第187話 4月―ハッピーエンドはここじゃない
あれから7年の年月が流れた。
四月初旬。
僕たちは満開の桜並木の下を歩いていた。周りにもスーツ姿の人たちがちらほらと見受けられる。時間を気にしながら足早に歩く男性や、スマートフォンを構えて写真を撮る女性など、行動は様々だ。しかし僕たちほど若い子供連れはさすがにいない。
僕と乙姫をつなぐように、三人の真ん中には娘の
「こら、乙夏、走ったらダメって言ってるでしょ!」
「気にしすぎだよ、子供ってそういうものだろ」
「あなたは本当に甘いんだから」
白地のワンピースに黒の上着を羽織った、レディススーツ姿の乙姫は、ここにいるどの女性よりもきれいだし、若々しさだって負けていないと思う。
知らない人に一児の母だと明かすと、未だに驚かれる彼女だが、子を叱り夫をにらみつける姿には、間違いなく母親の貫禄がある。
乙姫は「まったく……」とため息をつきつつ、指先で眼鏡の位置を整える。
その横顔を眺めながら、これまでの時間を想う。
高校を卒業してからの、慌ただしくも充実した日々のことを想った。出産直前の自分のうろたえっぷりを思い返すと、いまだに恥ずかしさがこみあげてくる。産まれたばかりの乙夏を見たときに流れた涙の理由は、永遠に言葉にできないだろう。乙姫は全力を出し切って役目を果たした。その彼女に抱いた感謝の念を、一生かけて伝えていこうと改めて心に決めた。
子育てに右往左往して、ときに意見をぶつけ合った日々のことを想った。学生時代みたいに睨み合って文句を言って、だけど乙夏の姿を見ると、お互い冷静になれた。その乙夏が体調を崩したときは、また
そして――
乙夏がまだ産まれる前の、高校生活の日々を想った。あの当時の僕たちは、未完成で不安定で、だからこそ、いろんな可能性に満ちあふれていた。ちょっとしたすれ違いや、異なる選択、それこそ列車をひとつ乗り過ごしただけで、まったく別の関係性になってしまうくらいに、揺らぎっぱなしの毎日だった。
そんな中で、僕たちは選んだ。
いがみ合って恋をして、愛し合って命を宿した。
想定外だけど、後悔はない。
言葉に出して確かめ合う必要なんてないくらいに。
だけど、ひとつだけ、聞きたいことがあった。
「……どうしたんですか?」
こちらの視線に気づいたのか、乙姫が顔をかたむける。
「最初に会ったときのこと、覚えてる? ハッピーエンドなんて物語の中だけだ、って言ってたよね」
「正確には、交際しただけではそうはならない、という意味合いでしたが」
「……僕たちは、ハッピーエンドに、たどり着けたかな」
二人の間を桜の花びらが舞い落ちる。
はらり、はらりと、時間が止まっていないことを証明するように。
「いい歳をして、急にキザなことを言い出さないでください。まだ何も終わってませんよ」
乙姫は突き放すような口調で言うと、朱く染まったほほを隠すように、振り向いて足早に歩きだす。「乙夏、こっちよ」なんて娘を呼びながら。
桜並木の端まで来ると、大学の講堂が見える。
今日は大学の入学式だ。
阿山乙姫は見事、
「ママ、がんばってね!」
乙夏が一輪の花を差し出す。濃い紫色の小さな花。スミレだろうか。桜の木の下で摘んできたらしい。
「ありがとう乙夏」
乙姫は娘の頭をなでながら花を受け取り、胸元のポケットに飾った。
「そうだ、2人ともそこに並んで」
スマートフォンを取り出してカメラを向けると、乙姫は居住まいを正しつつ、長い黒髪を手櫛で整える。乙夏はぴしりと
ハッピーエンドはここじゃない。
だけど、ひとつの区切りとして――
このしあわせな瞬間を焼き付けるように、僕はシャッターを切った。
ハッピーエンドはここじゃない 水月康介 @whitewood
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます