最終話 5センチ越しの恋
あの後、私はひとりで家に帰った。
ナギさんとも、特に会話をすることなく。彼女もまた、私に話しかけてこようとはしなかった。
あと、警察に通報もしなかった。誰もケガをしていないし(男はひっぱたいたけど)、警察を呼んでも男がそのうち捕まるだけで、代わりにマスコミが
どうせマネージャーからも「自己管理が甘い」とか嫌味みたいなことしか言われないだろうし。
「……ふう」
リビングの電気をつけ、カバンを適当に置く。部屋の中はいつもと
ちらり、と時計を
だけど私はそのどれをするでもなく、
――壁を3回、ノックした。
「……」
1分ほど待っただろうか。じっと壁を見つめていると、
コン、コン、コン。
3回の、壁を叩く音。確かめるまでもない。私と彼女だけがわかる合図。イエスの証。
ベランダへと出る。今夜の風は少し、肌寒い。
待っていると、隣からカラカラ、と窓の開く音が聞こえる。
「はいこれ」
私は、ナギさんがいつもやっている
「これ……」
「いつももらってばっかじゃん? だから今日は私から、と思ってさ」
「えっと」
「ナギさんの好みに合うかどうかはわかんないから、嫌いなら飲まなくてもいいよ」
「そ、そうじゃなくてさ……その、大丈夫なの? これ、外で買ってきたんでしょ?」
彼女が言いたいのは、私が――清純派アイドルの
けど。
「いいのよたまには」
未成年じゃないんだし。もし話題になったらなったで、ちょっとばかり飲んでると言ってやればいい。マネージャーには怒られるだろうけど。
「ほら、ナギさんも開けて開けて」
ぷしゅ、と自分用のチューハイを開けて、
「かんぱい」
「か、かんぱい」
こつん、と小さくて低い金属音。それは遠くまで響くことはなく、闇の中に溶けていく。同時に、真っ赤なネイルが光る。
夜を映す黒い視界の隅には、真っ白な壁。私と彼女を
私は、それに背中を預ける。なんとなく、彼女もそうしている気がした。
「……さっきは、ありがと」
あの時ナギさんが来てくれなかったら、どうなっていたかわからない。それこそアイドルとしても、ひとりの女の子としても、終わりを迎えていたかもしれない。
「あと、ごめんね。本当ならあの場でお礼を言うべきだったのに」
言って、小さくひと口、チューハイを
「私の方こそ……ごめん」
「ナギさん?」
「モモちゃんの言うとおり……私、あなたがアイドルだって知ってた。知ってて、話しかけたの」
彼女の
「黙ってたのは……私が知ってることがバレたら、この関係がなくなっちゃうって、思ったから。
私だけがモモちゃんの本当の顔を知ってるって、
あ、でも隣に住んでたのは本当にたまたまで、偶然なの。
……まあ、なんの言い訳にもならないけど」
そこで、ナギさんの言葉は途切れた。
「ねえ、ひとつ教えて」
「え?」
「さっき、言ってたじゃん? 私のこと、大切な人って」
襲われそうになっていたところを助けてくれた時、たしかに彼女はそう言った。
「あれ、どういう意味?」
問いかける。別に、問いただしているわけじゃない。ただ単純に、その言葉の真意を、知りたいだけ。
「えっと……あれは」
「あれは?」
「そのままの意味、だよ」
ナギさんは言う。
「私、自分のことがずっと嫌いだった。根暗で、内気で、誰からも頼りにされない私が、嫌で嫌でしょうがなかった。
だから、アイドル・佐倉桃華にずっと憧れてた。いつも明るくて、笑顔で……私とは正反対なのが、いつもまぶしかった」
私なんかとかなにもかも違って、同じ人間だと思えないくらい。彼女はそう言った。
「でも、ここで『モモちゃん』と出会ったとき、思ったの。
アイドルだって……佐倉桃華だって、ひとりの人間だって。悩むこともあれば、愚痴を言いたくなるときもあるんだって。
最初はほんとびっくりして、まさかあんなに仕事のストレスが溜まってるなんて、思いもしなかったから」
「あはは、まあね」
初めてナギさんに声をかけられた夜を思い出す。あのときも、あれやこれやの
ナギさんは続ける。
「私と変わらない、私とおんなじ、女の子なんだって。
だから……思い切って、話しかけることにしたの。少しでも、力になりたいって……思って」
そういえば、初めての夜、ナギさんはこう言ったのだ。
『やなことがあるなら、ここでぶち
「不思議と、ここで話しているときはいつもの私じゃなくて……それこそアイドルみたいに嫌なことを笑い飛ばせる私になれた。
モモちゃんは私に、違う私を与えてくれた。
だから……あなたは私にとって、大切な人。憧れのアイドルってだけじゃなくて。
……まあ、モモちゃんからしてみれば、結局ひとりのしつこいファンの、
「ううん」
言って、相手には見えないけれど、私は首を横に振る。
「私だって、同じ」
「え……?」
「私も、ここにいるときだけ……ううん、
今の私は、本当の私。
だから――
今なら――
言える気がする。
私の、素直な気持ち。
「ナギさん」
「は、はい」
「私、こうしてるときのナギさんが好き」
ひとりの、女の子として。
「モモちゃ」
「でもね」
「ここじゃないと……この壁がないと、ダメなんだと思う」
きっと、私は本当の私でいられない。
私が素直でいられるのは。
私があなたを好きでいられるのは。
この5センチ越しでだけ。
「だから、ナギさんと会うのは、ここでだけ」
「……うん」
壁から背を離して、反対を向く。見えるのは、無機質な白。
「ここ以外では、私とナギさんは……アイドルとファン。赤の他人」
「……うん」
自分勝手なことを言っている自覚はある。都合のいいことを押し付けているのはわかってる。
けれど、これが私の精いっぱい。
「私もね」
ナギさんは答える。
「佐倉桃華は、アイドルとして好き。でも、『モモちゃん』は……ひとりの女の子として、好き。
……大好き」
「……うん」
真っ白の壁に、手を当てる。向こう側は見えないけど、きっと彼女も、同じようにしている。
私たちの手は、気持ちは。この5センチの壁越しに、重なる。
それから私たちは、少しずつお酒を飲んで、ほんの少し、話して。
「それじゃあ……また明日」
「うん、また明日、ね」
どちらからともなく、別れを切り出す。
1日のうちの、わずかな時間。それが終わりを迎える。
「おやすみ、ナギさん」
「おやすみ、モモちゃん」
そしてベランダには、誰もいなくなる。私たちの熱を、夜風がゆるやかに消していく。
1日のうちの。1週間のうちの。1年のうちの。
一生のうちの、ほんのわずかな時間。
5センチの壁を隔てた、その時間だけ。
私はあなたに、恋をする。
5センチ越しの恋 今福シノ @Shinoimafuku
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