おねえさんの魔法の箱

相葉ミト

第1話

 そこは、まるでおとぎばなしの世界のようで。

 鍵をなくして、おうちに入れずに、ランドセルを背負ったままとほうにくれていた私を、近くのおねえさんが自分のアパートに上げてくれた。

 手洗いうがいをしたあと、リビングの椅子に座らされて、わたしはおねえさんを待つ。

 がちゃ、と冷蔵庫が閉まる音。とすとすと軽やかな足音で、嬉しそうにおねえさんがやってくる。


「遅くなっちゃったけど、こはるちゃんの誕生日お祝いしよっか」


「わーい! ケーキだ」


 雲みたいに真っ白で、ふわふわのクリーム。その中で一点、ルビーのようにいちごが輝く。


「いっただっきまーす!」


 ケーキの先を、フォークできりとってひと口。ふわふわのケーキは、冗談みたいにくの字に曲がって、ちょっとクリームが飛び出してしまった。



「おいしい! お店のケーキって、スポンジにはさんであるクリームがカスタードクリームなのね!」


「そんなことはないよー、普通のお店だと、普通のクリームがはさまってるよ?」


 おねえさんは、嬉しそうににこにこしている。なんだかわたしもつられてたのしくなってきた。


「そうなの? でも嬉しいや。カスタードクリーム大好き」


「うふふっ。好きなだけ食べていいのよ?」


「でも、このケーキ、なんだかぱさぱさする」


「それはね、何日か前に冷蔵庫に入れたからなのよ。まだ悪くなってはないから、こはるちゃんに食べてもらえてよかったわ」


「へー、でもなんでケーキを買ったの?」


 何日か前、といえばわたしの誕生日だ。

 おとうさんもおかあさんもケーキをくれなかったし、それどころかわたしの大好きなぬいぐるみを捨てていったから、悲しくてしょうがなかった。


「大人はね、学校の代わりに働くから、会社からお小遣いがたくさんもらえるの。だからね、好きな時にケーキが食べられるのです!」


「すっごーい! わたしもはたらきたい!」


「だーめ。働くのは、お勉強よりも大変だし、こわーいおばけみたいな人と一緒のグループになったりするの」


「それに、お小遣いがたくさん、っていっても、おねえさんが使う電気やお水をくれる人に、おねえさんはお小遣いを渡さないといけないの。だからね、ケーキは好きな時に買えるけど、いっつも買えるわけでもないのです」


「なぁーんだ。意外と大人って、いいものじゃないなぁ」


「そうそう。こはるちゃんはね、おねえさんのところで子どもでいればいいの」


「でもわたし、おうちにかえらなきゃ」


 ケーキは半分残っていた。

 おねえさんの目が、すうっと細くなる。

 口もとはにこにこ笑っていたけれど、まるで狐のお面みたいな顔になって、なんだかこわかった。


「パパもママも、帰ってこない家に? たまにパパがママじゃない女の人と一緒にいたり、ママがパパじゃない男のひとと帰ってきたりする、あの家?」


「うん。こはるがいなかったら、こんなおうちには住まないよって。だから、わたしが帰らなきゃ、おとうさんもおかあさんも、おうちも、ばらばらになっちゃう」


「だいじょーぶ」


「こはるのおうち、なくならない?」


「なくならないよ」


「ほんと?」


「ほんと。もしばらばらになったとしても、こはるちゃんだけのせいじゃない。こはるちゃんとおねえさんが一緒にばらばらにしたの」


 甘い、甘いおねえさんの声。

 ケーキよりも甘ったるくて、わたしはなんだかくらくらした。


「だからね、もしこはるちゃんのおうちがばらばらになったら、おねえさんと一緒に住めばいいんだよ」


「でも、おねえさん、家族じゃないから……おうちって、家族で住むものでしょ?」


「おうちはね、一緒に住みたい人が一緒に住むところなの」


「ほんと?」


「おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に住んでるわけじゃないんでしょ?」


「うん……おかあさんとおばあちゃん、なかよくなかった」


 そこから、私はおねえさんに家族の話をした。

 昔はおとうさんもおかあさんも仲がよかったこと。

 おばあちゃんがおばあちゃん家に行くたびに、おかあさんをいじめること。

 おとうさんもおかあさんも、顔をあわせたらいつも喧嘩してばっかりということ。

 おかあさんは、梅のジャムを作ってくれること。

 そんな話をしていたら、すっかり暗くなっていた。


「遅くなっちゃったから、泊まっていく?」


「でも、おうちかえらなきゃ」


「夜道にはね、こわーいおばけや、こはるちゃんみたいな女の子に悪いことしようとする大人がいたりするよ?」

「そんなことないもん、通学路にはいいひとしかいないもん」

「こはるちゃん」


 おねえさんはわたしと真っ直ぐに目を合わせる。


「夜はね、どんな人でもお化けにするの。だから、おねえさんと今日だけは一緒にいてくれない? おばけって、おうちの中にもあらわれるから、おねえさん、こわいの」


「わかった」


「冷蔵庫の中のもの、好きに食べていいよ」


「ありがと」


 冷蔵庫の中にはわたしの好きな物ばかり。

 でも、おねえさんのところに来たのは今日が初めてのはずだ。

 どうしてだろう。

 でも、家では食べられないような肉汁たっぷりのつやつやしたハンバーグに、私の苦手なきゅうりが入っていない、みずみずしいサニーレタスのサラダがあって、そんなことは気にならなくなった。


「いっただっきまーす!」


「こはるちゃんは元気ね。いただきます」


ハンバーグをチンして熱々にして、はふはふ食べた。

 炊き立てのほかほかごはんに私の大好きな味付け海苔がパリパリのままのっていたのも、まるで夢みたいだった。


「お腹いっぱいになったからってすぐ寝ないの、お風呂入るよ」


「わかった」


 おねえさんのお風呂は、わたしのおうちのお風呂より狭かったけど、わたしのおうちのお風呂よりあったかくて、いい匂いがして、とっても素敵。

 お風呂で水鉄砲をしてもおねえさんは怒らなかったし、裸で外に放り出されるなんてこともなくて、まるで夢みたい。

 お風呂の仕上げに、おねえさんにきれいに髪を洗ってもらって、ふわふわのタオルで全身くまなくふかれ、ドライヤーまでしてもらった。


「今夜は一緒に寝よ?」


「うん」


「お布団敷くから、リビングでいい子して待っててね」


 そう言っておねえさんは、リビングの隣にある和室に入って、ふすまをぴっちり閉めた。

 まるで人に布を織るところを見られたらいけない鶴みたいだ、とわたしはおもった。


「お布団敷いたよ、入ってていいよ」


「はーい」


 おねえさんが私を呼んでいる。

 ふすまを開けた時、私はとてもびっくりした。


「わー、うさ吉がいる!」


 おとうさんに耳をちぎられて、泣きながら不器用にぬいあわせた糸の色。まちがいなくうさ吉だった。

 こんなボロっちいぬいぐるみ、いつまで持っているの! とおかあさんに捨てられたはずだったのに、うさ吉は、おねえさんのふかふかの布団に包まれて、ガラスの瞳をきらきら光らせている。


「きっと、うさ吉はこはるちゃんがここにいる、ってわかったから、先回りしてここにきたんだよ」


「うさ吉ー!!!」


 うさ吉を抱きしめてわんわん泣くわたしを、おねえさんはそっと撫でてくれた。

 いつの間にか眠ってしまったようで、わたしが気がついた時、ふわふわの布団がかけられていた。


「おねえ……さん?」


 隣の布団には誰もいない。

 ただ、リビングと和室を区切るふすまの間から、黄色い光の線がわたしに向かってきていた。

 その線をたどってリビングに近づくと、話し声がした。


「はい……そうです。奥さんの不倫の証拠は、冷蔵庫のチルド室の中に。はい。ご確認ください……どうして私がそんなことを知っているかって? どうだっていいじゃないですか。あなたは夏美さんと別れたいんでしょう? 何が欲しいのかって? 偽装結婚してください。私が欲しいのはこはるちゃんの親権なので、性格の不一致あたりで適当に別れましょう? それじゃ」


 おねえさんが、電話で誰かと話していた。

 私が動けないでいると、おねえさんがふすまを開けた。まぶしくて、なにもみえない。


「あら、こはるちゃん、起きちゃった?」


 おねえさんは優しく抱きしめてくれた。


「ごめんねぇ。でも、大切なお電話だったから、しなきゃいけなかったの」


 起こしちゃった分、たのしくて眠くなるお話をしてあげる。

 おねえさんはリビングの電気を消して、私をなでながら、一緒のお布団で寝てくれた。


 次の朝、うーうーうるさいサイレンの音でめがさめた。


「これはおまわりさんのサイレンだね。悪い人が来たのかもしれないから、こはるちゃんは朝ごはんを食べてまってて」


 トーストとジャムを置いて、おねえさんはとすとす外に出ていった。

 私がトーストにジャムを塗る。

 さくっ、とかじる。

 青くて切ない梅の味がした。

 おかあさんが梅酒の梅をジャムにした、世界で一つだけの、わたしがいちばん好きなジャム。


 とすとすとすとす。

 なんだか例えようもない、嬉しさと心配とおびえがごったまぜになったような、というのが一番近そうな顔で、おねえさんがやってきた。


「どうしよう、こはるちゃんのおとうさんとおかあさん、おばけに襲われたみたい」


「テレビ、つけていい?」


「いいよ。牛乳、いる?」


「いる」


『そくほうです。○○市でさつじん事件がはっせい。夫にふりんをしてきされ、ぎゃくじょうした妻が夫を刺したもようです』


 深刻な顔をしたアナウンサーさんのしゃべっていることは、むずかしいことばがおおくてよくわからなかった。

 でも、テレビカメラに写っているのは、わたしとおとうさんとおかあさんが住んでいたおうちだった。

 がちゃり、と冷蔵庫の閉まる音。

 とすとすとすとす楽しそうに、牛乳を持ったおねえさんが近づいてくる。


「こはるちゃん」


 おねえさんの甘い声がわたしの耳にやさしく滑りこむ。


「こはるちゃんのおうち、ばらばらになっちゃったね」


 わたしはうなずくしかない。帰っていれば。私が帰っていれば、こんなことにならなかったのは、わかる。


「おねえさんと一緒に、やっちゃったね」


 もうなにもわからない。わたしは震えながらおねえさんに抱きついた。


「どうしよう……おとうさん……おかあさん……うわあああああああああああああああ!!!」


「だから、一緒だよ、ずっと」


 おねえさんは、どこまでも優しくわたしをなでてくれる。


「うふふっ」


 どこまでも。

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おねえさんの魔法の箱 相葉ミト @aonekoumiha

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