性癖:自らの両親を殺した男にかしずく少女

海野しぃる

君色サブリミナル

 ――似合わないな。

 橋本レベッカは廊下の鏡を見て笑う。

 つやつやと輝く金の髪と澄んだ青い瞳、それに形よく吊り上がる桃色の唇は、質素な台所用のお仕着せで満足していない。

 身だしなみに乱れたところが無いことを確認してから、彼女は主人の部屋をノックする。


「旦那様、朝食でございます」

「入ってください」

「失礼いたします」


 扉を開くと彼女の主人が座っている。繊細そうな痩身の中年男性。細野イサク。朝早いと言うのに部屋に入るまで仕事をしていたようで、ヒューレット・パッカードのノートパソコンを丁度畳んでいるところだ。銀縁眼鏡を外してレベッカの方を見る。謹厳な印象が一瞬だけやわらぐ。


「ご苦労さま、丁度腹が減って死にそうなところだったんです」

「死にはしないでしょう。旦那様は」

「そうでもないよ?」

「あら悲しい」

「君よりは後だけどね」

「はいはい」


 レベッカがサービスワゴンの上に並べられた皿を一つ一つ並べていく。

 醤油が隠し味の鱈のオリーブオイルソテー、クコの実が入った卵入りコンソメスープ、近郊の牧場で直接買い付けたバターをたっぷり塗ったトースト、サトウキビ酢で作ったフレンチドレッシングをかけたキャベツと人参のサラダ、それにはちみつとブルーベリーの入ったヨーグルト。搾りたての牛乳もある。

 全て彼女が早起きして作ったものだ。

 いただきますもそこそこに、イサクはそれを食べ始める。


「さてレベッカ、君も食べていきたまえ」


 イサクは牛乳の最初の一杯を二秒で飲み干してからそう命じる。拒否権は無い。

 彼女がイサクに引き取られた当初は『君は食べましたか?』という質問だった。

 その度に、彼女は教育係だった老婆と共に普段より少し豪勢な朝食を味わった。老婆はしきりに恐縮していたことを思い出すが、目の前の男がいつも『一人というのは味気ない。使用人と言っても君たちしか居ないのだから、気楽に話し相手になってください』と言って押し切っていた。

 そんなことをレベッカは思い出す。


「では失礼いたします」


 用意していたサンドイッチとオレンジジュースとサラダを出して、椅子を運び、少し大きな机の向こう側に座る。


「もう少し食べたらどうです?」

「十八歳の女の子はこんなもんでしょう。むしろ旦那様が朝から随分とご健啖であらせられますから、私は毎朝早起きが大変ですよ」


 イサクはくすくすと笑うと感慨深げな表情を浮かべる。


「十八、そうか、もう。早いものですね……八年はこの屋敷に居るのか」

「十年です」


 ――旦那様に両親を殺されてから。

 とは言わずにクスクスと笑う。


「ああごめんね。忘れっぽくて」


 イサクに悪びれる様子は無い。同じく笑う。


「記憶を失くすのがお仕事ですものね」

「まあ私は政治家です。秘書の罪を泣く泣く追求しなければいけない時もある。優秀な私がそのようなミスを犯したことは一度も無い訳ですが――」


 鱈のソテーを食べて自慢げな表情をする。

 ――当たり前だろう。

 レベッカは笑ってしまいそうになる。

 ――貴方はこの町の人間の全てを掌握しているのだから。

 窓の外を眺めれば飛び込んでくるのは整然と動き始める朝のメインストリートの風景。


「どうだい。今日も美しいだろう。私の町は」

「……はい」


 満足しているのか、今日のイサクは能弁だ。

 レベッカが適当に聞き流しているのにも構わず、その鋭い瞳を少年のようにキラキラ輝かせて、何時もは端正に引き締まった口元を大きく開けて、楽しそうに楽しそうに話し続ける。


「そう、なにせ彼らは私の人形だからね……美しいに決まっている。恐らく自我を持っていた頃の1000%くらいは優秀になっている。この町は自律機動する優秀な人間にんぎょうに支えられた豊かで幸福な町だ。誰にとって? そう、私にとって。私は偉くて優秀で人間ではない。人間の魔術師は一時間ほど汗水たらして用意して目の前の人間をえっちらおっちら一人操る。その間に、私は指を一回鳴らして町一つを掌に収める。それくらいの力の差というものがある。君のような魔術師でもない人間となら尚更だ。だから私はこの世界の綺麗なものを享受する権利がある。賢いレベッカちゃんなら分かりますね?」


 それはレベッカが事あるごとに聞かされた話だ。何時も内容は変わらない。使う数字もずっと1000%だ。


「……はい」


 ――このクズ。少しは内容変える気が無いのか?

 そう思う気持ちと裏腹にレベッカの身体は本能的に怯えて俯く。

 ――多分一生、私はこうやって生きていく。


「怯えなくても良い。君には自我が残っている。私の力が通じない人間が偶に居る。価値のある人間だ。だから君も日々の仕事を頑張ってくれれば良いし、通信教育で勉強もして良い。給金はさして多くはないし、これからも昇給のペースはさして変わらないだろうけど、それでも随分溜まっているだろう。あれは好きに使ってくれて構わない。もう十八なのだから自立したいと思うならここを出て生活してくれても良い。私は寂しくて泣いてしまうでしょうけどね」


 その言葉にはレベッカも素直に不満げな表情を浮かべる。

 そしてひとまず気まぐれに殺されることはないと分かったので、気安くつけあがってみせる。そういうことをしても優しく笑って許された日にはよく眠れた。


「あのですね。こんな世の中で何処に行けって言うんですか。私が生まれたくらいの頃に感染症で人がいっぱい死んで、それからずっと景気もどん底、治安もどん底、ようこそ世紀末って感じじゃないですか。そんな中にか弱い乙女を屋敷を放り出したいならそう言ってください」

「……えぇ、まあ、それは悪かったかもしれませんね。貴方がここで働きたいならいつまでも居て欲しい。いくら自動化が進んでいると言っても一人は屋敷の手入れをする人間が必要ですから。君が嫌いになったり飽きた訳じゃないんですよ、本当です」


 イサクはしょんぼりとした表情を浮かべるが、それでもサラダを食べている。

 ――けど、普段より食べ方が遅い。それに普段のサラダなのになんだか美味しくなさそうな顔。

 ――まあちょっとは落ち込んでるのかも。なんなんだろ、この人、笑える。気に入らないなら私もパパやママみたいに殺せば良いのに。出来ないんだ。私は気に入られているから。

 

「あーあ、使用人相手にそんな顔しますかね普通」

「……いや、君ならばもっと色んな事ができたのではないかと思うとね。君の力の10%も引き出す事ができていないのではないか……勿体ないし、悲しい……」

「桁反復横跳びしすぎでは?」

「はぁ……人類は細かいな……」


 ――何言ってるんだろう。

 レベッカがぽかんとしている間に、イサクはソテーのソースを最後に残ったトーストで丁寧に皿から拭って口の中に放り込む。レベッカはと言えば三つ有ったサンドイッチの最後の一つがまだ残っている。主が食べ終わったというのにダラダラ朝食をとっている訳にもいかない。慌ててオレンジジュースでサンドイッチを流し込む。


「まあいいや、今日は勤続十年を祝って君にプレゼントがあります」


 ――八年とか言ってた癖に面の皮が厚いなあ。

 レベッカの気持ちを知ってか知らずか、イサクは嬉しそうに、わざとらしく手まで打ってみせる。そして机の引き出しの中から小さなオートマチック拳銃を取り出す。


「護身用ですか? この町で使うとも思えないし、何処か遠くの町へお使いの仕事でもあるのでしょうか?」

「アウラニイスの緋の神弾、神器です」

「は?」

「神の力を持った“物品”ですよ。アウラニイスは古い死神の名前でね。最も奔放なる死を齎すもの、という意味を持ちます。一度引き金を引けば、それは互いに公平な確率で死を運び、生き残った者の手の中に戻る」

「なんですって? 死ぬって今……」

「私は1000%確実なやり方の方が好きだから絶対に使わないけど、不幸に生まれて不幸に生きてきた君ならちょっとくらい揺り戻しのラッキーヒットとかあるんじゃないかな。あると良いね。あるよ、信じてる。グッドラックマイフレンド」

「旦那様、その、それは……」


 恐怖と混乱でレベッカの意識が遠のきかける。

 ――何を押し付けられている。

 ――私は、何を。この男から。急に。

 イサクは邪気のない嬉しそうな表情のままだ。


「そんなものを持って……大丈夫なんですか?」

「普通なら手に取るだけで50%ですね。けど君はもうとっくに生存率0.001%の地獄を生き残ったじゃないですか。1000%……いや100%大丈夫。こわくないよ。あげる。使ったらすっきりするよ」

「ありがたく……いただきます」


 レベッカは言われるがままに手に取る。すんなりと手に収まる。何事もない。

 ――今、これを目の前の男に向けたら。

 ――向けたら。もしかしたら。

 目の前でほっと安堵のため息をついているイサクをレベッカは見つめる。

 イサクはそんな彼女の青い瞳を見つめ返す。レベッカの心臓が早鐘を打つ。

 

「やあ、良い表情をするようになりましたね人間レベッカ。そう、それなら、その表情ができるなら。神様も殺せてしまうかもしれません。二回に一回くらいはね」


 ビクリと身体を震わせる。

 ――そんなことをしたら殺される。

 ――なんなら今、気まぐれに殺されていたかも知れない。

 心臓を握りしめられるような感じがした。

 レベッカは退室の礼もそこそこに、朝食の皿をワゴンの上に片付けて、箱の中に収められた拳銃を自室に持ち帰った。


     *


 ――弾はさておき、銃のことは知らなかったけど。

 レベッカがスプリングフィールドXDサブコンパクトという名前を知ったのは“アウラニイスの緋の神弾”を渡された日の晩のこと。仕事を終えたイサクが寝る前に楽しそうに語っていた。

 ――知らないからといって興味が出るかと言えば、聞かされる程にめちゃくちゃどうでも良くなっていくもので。

 そんな彼女の思いも知らず、イサクがレベッカにトレーナーをつけて射撃訓練を始めたのが先月のこと。


「んん、まあ護身用に持つなら十分だねぇ」


 とそのトレーナー言われて訓練の終わりを告げられたのがつい先程。

 今のレベッカは二十年以上前に作られた拳銃を分解・清掃ができる。誰にも見られないように携行し、そこから三秒以内に射撃を行い、5m以内に立っている人間サイズの標的の身体の何処かに当てることはできる。大した腕ではない。身の危険を感じて逃げる間に銃を抜いて、襲いかかる相手を待ち構えて引き金を引くなら十分という意味だ。


「けど、引き金を引くだけなら二秒で十分です」


 イサクの執務室に戻ったレベッカはその言葉でこの一ヶ月の訓練成果の報告をしめくくった。


「それは重畳。私を二秒で殺せる訳だ」

「お戯れを」


 ――少し、楽しいな。

 目の前で楽しそうにニヤつく男を見ながら、レベッカは自分も気分が良いことに気づく。

 ――なんでだろう?

 それが分からない。分からないけど、気分が良い。その奇妙な感覚が慣れなくて戸惑う。お仕着せの上から装着しているヒップホルスターの中に収まった小さな鉄の塊とその重さに高揚している訳ではない。むしろ、この暴力はレベッカにとって恐怖の筈だった。


「ああ……けど、旦那様」

「なんだね?」

「仕事用の服を買ってきても良いでしょうか。昔から用意されているものはずっと同じデザインでちょっと地味だから、お洒落な奴にしてみたいです」


 ゾクリとした。

 ――なんでこんな馬鹿な事を言っているんだろう。

 だが同時にとても楽しかった。


「それならあつらえさせるよ。デザイナーを呼ぼう。君のリクエストも取り入れて、君の期待の120%を提供できるぞ。急ぐならばレディメイドの品を使い魔に買って来させよう」

「あっ、そうでしたか。ではそれはそれとしてちょっと夜遊びしてみたいです」


 イサクは驚いたような興味を持つような表情を浮かべた。

 それからずれた眼鏡を直す。

 ――あ、今の動作可愛い。

 レベッカは思わず微笑む。


「確かに今の日本では護身用の拳銃は所持を許されているよ。けどね、試しに覚えた技術で人間を撃ちたいならもうちょっとこう、この町にはないスラム街みたいな治安の悪い場所でないと私が困ってしまうな……」


 レベッカの笑みは凍りつく。凍りついた笑みのままゆっくりと後ずさる。


「発想が物騒……ですね? え、こわっ……怖い……。何かあったんですか?」


 イサクはしばらく黙っていたが、一つため息をついた後、レベッカには分からなかった何かを誤魔化すように、そして仕事が終わった後のような優しい笑みを見せる。


「すまないけど、お散歩ついでに一つお使いを頼まれてくれないかな? シュークリームを買ってきてほしいんだ」

 

     *


 レベッカは私服姿で街に出た。お仕着せは目立ちすぎる。

 彼女にとって整った目鼻立ちと恵まれたスタイルは母親から与えられた唯一の財産。ファッション雑誌にありがちなヒョウ柄の短パンにさくらんぼが大きくプリントされたトレーナーを着て、メゾンマルジェラの黒いバックパックを背負えば、どこぞの国のお騒がせセレブのようには見える。品があるかは別として、少なくとも誰もスラム生まれの使用人だとは思わない。

 サイホルスターに堂々と護身用の拳銃を入れてなければ、自律駆動する市民やこの町に招かれた外部からの客がレベッカに声をかけていたことだろう。


「すいませんクッキーシュー二つとハニーレモンソーダください。あとテイクアウトでイカスミ岩塩クリームシュー五つください」


 彼女が住む隠州市は治安の良さと安定した物流だけで世界に名だたる別荘地となっている。レベッカと同じような服装の女性は結構多い。夜のショッピングエリアということで男性だってそこそこに着飾って歩いている。

 ――けど、私より見た目の良い人は居ないな。

 街角で買ったシュークリームをベンチに座って食べながら、満足げな笑みを浮かべる。イサクが普段から美味そうに飯を食う理由が分かった気がした。

 ――両親は私を生んだから用済みで良かった。

 ――旦那様は私にたっぷりお金と生きる術を教えてくれたから用済み?

 ――殺せるようになったから、殺してみたくなってるだけ? それは違うな。人殺しとかってそもそも嫌いだし。

 

「あの君、細野イサクさんのお屋敷で働いている人だよね?」


 後ろから声をかけられる。高いところから低い声。男性の声。

 怖い。思い出す。初めてイサクと会った日のことを。

 ――あの人は私が泣きそうになったらすぐに膝を折り曲げて目線を合わせてくれたっけ。初めてだったな。

 レベッカの大腿に絡みつく銃のひんやりとした重さ。男から漂う緊張感。妙な事態が発生していることは、彼女にも分かった。

 レベッカはゆっくりと立ち上がり、またゆっくりと前に歩きだして距離をとってから、ゆっくりと振り返る。


「名も名乗らずに質問? 随分不躾な方ですこと……」


 レベッカの視線の先には絵本の中の魔法使いのようなローブ姿の男が居た。

 彼女の胸は高鳴る。口角は上がる。気分は最高だ。

 ――そうか、そうか私、こういうのが……。

 何時でも抜けるようにホルスターに手をかけた。けれど、次の瞬間には彼女の視界は真っ暗になっていた。


     *


「お帰りレベッカ、早かったね」

「買ってきましたよ旦那様。イカスミ岩塩クリームシュー五つ」

「ごくろうさまです」


 イサクはレベッカから差し出された紙袋を両手で受け取る。

 そして中のシュークリームを一つ取り出して、口に運ぶ。

 唇の横に黒いクリームをつけて、嬉しそうに頷く。

 舌を伸ばしてそれを舐め取ると、イサクはお決まりのセリフを呟く。


「美味しいが、ばあやの作ってくれたシーソルトアイスの味が恋しくなるな」


 もうとっくに亡くなったレベッカの教育係の老女だ。レベッカは今聞いたアイスの作り方を教わっている。

 ――けど多分食べたいのは私の作ったアイスじゃないんだろうな。

 ちりちりと焦げる。何が焦げているのかはレベッカ自身も分かっていない。ただ、なんとなく嫌な感じがした。


「今度お作りしましょうか?」


 努めて笑顔のままでレベッカは聞く。

 同時に彼女の指先が彼女の意思と関係なくホルスターから拳銃を抜き出す。

 レベッカ自身は自らの指先のことを意識すらしていない。

 

「そうだね、それは素敵で――」


 狙いをつけて、引き金を引く。そこで初めてレベッカは自らの異常に気がつく。

 その銃弾は過たず細野イサクの脳天を貫いた。

 派手に散った血と脳漿が屋敷の決して広くない玄関を赤と桃で染める。

 ――なに、これ。

 目の前の惨状にレベッカは我が目を疑う。

 ――死んでいる。いや、違う。私が殺した。

 

「旦那様?」


 ゆっくりと近づく。

 肩に触れる。急速に熱が消えていく。銀縁眼鏡の乗っていた上半分は消えてなくなっている。優しい言葉を囁いてくれた下半分だけがぽかんと口を開けている。

 ゲラゲラと笑う声が何処かから聞こえてくる。

 ――私を笑っている。

 それに反応することもできず、こみ上げる吐き気のままに先程までシュークリームの紙袋を入れていたビニール袋へと胃の内容物を吐き出す。わずかにレモンの香りが残っていて、さっきまでの愉快な時間を彼女に思い出させる。

 ――最悪だ。やっぱり、人を殺すなんて最悪だ。目の前のこの男も、私も、最悪だ。

 耐えられなくて泣き出す彼女を声は嘲笑し続ける。

 ――この声は聞き覚えがある。シュークリームを食べていたら声が聞こえた。

 ――あいつだ。私は、あいつに、なにを?


「記憶を読んだんだよ。橋本レベッカ、隠州市市長・いさな海運社長の細野イサクの家で雇われているメイド。只の人間だが、先月イサクに“アウラニウスの緋の神弾”を渡されて銃の訓練を始めた。それが仇になった訳だ」


 口元を拭い、レベッカは声の方向を見る。

 ローブ姿の男は居ない。けど、何か影のようなものがモヤモヤと浮かんで声を発している。


「なあどんな気分なんだ。自分の両親の仇なんだろ? 目の前で両親を指先から捻じり殺されたんだっけ、途中で痛みに耐えられないから死にそうになって、頭をいじられて、最後まで捻じられたんだよな。イサクの気まぐれみたいな理由でさ。馬鹿が死ぬのは最高の娯楽だよなあ。親子二代揃ってこうやって理不尽に死ぬ訳だ」


 レベッカは浮かぶ影から見えないように、自分の体で手元を覆い隠しながら、スプリングフィールドXDサブコンパクトのマガジンを交換する。音が向こうに聞こえないようにゆっくりと。この一ヶ月、何度も繰り返した作業だ。

 ――楽しい。信じられない。

 ――すごく、楽しい。これから人を殺す筈なのに信じられない。


「でもお前は俺が助けてやってもいいぜ。あいつのお下がりってのが気に入らないが、顔は良いし、最低限の礼儀作法も叩き込まれている置いても恥ずかしく――」


 もう影の声は聞こえていない。レベッカは目の前の刺激に夢中になっていた。

 イサクに使い方は教えられていた。

 敵の認識、自分の認識、そして神器を使うという明確な意思。

 ――アウラニウスの緋の神弾。

 頭がすっきりしている。今、交換したマガジンに入っているものが“それ”だ。


「さて、どうだいレベッカちゃん。命乞いのチャンスをあげよう」


 ――答えはこれだ。クソ野郎。

 映画みたいに格好良く言い返せたら良いのに、そう思った。

 けど、少しでも失敗の可能性を下げる為、レベッカは何も言わない。そして無言のまま、腹の下で自らに向けて引き金を引く。

 ――死亡確率は何処に撃とうがどれだけ離れていようが50%だ。だったらバレない為にはこれが良い。

 腹に押し当てていたせいでパフッというくぐもった音が鳴った。身体に痛みは無い。思わずにやけながらセーフティーをかける。

 ――勝った。

 影の中から断末魔が聞こえる。何かを咀嚼するような音。何かを啜りとるような音。慈悲を懇願する声、悲鳴、痛みを訴える声、暴れるような音、意味を為さぬ怒声、なにかに助けを嘆願するような声、もう一度慈悲を懇願するような声。


「骨が! 骨からなんか無くなってる! 吸わないで! もうやめてぇ!」


 ――私は生きている。

 手の中にアウラニウスの緋の神弾が戻ってくる。マガジンに込め直す。装填。先に装弾された通常の弾頭を排出する。

 ――旦那様は死んでしまったけど、私は。

 ――私は賭けに勝った。

 理性はこの先の身の振り方が分からなくて悲鳴を上げているのに、レベッカの表情は確かな歓喜によって薄い笑みで彩られている。

 ――そうか、私、これが楽しいんだ。お父さんと同じだ。

 膝を突き、俯いたまま拳銃をホルスターに収める。吐瀉物の入ったビニール袋のひもを結ぶ。死人の悲鳴はどうでも良かった。橋本レベッカは敗者に興味を持たない。だがしかし、だ。


「や、まあ種明かしをするとですね」


 聞き慣れた声にレベッカは顔を上げる。影の向こうからは信じられないとでも言いたげな男の一際甲高い悲鳴が上がる。


「確かに神弾で殺した筈。ふふっ、そうですね。そう思いましたよね。通常の銃弾ではこういう風に簡単に蘇りますから。そう考えた君はこれからその神弾で死ぬんですが、私もその神弾に対抗可能な力を持っているので少しだけ延命してあげます。レベッカちゃんからしたら君は居場所の分からない敵ですが、私からしたら掌の上の虫。居場所も家族構成も友人関係もしっかり抑えていますのでご安心を。ならなぜ先んじて止めなかったのかって? 私は政治家なので知らないふりをする事と命を狙われる事は業務の一環だからです。さあ、ミナヅキサクヤ君。最期の瞬間まで私の話を聞いてもらいましょう」


 そこにはもう赤も桃も散らばった骨片の白も無い。

 代わりにいつも見ている銀縁眼鏡と年齢を感じさせない怜悧な細面。

 いつの間にか、いつもどおりの細野イサクが立っていた。

 ――少しだけ、格好いい。

 ついそう思ってしまって、くやしくて、銃口をあのにやけ面に向けたくなる。向けたくなるだけだ。


「確かに神弾で細野イサクを殺した筈。君がそう思ってくれるように私はレベッカちゃんの記憶を先に書き換えました。それは拳銃に装填しているマガジンにアウラニウスの緋の神弾を入れているというシンプルなものです。勿論君と違って両者合意の上での行為なので、短時間かつ君では気づかない精度で書き換えが可能になります。記憶操作は先出し有利、精神操作は後出し有利、これは心を操る魔術師なら皆知っている原則です。君は人間ではなくて虫なので目の前にぶら下がった甘い蜜に誘われてこれを忘れました。虫は頭が悪くて魔術が下手ですね、我々が教えた知恵の0.1%も理解していない。君は本来ならば復活した私の1000%の力で地獄を見るところでしたができたメイドが先に始末してしまったので……」


 イサクの演説の終わりを待たず一際大きな悲鳴が上がる。それから声が途絶える。影が消える。イサクはレベッカと二人きりになったことを確認してから、ゆっくりと、耳元まで口が裂けそうな下品な笑みを浮かべる。


「ああ……駄目ですねえ根性のない人間は。私の友人の小説家は胸を裂かれて骨に穴を開けられて全身を病に犯されても私が少し手助けしたらすぐ小説を書き続けていたのですが。私に救われた人間にはあれくらいはやってほしいですよね」


 そして目を見開いて叫ぶ。ゲラゲラと狂ったように笑いながら叫ぶ。


「けど本当に虫が最後にさぁ! 母親の名前を叫ぶなよなぁ! そういうことされるとさぁ……笑っちゃうだろそういうの……馬鹿だよなあ。本ッッッ当に人間だぁ~いすき! そういうことしたら一族郎党皆殺しにされるってわっかんないかなあ~? もうバレてるとでも思ったのかなあ? 一々調べるかよブラフだよ馬~鹿ッ! 種の保存もできないんじゃ虫以下じゃ~ん! すげえよなあ虫以下になれるんだもん人間! 無限の可能性を感じるよ! ハハハハハハ! アハッ……はあ、やはり私が管理しなくてはいけません。少しでも多くの虫を人間にしてあげなくては」


 レベッカはそれが昔見せてもらった映画に出てきた悪役のピエロみたいだと思った。イサクは指を鳴らして吐瀉物で一杯のビニール袋を消す。


「さて、お疲れさまでした。ご褒美をあげましょう。ばあやと同じクソダサお仕着せが嫌と言っていたのでクラシカルな清楚さとモダンなデザインが融合した全く新しいアルティメットなメイド服です。レディメイドでも良いものはありますね」


 もう一度指を鳴らして、返り血で汚れてしまったレベッカの服を新しいデザインのお仕着せに変える。そして立ち上がれないレベッカを片手で抱えあげる。


「えへへ……ありがたく……いただきます……」


 そしてもう片方の手で頭を撫でてから、両腕を使ってお姫様のように抱き上げる。


「貴方は私の予想の1000%くらい頑張ってくれましたね。私はとても嬉しい。心から感謝しています。さあ、今日は君の寝室でゆっくりおやすみなさい。あそこならシャワーもあるし、ハーブティーでも飲んで……」

「あの、イサク様、私自分一人で歩けますよ? そんなことなさって、今度こそ私に撃たれたらどうするんですか?」

「面白い発想ですね。これだけ油断した私は50%の確率で貴方に殺されてしまうかも知れません。試してみますか?」


 ――このおじさん顔が近い。この距離でそんなことを言われるとドキドキしてしまう。やめてほしい。やんちゃは年を考えて言って欲しい。若者に悪い影響を与えるのが趣味なんだろうかこの人。

 レベッカはゴクリと生唾を飲み込むがすぐにわざとらしくため息をつく。


「ちょっとドキッとしましたが、私、勝ち負けが無いゲームは嫌いですよ」

「言ってること分からないですよレベッカちゃん、飛躍しないでください」

「私が死んでも旦那様が死んでも私は損します。それは駄目です。私はギャンブルが好きなのであって損するのは嫌いです」

「分かりました。意外な趣味を見つけたものですね」

「ああ、けど」


 ――そうだよなあ。私が旦那様を殺したら私が最後で旦那様を独り占めかな?

 仄暗く笑う。

 ――もう誰にも手が出せなくなるもんね。

 仄暗い心の底から、濁った色の雫が表情に落ちる。

 ――それはちょ~っとドキドキしちゃうなあ。


「どうしたんですか?」

「あっ、今思いついたんですがバレないように旦那様のお金を使い込むのはちょっとドキドキしますね……」

「やめたまえ! 君は本当に何を言っているんだ。そういうのは流石に怒るぞ私は!」

「あの、絶対、絶対に倍にしてお帰ししますので……」


 レベッカを支えた片腕の感触が一瞬消え、パチィンと良い音が屋敷中に響いた。

 彼女は慌ててイサクの腕から飛び降りると顔を真赤にして5mほど距離を取る。


「セクハラですよそういうことします!? 顔も嫌ですが顔の方がまだマシです!」

「……いや、流石に今の発言は一発叩き込んでも良いよなって、つい。悪いことをしたとは思うのですが流石にこれくらいの横暴は許して欲しいレベルの最低な発言が使用人の口から出そうになったので……ついやってしまいました。只の使用人ならまだしも八歳から育ててる相手だと、こう、やってしまいますね。人間の十年の感覚を忘れていたことは否定できません。あと男性の私がばあやの真似をしたことについては倫理的に良くなかったことを認めて臀部への打擲は今後は控えますが……そもそも暴力は良くないですからね? せめて顔にしろとかいう問題ではありません。人間社会のルールを覚えましょう。私の治める隠州市は治安がよく平和な町です」

「う、うぅ~! まあ……冗談の範囲から外れていたのは認めますが……八歳児扱いしましたよね? 今絶対そういう感じでしたよね? 十八歳扱いしてくれませんか! 何をなさるにしても! いえその、冗談が過ぎたのは勿論認めて謝罪いたしますが!」

「そういったつもりですが……ふふ、困りましたね」

「い、いえ、その、悪いことを言ったのは私ですが……うぅ……!」


 顔を赤くしているレベッカを見てイサクも困ったように頭をかく。

 ――ど、どうしよう。私、完全に困った子供だ。完全に子供だ。子供扱いされて怒ってるのは子供だよ私……!

 焦るレベッカの心を知ってか知らずか、イサクはわざとらしく肩を竦めて、ウインクをする。


「さて、そんな冗談が飛び出すなら貴方も大丈夫そうですね。仕事が溜まっているので私は自分の部屋に戻ります」

「え、えっと、旦那様」

「なんですか」


 真面目な表情に戻って、レベッカは大切な言葉を繰り返す。


「私の頭では、旦那様が納得できる言い方は分かりません。けどそんなに気にしなくても私は旦那様を殺せませんよ。死んだほうが良いかもしれないと思うことも、殺したくなる瞬間もあります。だけど、何を賭けても良いです。殺せません」

「そうですか?」

「そういうとこ、親より長く私の面倒見てるんだから、少しくらい自信持って欲しいです」

「分かりました。私を撃った時、少しも嬉しそうじゃないから変だとは思ってましたが……そういうことなら信じましょうか」


 イサクは長く深いため息をつく。


「しかし……君は思ったよりつまらない人間のようだ。しかし困ったことに私はそんなつまらない君が更に愛おしくなってしまいました。私を困らせた罪は今後の精勤を以て償うように」


 イサクは眼鏡を一度直すと背中を見せ、自らの部屋に向けて歩いていく。

 ――追いかけていって袖は引かない。だって私はメイドで、あの人は親の仇ですもの。それに度し難い化け物。だから、こうやって送ってやれば良い。

 まずはスカートの裾をつまみ上げてカーテシー。


「……それでは旦那様、お先に失礼いたします。ご容赦を」


 それから精一杯悪い女の子の笑みを浮かべる。

 イサクの消えた廊下。橋本レベッカは廊下の鏡を見る。今度は心からの笑顔。

 輝くような新品のお仕着せ、つやつやと輝く金の髪と澄んだ青い瞳、それに形よく吊り上がる桃色の唇。赤い舌を伸ばして、ほんのりと上気した頬についたイサクの返り血を舐める。美味しかった。

 ――似合ってる。

 廊下の鏡に指鉄砲を向けて、バァンと呟いた。

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