。
令は額に浮かんだ汗を拭って、一乃の家の庭を見た。先日ひどい有様になってしまったその場所は、それが嘘だったかのように綺麗な状態になっている。
とはいえ、よく見れば芝が新しくなっているところや新しい木が植えられているところなど、戦いの傷跡を見つける事はできるのだが。しかし、これも時間とともに分からなくなっていくのだろう。人の傷が時間とともに癒えていくように。
グレイスピアビルでの戦いから一週間が過ぎようとしていた。
たった一週間前の事がずいぶん遠い昔のことのように感じる。こうして、戦いの傷跡が消えていくならなおさらだ。
家の方の修復はまだかかりそうだ。割れたガラスはなんとか全部直したものの、壁の傷はまだ残ったままで、大穴も暫定的に塞いでいるだけの状態だった。
ドアを開けて家に入る。
「ただいま」
そう言った彼を迎えたのは、エプロン姿の羽月だった。
「お帰り」
短くそう言うと彼女は台所へと引っ込む。
台所の方からはカレーのにおいが漂ってきていた。
「・・・・・・」
未だに彼女に出迎えられるのに慣れる事ができないでいる令は、どんな表情を作っていいか分からないままに頭を掻いた。
靴を脱いで、そのまま真っ直ぐ以前自分が使っていた客間へと向かった。
扉の前で足を止め、一応ノックをする。返事が来る事を期待したが、いくら待っても返事はこない。ため息をついて、扉を開けた。
客間は以前令が使っていた様子とは様変わりしていた。ベッドや机の位置こそ変わっていないが、机や床には見慣れない魔具や、魔法陣の書かれた紙が置かれている。
そして、ベッドには一乃が眠っていた。
近くの椅子を寄せ、彼女のそばに腰を下ろす。
七月の陽光に照らし出される彼女は、静かに寝息を立てている。彼女の左目には大きなガーゼが張られていた。
この一週間、彼女は目を覚ましていない。
深淵を浴びすぎたのだ。
彼女はあの夜の魔法の一番の媒介となっていた。深淵は人を虚無へと誘う。数秒受けただけで強烈な虚脱感などに襲われるのだ。浴び続ければ命すら失う。それを彼女は長時間浴び続けてしまったのだ。命までは奪われなかったが、昏睡状態に陥ってしまった。
いつ目覚めるかは、誰にも分からない。
そう令へと教えてくれたのは・・・・・・。
「なんだ。来ていたのか」
阿久津 志磨が部屋へと入ってきた。
反射的に身構える令。それを見て志磨は悲しそうな笑みを浮かべた。
「いい加減慣れろよ」
そう言いながら、続けて入ってきたのは藍子であった。彼女の方は、戦いの日から一日ほどで目を覚ましていた。
半笑いでそう言われても、そう簡単に慣れることができるものではない。一週間前まで、殺意すら向け合った間柄だと言うのに。
志磨の一週間前の傷はすでに回復しており、一番酷い状態であった右腕も今はもう綺麗になっている。
志磨と藍子は、その手に水の張った桶をそれぞれ持っていた。志磨の指示に従って、藍子が桶を一乃の両脇に置く。そして彼女は、ポケットから文字列が書かれた紙を取り出し、規則的にベッドの周囲に置いていった。しばらくすると、部屋に志磨が呪文を唱和する声が響きはじめた。
一乃の意識を戻す手伝いをする魔法だという。
桶の水が不思議に光るのを見ながら、令はそれをジッと見ていた。
志磨のことは、はじめ疑わなかったわけじゃない。
だがあの戦いの後、意識のない三人を自分や羽月とともにゴーレムを使ってこの家にまで運んでくれ、以降目が覚めるまでずっと治療してくれたのは彼女だったのだ。庭や家の一部を修復したのも彼女だ。
令達に何かする気があったのなら、とっくにそうしているはずだ。彼女にもう敵意がないことは明らかだ。
志磨は額に汗を浮かべて、紙に術式を描いたり唱えたりしている。その目を見ても顔立ちに反した刺々しい光はどこにもない。
いつの間にか左右の水は真っ黒になっている。志磨は唱和を一端やめると額の汗を拭った。
「令、藍子。水を取り替えてくれないか」
「おう」
「わかった」
二人で返事をしながら、桶を手にとる。
藍子に続いて部屋を出る直前、令は振り返った。そこには、静かに眠る少女を伏せた瞳で見る魔法使いの姿があった。
口から自然と言葉が漏れた。
「・・・・・・なあ、どうしてここまでしてくれるんだ?」
彼女の話では一乃はもう放っておいてもそのうち目を覚ますらしい。彼女がやっているのは、一乃が少しでも早く目が覚めるように促す魔法や、寝たきりの一乃の運動機能や栄養状態を維持するような魔法だ。
彼女は令達の治療以外にも様々なことをしてくれた。もう十分義理は果たしたとも言える。それなのに、どうして彼女はここまでしてくれるのだろう。少し前まで敵対までしていたというのに・・・・・・。いつまでもモヤモヤとした気分を残している自分が子供なのだろうか。
志磨は令を一瞥した後、眠り続ける少女へと視線を流した。目を細めて口を開く。
「この子は・・・・・・私にとっての咎のようなものだ」
咎。
一乃もまた志磨の企みの被害者だ。志磨のせいで彼女は左目を失った。また、志磨の企みがなければ彼女は令達を騙すこともなかった。
だから咎。そして、令達にここまでしてくれるのはその償い、罰だと、そう言っているのだ。
咎と罰。
人は誰しも過ちを犯す。だが過ちを犯した後、それを咎として背負うか、それとも零とするかはその人次第なのだ。
きっと一乃も・・・・・・。
「そうか。・・・・・・なんにせよ、ありがとな」
あまり気が利いた言葉を返せないことに申し訳なく思いながらも、その言葉を残して部屋を後にした。
洗面所に行くと黒い水を捨て終わった藍子が、桶に新しい水を汲んでいた。
彼女の横に並びながら令は口を開いた。
「なあ、お前、一乃のこと怒ってるか?」
一乃に騙されたことで一番被害を受けたのは藍子だろう。彼女もまたあと少しで魔法の触媒として命を落とすところだった。
藍子は令へと目を向けた。その瞳は深く澄んだ色をしている。彼女は流れ出る水に視線を落とした。
「全く何も思っていないと言えば嘘になるだろうな。・・・・・・でも、思ったんだ。例え騙すためだったとしても、あいつに出会ったことであたしは救われた。一人じゃなくなった。だから・・・・・・なんだろうな、あたしは全然許せるよ」
そうして彼女は蛇口をひねって水を止める。波の収まった水面に、藍子の微笑みが映っていた。
令と場所を交代して、令は黒い水を流した。蛇口をひねって今度は令が水を組む。
藍子が口を開く。
「でも・・・・・・あいつ自身はそう簡単には割り切れないだろうな」
「・・・・・・」
波打つ水面に、あの雨の日に志磨に騙していたことを暴露された一乃の悲痛な表情が浮かび上がっては消えた。
きっとそうだ。きっと一乃自身が自分を許せないだろう。
令と藍子を騙し、利用しようとしていた罪悪。きっと彼女は背負ってしまう。それを新たな咎として。
しばらく水音だけが洗面所に響き続けた。すると、トントンとややテンポの早い足音が近づいてきた。
洗面所の入り口に顔を出したのは志磨だった。笑みを浮かべている彼女の瞳には柔らかな光が輝いていた。
「一乃が目を覚ました」
言葉を聞き終える前にはもう二人は志磨を抜かして客間へと駆けていた。急ぐあまり曲がり角で足をぶつける事もお構いなしに令は走った。
部屋の扉を開ける。その先には、上体を起こし明るい日差しに目を細める一乃の姿があった。
彼女は部屋に飛び込んで来た二人を見ると、ハッとして目を伏せた。彼女の顔に影が落ち、僅かに見えている口元は震えていた。
二人の高揚していた気分が一気に落ち着く。令と藍子は顔を見合わせ、静かに一乃のそばの椅子に腰を下ろした。その間も一乃は俯いたままであった。
窓から差す日はまだ明るく。日が長くなったことを伝えている。
一乃は手を握りしめた。
二人に合わせる顔もなく、言葉も見つからない。
自分は二人を欺いたのだ。どれだけ懺悔の言葉を並べても、許してもらうことはおろか、もはやその言葉を信じてもらえるとすら思えない。
二人の信頼を裏切った。
信頼という城が崩れた跡に、新たな建物が建つことは二度と無い。例え建てることができたとしても、それは全ての瓦礫を片付けることが出来たあとだ。だが、それができるかもわからず、それまで相手が待ってくれるかもわからない。
だが、背負わなければならない。この咎を。
例えどれだけ時間がかかっても、この瓦礫を背負い片付けていくことが私の罰なのだ。
覚悟を決めて、一乃は顔を上げた。
「私――」
「なあ一乃」
が、顔を上げた途端、令の声が一乃の言葉を遮った。
驚いて目を見張る一乃。彼女の目は、目覚めてから初めて二人の顔を真っ直ぐに見る。その瞳に映る二人は、光を返す川の流れのように穏やかなものであった。
その目が言っている。言葉などいらないと。直接的な言葉にせずとも、心は伝わっているとそう言っている。
「俺たち、友達になれないか? 今度は間に何もない。また最初から」
一乃の瞳に涙が溢れた。
また始めよう、と。瓦礫にまみれた場所は捨て去り、また新しい場所に新しい城を作ろうと彼はそう言っているのだ。
彼女の咎も、負い目も、彼らの悲しみも、不信も全て前の場所に置いていこう、と。また新しく始めよう、と。
それはどんな『許す』という言葉よりも、真っ直ぐに彼女にその心を伝えていた。
「ごめんなさい・・・・・・。ごめんなさい・・・・・・」
涙をこぼしながら、そう繰り返す。
その姿を見ていた令達も、目に涙を浮かばせながら小さく笑った。
「一乃、左目のガーゼ、取ってみな」
笑みを浮かべながら藍子がそう言った。
一乃は不思議そうな顔をしながら、それに従う。優しく張られていたテープを取って、ガーゼを剥がしていく。反射的に、露わになった目蓋の烙印を隠しそうになるが、もうその必要は無い。
ガーゼを剥がし終えた時に、彼女は気づく。半年間彼女を悩ませてきた左目の痛みがなくなっていることに。
まさか、と思い彼女は恐る恐る左の目蓋を上げた。
彼女の唇が震えた。
「うそ・・・・・・目が・・・・・・」
見えている。
自らの意思で潰したはずのその目が、二度と光を見る望みを失ったその左目が、光を取り戻している。
彼女の頬を再度涙が流れた。
藍子が続ける。
「志磨が義眼を作ってくれたんだ。本物と遜色ないだろ?」
コクコクと何度も頷いて、一乃は窓の外を見た。
半年ぶりに両の目で受ける日の光、暖かく身を包むその光はとても明るくて眩しい。強い日差しは風に揺れる木々の色を鮮やかに掘り出し、ハッキリとしたコントラストを生み出している。遠くに浮かぶ大きな雲は、波打った影に空の青を映している。
景色をただ二つの目で見る。それだけの当たり前だったことが今になってすばらしく感じる。片目を失ってからの半年間は必死だったこともあって、気づかなかったのだ。だが、取り戻してみて改めて分かる。この半年間自分が見ていた景色がどれほど狭く、そして色あせていたかを。
部屋に入り込んできた風に、カーテンが大きく膨らんだ。頬を撫でる風が心地よい。一乃は、自分の額に汗が浮かんでいることに気がついた。気温もずいぶんと高くなっていた。
令の声が耳に届いた。
「一乃、お前一生分は寝たんじゃないか? もう・・・・・・あくびは必要ねぇな」
驚いたように振り向くと、彼は歯を覗かせる微笑みを見せている。
「そうね」
一乃は満面の笑みを浮かべた。その笑顔は、今も空に輝く太陽のように眩しかった。
軒先に閉じた傘が横たわっている。僅かに付いていた水滴が強い日差しを受けて輝いていた。
暖かい風が吹く。どこからか綺麗な風鈴の音が聞こえてきた。
風は季節を運んでくる。
梅雨は終わり、もう夏が始まろうとしていた。
終
咎負いのZERO 那西 崇那 @nanishitakana
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