第30話 夜


夜の静寂がここに戻った。


周囲三〇〇メートルに人がいない事がこれだけのビル群の中に不自然な静けさを作り出している。


広い空間には令の不規則に荒い息づかいだけが響いていた。彼はフロアの上で大の字になって寝転がっている。


このままだと本当に寝てしまいそうだ。それはいけない。まだやることがある。


疲労困憊の体に鞭を打って、彼は立ち上がった。


(一乃、藍子)


 彼女達の無事を確認しないといけない。できることなら、羽月も。


崩れ去った黒い魔法の破片が大量に周囲に舞っている。目の前に崩壊した建物と、燃えかすのようなものが舞っている光景は非常に退廃的なものを感じる。


近くで瓦礫の崩れる音がした。


ハッとして振り返った令は、その身を固めた。


瓦礫からよろめきながらも這い出してきたのは、志磨であった。だがどう見ても、もはや戦える状態ではない。痛ましい右手からは、いまだ止めどなく血が流れていて、彼女自身もボロボロだ。一歩歩くのですら精一杯のようであった。それでも彼女の瞳の火は消えていない。


「まだ・・・・・・だ・・・・・・私は・・・・・・」


令は痛みに耐えるかのように目を細めた。ここまでボロボロになってもまだ戦うというのか。それほどまでに彼女は・・・・・・。


「羽月・・・・・・」


志磨の口から言葉が漏れる。


彼女と対峙している令は拳を握ることが出来なかった。疲労のせいではない。もうこれ以上彼女と戦いたくないのだ。


もはや彼女に戦う力は残されていない。それでも彼女は立ち上がったのだ。ただ自らの願いのために。


そんな相手に、とどめを刺さなくてはいけないのか。しかし、そうでもしなければ彼女は止まらない。


救いは、救いはどこにもないのか・・・・・・。


「志磨・・・・・・」


そのとき、月明かりが結晶となったかのような澄んだ声がその場に木霊した。


声の主は、近くの物陰から足を引きずり、右腕を押さえながら現れた。


羽月だ。


黒髪の少女はゆっくりと魔法使いへと近づいていく。彼女の頬には涙が伝っている。


令は、その涙が今まで見たどれとも違うと感じた。自身の咎に苦しむ涙でも、悔しさににじみ出たものとも違う。それはもっと澄んでいて、それでいて見ているものをとても悲しくさせる・・・・・・。


羽月は志磨の前で足を止めた。二人の距離は抱き合えそうなほどに近い。しかしそれはできないのだ。羽月自身が持つ罰がそれを許さない。


羽月が言葉を紡いだ。


「志磨・・・・・・もういいの。私、人に戻れなくていい」


「ダメだ・・・・・・。それじゃあお前が・・・・・・」


そこまで言葉を続けた後、志磨の体が大きく後ろに傾いた。彼女が地面に倒れ込む直前、羽月が彼女を支えた。彼女が唯一人に触れられる、志磨に与えられた右手で。


羽月はそのまま志磨を地面に寝かせた。頬に滴で濡らしながら、羽月は続ける。彼女の声は涙に掠れていた。


「私・・・・・・もう幸せだよ。あなたに腕をもらって、いろんなものをもらって、こんなに思ってもらえて・・・・・・幸せじゃないわけない・・・・・・」


少女が右手で魔法使いの手を握る。彼女の涙が一滴、また一滴と魔法使いの頬へと落ちた。


その姿はまるで本物の親子、羽月が失ってしまった家族というもののようであった。


「私、拒絶するのが怖くて、あなたに言えなかった・・・・・・。こんなことしてほしくないって・・・・・・」


「言わなくても・・・・・・わかってたさ。でも・・・・・・それでも・・・・・・」


それでも、彼女は羽月を人へ戻そうと思った。独善的であり続けた。


彼女は羽月を利用するつもりで誘拐した。


不便だろうという理由で義手を与えた。


精神衛生を保たなければと思って人のようなゴーレムをあてがった。


それだけのつもりだった。それだけの関わりのはずだった。


だが、いつしか彼女と関わることが目的となっていた。彼女を大切に思うようになっていた。


そんな自分に、今更彼女は気づいたのだ。


「私・・・・・・志磨がいればいい。志磨が一緒にいてくれれば、それでいい」


少女のその言葉に、志磨の目からも涙が溢れた。


羽月の言葉が、傷口に流れた涙よりも、ずっと深く染み渡った。


(ああ・・・・・・そうか。私は、この子を・・・・・・愛していたのか・・・・・・)


志磨が羽月の手を握り返した。それは彼女の一部ではない。精巧に作られた偽物だ。だが、この世で一番それを理解しているのはこの二人だ。だからこそ、彼女達の間でしか見えない絆がそこにある。この右腕は、二人を繋ぐ証なのだから。


二人の様子を見ていた令は、そっとその場をあとにした。


足音を立てないように周囲を歩いていると、すぐに地面に横たわっている一乃と藍子は見つける事ができた。


二人に駆け寄って無事を確かめる。崩落に巻き込まれたのと、三日前の服のままということで見た目はずいぶんボロボロのようだが外傷はない。咎負いの頑丈さが幸いした。外に見えないところでどうなっているかは分からないが、二人とも静かに寝息をたてていることから、性急な状態ではないようだ。


大きなため息をついて、令は近くの壁にもたれかかった。


これでようやく、彼の戦いが終わった。


何気なく、令は視線を上げた。そして、少し目を丸くしたあと、小さく唇を綻ばせた。


「フフ・・・・・・おい一乃。約束、守れちまったよ・・・・・・」


彼の視線の先にあったのは、トリックアート展の展示の一つ。あの崩落の中で壊れやすそうなこれが残ったのは、一体何の奇跡だろうか。


それは、以前ここに来たあの日、もう一度来ようと誓ったもの。


マジックミラーによる合わせ鏡でできた水槽であった。


水槽に低くなってきた月が映っている。水に入った空の球は、どこまでもどこまでも遠くに続いていた。


小さな笑みを浮かべながら、いつの間にか令は眠りについていた。


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