第3話 拒絶、そして罰
「モモちゃん、どうかした?」
いつものように、私はベランダに立っている。
手には、チューハイの缶。だけど、ひと口も飲んでないし、開けてすらいない。
「元気ないみたいだけど……今日は飲まないでおく?」
壁の向こうから聞こえてくる声は、いつもどおり。私を心配しているような声音。
左手で握る缶は、いつもよりもずっしりと重たい。気のせいかもしれないけど。
「……ねえ」
「ん?」
「ナギさんって、私がなんの仕事してるか知ってる?」
「仕事? うーん、なんだろうなあ。昼間働いて夜遅くに帰ってきたりするから、OLとか?」
ナギさんの答えは、なんとなく予想がついていたものだった。仮に違う答えだったとしても、私の心に変化が生じるわけじゃないけど。
「うそ、だよね」
「え?」
「ナギさん私の仕事、知ってるんでしょ?」
ベランダに来るまでは何をどう言おうか迷っていたのに、びっくりするくらいすらすらと言葉が出てくる。ひと口も飲んでいないのにアルコールが入っているみたいだ。
「モモちゃん何言って」
「私がアイドルやってるってこと」
「アイドル? いきなりどうし」
「ナギさんこの間、握手会に来たよね」
しらばっくれようとする彼女の言葉を
「もしかしてモモちゃん、誰かと
「……赤いネイル」
「え?」
「それを見られるとバレるから、握手しなかったんでしょ?」
「それは」
「この間、握手会に来たのと同じ人が、ナギさんの部屋に入って行くの、この目で見たから」
だけど実際、
「……」
「ナギさん」
「……ぇと」
壁越し聞こえてくる声は夜風に吹き飛ばされてしまいそうなほど。それこそ握手会に来たあの女の子そのものだ。
「私がアイドルだってわかってて、近づいてきたの?」
「……」
「いつもの
「……」
「ほかのファンは誰も知らない佐倉桃華を知ってるって、
「……」
「ねえナギさん、答えてよ」
「……ごめん」
その一言で、すべてが確信に変わった。
ナギさんは全部知ったうえで、この場所で私に声をかけてきたんだ。なんとかしてアイドルの佐倉桃華と接点を持とうと。佐倉桃華の素の顔を見ようと。他のファンを出し抜こうとして。
「……これ、返す」
手の熱ですっかりぬるくなった缶を、壁の外側からナギさんの方へ。
「え、でも」
「いらない」
「……わかった」
小さな声とともに、チューハイの缶は赤いネイルの手で握られる。
「それじゃ」
「あの、モモちゃ――」
「気安く呼ばないで」
私に、ウソついていたくせに。
「ご、ごめん」
「それから……もう
「……うん」
壁の向こうからは、まだ何か言いたげな雰囲気がしたけど、無視して部屋に戻り、ベランダを閉める。
そして、勢いよくソファにダイブ。毎日している消臭スプレーの匂いが
……いや、気分が悪いのは、それだけじゃない。
ぜんぶ、なくなっちゃった。
1日のうち少しだけの、決して長くはない、心地よい時間。
アイドル佐倉桃華ではなく、モモというひとりの女の子でいられた時間。素の私をさらけだせる関係。
でもそれはまやかしで。私がひとりで勝手に喜んでいただけ。浮かれていただけ。
最初から、私は裏切られていた。
ぜんぶ、なくなった――いや、はじめからモモという人間には、アイドルという
きっと、夢を見ていたんだろう。
私が
優しい言葉をかけてくれる人。
そんなナギさんに、憧れを抱いていたんだろう。
いや、
「……私、ナギさんのこと、好きだったのかな」
ぽつり、と口に出したことで、私の気持ちは徐々に現実味を帯びてくる。そうだったのかもしれない、と。
でもそれは、今となってはどうでもいいことだ。
もうあの場所で、壁越しに彼女と出会うことはないんだから。
気持ちとともに、意識もだんだんとしずんでいく。暗い、暗い湖の底へ。
光が届かない水底。明日からの生活は、きっとそんな感じだろう。水圧に苦しみながら、一筋の光さえもない場所で。
いつのまにか、私は眠りについていた。
***
久しぶりに事務所に呼び出されたと思ったら、マネージャーの机の前で立たされていた。
「おい佐倉、この間の番組はなんだ。先方のプロデューサーから苦情がきてたぞ」
「すみません……」
「いつもみたくアホっぽくてかわいらしいのが全然足りてないってよ。お前そのキャラでなんとか売れてる自覚、あるのか?」
「……気をつけます」
自分では気づいてなかったけど、ナギさんとのことが意外と
「ったく……頼むぞほんとに。もうガキって歳じゃないんだから、こっちがいろいろ言わなくても自分のことは自分で注意しろ」
この人の小言は、ひとりで勝手にボルテージを上げていくから、とりあえず聞くだけ聞いておくのが吉。
「ほらこれ、次の仕事だ。雑誌の撮影で、明日の朝10時に新宿」
「……はい」
「もう日も落ちてるから、ちゃんとタクシーで帰れよ? その辺歩いてインスタとかにあげられると、めんどくさいからな」
「わかりました」
マネージャーの
結局この人も、私をただの商品としか見ていない。サイリウムを振り回すファンと一緒。私自身のことなんて、誰ひとりとして見てくれていない。
――信じていた、ナギさんでさえも。
だからってわけじゃないけど、私は大通りでタクシーを捕まえずに、駅へと向かった。なんのことはない、少しだけ
電車に揺られて、駅を降りて、歩く。照明も少なくて、ほぼ真っ暗の道。
もう少しで家、というところで、
いきなり腕をつかまれた。
「きゃ――」
悲鳴を上げる間もなく、ものすごく強い力によって身体を路地裏に引き込まれる。
「ちょ、なに――」
なんとか腕をふりほどくことに成功する。が、バランスを崩してその場に尻もちをついてしまった。
痛みで思わず閉じてしまった目を開ける。
と、その眼前には、
「はあっ……、はあっ……」
おおいかぶさるように、太った大男がいた。
「も、桃華たん……」
あまりに至近距離のせいで、暗くても男が顔じゅうがべとべとの汗でコーティングされているのがわかる。息も異常なまでに荒い。エサを前にした空腹の肉食獣みたいに。
「ちょ、やめて……」
しぼり出す声は震える。
「警察、呼び……ますよ」
こんな太ったオタクっぽい男なんて、何をしてこようがいつでも
男はまるで何かに酔っているみたいにろれつの回らない声で、
「やっと、やっと会えた……ずじゅ。桃華たん……」
「ひ……」
「ライブとかじゃなくて、駅で会えたってことは……ぼくたち運命の糸でつながってるんだよね……」
そうか、今日に限ってタクシーを使わなかったことが裏目に出てしまったのか。
男は『見かけた』ことを『会えた』と勝手に解釈しているんだろう。
「ぼくの……ぼくだけの、桃華たん……」
「やめっ……て」
必死に
「きゃっ」
男が、私の両肩をつかむ。身体が――顔が、みるみるうちに近づいてくる。
なんとかして力を入れて、動こうとする。だけど男の力の前にかき消されてしまう。
「桃華たん……っ! 桃華たん……っ!」
これは、たぶん
内心ではファンを
ひとりの大人として、マネージャーの忠告を聞かなかった私への。
そして。
1枚の壁を隔てて私に寄り添おうとしてくれた人を拒んだ、私への。
人を信じようとしなかった汚い私には、お似合いの罰だ。
これで私も終わりだな。
あーあ。
ごめんね、ナギさん……。
最後にそう思って、力を抜いて私の身体はだらりとなった。
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