第4話 私と、私の大切な人

 私の中には、何人もの私がいる。


 アイドルとしての私。

 20歳・大学生としての私。

「モモ」というひとりの女の子としての、私。


 それらすべてが別人格、なんてことはもちろんなく。

 それらすべては、佐倉さくら桃華ももかの一部だ。


 アイドルの佐倉桃華は、「モモ」という女の子を客観的に見つめ。

 女子大生の佐倉桃華は、ほかの私を俯瞰ふかんして眺める。


 一部であり、全部。どの「私」も見えない糸でつながっている。


 だけど同時に、別々でもあるとも思う。

 別々で、個別で、切り離すことができる。


 だから今この瞬間の私も――また別の私。

 どろの中のように汚れてしまっても。

 どんなに怖くて、苦しくて、気持ち悪くても……切り離してしまえばいい。


 そう考えて、しまえばいい――


「モモ……ちゃん!!」


 黒く、暗くて、よどんだ闇に。

 一瞬にして、光がした。


 私のことを、佐倉桃華のことをそう呼ぶ人間は、ひとりしかいない。


「ナ……ギさん……?」


 男の背後に立っているのは、華奢きゃしゃな女の子。表情を隠すほどの前髪。

 そこにいるのは間違いなく、隣の部屋に住んでいて、実は私のファンの、女の子だ。


「……っ!」


 ナギさんは私の置かれた状況を再確認して、声にならない声を上げる。するとすぐさま、手に持ったビニール袋から、何かを取り出し――男めがけて、投げつけた。

 瞬間、赤いネイルが、きらりと光って、


 ごん。


「ぐひっ!?」


 放物線を描いて、男の頭に当たる。変な声と同時に力が緩んだので、少しだけ距離をとることに成功した。


 コロコロ……。

 これって……缶?


 ナギさんが投げて、男の頭に当たったもの。それは、円筒形のアルミ金属。そしてラベルには、いつか見たイチゴ味チューハイと書かれていた。


「な、なんだぁお前」


 振り返った男が、ナギさんをにらみつける。ビクリ、と身体を震わせるも、彼女はしぼり出すように、


「モモ……ちゃんから……離、れろ」

「ナギ、さん」

「お、お前ぇ……」


 男はうなるように、


「お前、桃華たんの何なんだ」

「え」

「ぼ、ぼくはなぁ。桃華たんと運命でつながってるんだぞ」

「わ、私は……」


 言葉に詰まるナギさん。彼女だって、私をアイドルと知って近づいてきた。私が何も知らないのをいいことに。どう取りつくろっても、それは独りよがりにすぎない。

 そこにいる私のファンを自称する男と、何一つ違わない。


 はず、なのに――


「その人は……」


 彼女は、言う。か細いけど、精いっぱいの声で。


「私の、大切なっ、人ですっ」

「……!」

「モモちゃん……嫌がってる。だから……どっか、行け……!」

「なっ、なんだとぉ」


 男が立ち上がる。そして、標的をナギさんに定めて、


「邪魔するなあっ! ぼくと桃華たんは運命でつながってるんだ!」


 叫び、襲いかかろうとする。


「桃華たんはぼくだけのものだああっ!」

「きゃっ……!」


 女の子の悲鳴が、かき消されようとする。


 まさにその刹那。


「待てっ!」


 声を張り上げる。歌で鍛えた、どこまでも届きそうな声で。

 立ち上がる。ステージに立つみたいに、力強く。


「その子から離れて」

「モモ、ちゃん」

「あなたの目的は……私でしょ」

「も、桃華たん……」


 男が、再びこちらを見る。ナギさんに背を向けて。まるで、最初から彼女は眼中になかったみたいに。


「ふひっ。やっぱり桃華たんはわかってくれるんだね」


 じりじりと寄ってきながら。口をぐにゃりと曲げて笑いながら。


「ぼくと運命でつながってるんだって、桃華たんも感じてくれてるんだね。邪魔なやつはほっといて、続きをしよう、さあ桃華た――」


 ぱん。


 かわいた、音。


 私が、男の顔をはたいた音だ。


「クソ野郎」

「え?」


 男は、ほうけた顔をして頬に手を当てている。


「桃華たん……今なんて」

「クソ野郎っつたんだよ。聞こえなかったのか?」

「あ、え……」

「もう一回言ってやろうか? お前のことだよ、クソ野郎」


 言い放つ。すると、男はその場で小さくふるえ始めて、


「う、嘘だ……」

「はあ?」

「桃華たんはそんなこと言わない! 桃華たんはかわいくて、清純で……いつもぼくの方を見て笑ってくれてる理想の女の子なんだっ!」

「ばーか、違うっての」


 ぜえぜえと肩で息をしてオロオロし始める。こんなやつに襲われかけていたのかと、自分が少し嫌になった。


 もう、こいつに恐怖はまったく感じない。あるのはただ、あわれみ。


「これが私……佐倉桃華なんだよ。そして、てめえと私の間には、何の関係性もない。これまでも、これからも。ずーっとな」

「そ、そんな……」


 ぐにゃり、と男の顔がゆがむ。


「これ以上言うようなら、本当に警察を呼ぶ。まだ何か言いたいことはある?」

「う、うう……」


 頭を抱え、うずくまる。かと思えば、


「うっ、うそだああああああ!」


 勢いよく、そしていつくばるようにして逃げていく。黒い大きなシルエットは、あっという間に夜の闇の中に溶けていった。


 そして、路地裏は夜の静寂せいじゃくを取り戻す。ついさっきまでの騒ぎは幻想だと言わんばかりに。


「……」

「……」


 残されたふたりの間に会話はない。ただ、月の明かりがそっと照らしているだけ。


 こうして。

 アイドル、佐倉桃華への傷害未遂事件は、人知れずひっそりと、夜の黒へと消えていった。

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