9年ぶりの汽笛

占冠 愁

3月11日 - 3月14日 遥か9年

今から9年前のこと。3月11日の朝早くだった。


「じゃぁ行くか。」


靴を履いてからリュックを背負いあげて、おれは振り返ってそう言った。


「ちょっとまってよ」


また洒落たバックを持ち出してきた妹のサキが、靴を履くのを待つ。


「おばあちゃんの家までどうやって行くの??」


家を出るとすぐさまそう妹に聞かれる。


「あー、電車乗ってくんだよ。ずーっと北に上って、仙台まで」

「仙台までどのくらいかかる??」

「結構遠い。2時間くらいかかるな」


おれは今春高校生になり、妹は中学3年に昇級する。


「電車乗るの初めてな気がする」

「嘘つけ、去年もばあちゃんの家行くとき乗っただろ」

「冗談だって。でも久しぶりでしょ」


上機嫌に跳ねながら歩く妹に手を引かれつつ、早朝から活気を見せる大通りを行く。往来は激しく賑わいのある駅前通りだ。人々は何事もなく日常を過ごしている。


「桜、もうすぐ咲きそう。」


妹が蕾をつけた駅前の桜並木の一本一本を眺めながらつぶやいた。


「開花まであと2週間くらいはかかるだろ」

「今年もお兄と桜、みたいかも」


小悪魔的に振り向いてそう告げる妹にため息をつく。


「お前なぁ…そういう年じゃもうないだろ」

「別に私は気にしないよ?ブラコンだもん」

「ブっ……、おま、もうちょっと羞恥ってものをだなぁ」

「そういうお兄もシスコン相当入ってるけどね」

「……はぁ、そうですよ博愛満ち溢れるお兄ちゃんですよ」


否定もできないのでそう頷く。

近くの原発の管理職員の父親はそこに住み込みで働き、母親はパートで朝早く出かけ夜遅くに返ってくることもしばしばだった。両親と顔を合わせる機会は少なく、幼い頃からおれたち兄妹は、長い時間を二人だけで過ごしすぎたのだ。


「で、花見今年もやろうよ。お兄も予定ないでしょ」

「…はぁわかったよ暇ですよ。受験も落ち着いたし」

「やった!」


笑顔をみせる妹。


「そういや、お前の名前、花が咲くの『咲』から来てるんだっけか」

「うーん…、別に全部の花が好きってわけでもないよ」


桜並木を抜けると、そこには大正10年、1921年の開業当初から使われ続けて、4日後の3月15日には90年目を迎える、古い木造駅舎が静かに佇んでいる。

街の玄関口、夜ノ森駅だ。


「こんなぼろ小屋、早く建て替えればいいのに」

「おいおいそう言うな。おれは好きだぞこの雰囲気」

「うわジジ臭っ」


ため息を付きながらお金を渡すと、サキはぱたぱたと駆けていった。

楽しそうに券売機をポチポチやって、仙台までの切符を2人分発券して戻ってくる。


「君券売機弄るの好きだね」


そうぼやくおれの手を引いて、妹はずんずんと改札を通って、ホームに立つ。


「どっち?」

「2番線。原ノ町・仙台方面だよ」


ホーム上で暫く待っていると、アナウンスが入ってすぐに仙台行きの列車が入線してくる。ドアが開いて、妹に続いておれも乗り込む。

そうして4両編成の常磐線は、夜の森駅2番ホームをゆっくりと加速し出して、仙台に向けて走り出す。


・・・・・・

・・・・

・・


「はぁー、楽しかったぁ…。」

「まぁ、短かったけどな」


祖母の家で昼食をご馳走になってから、すぐに向こうを出た。夜ノ森とは比較にならない物凄い人混みの百万都市の中央駅・仙台を抜けたのはさすがの妹も疲れてしまったようで、往路のはしゃぎ様はとっくに鳴りを潜めていた。


帰路の常磐線いわき行きの乗車率はさほど高くなく、号車にはおれと妹以外に、じいちゃんが1人と、20代くらいの青年1人、女性が2人乗っていたくらいだった。


「お兄、いつ家につく?」

「もうすぐ。浪江を過ぎたから、あとは双葉、大野、夜ノ森の順。」


3月11日昼下がり。時刻は午後2時半を過ぎた頃か。浪江駅を抜けた上り列車は、夜ノ森にむけて鉄路をゆっくりと南下する。


間もなく訪れる午後の春の穏やかな陽気と、カタン、コトンと続く心地よい揺れに誘われて、うつらうつらと眠気に身を委ねつつ、おれは流れる車窓の景色をぼんやりと捉え続ける。


「…私、電車好きかも。」

「なんだお前、鉄オタか?」


おもむろな妹の呟きに冗談交じりでそう返すと、妹は「そういう熱狂的なものじゃないんだけど」と首を振って続ける。


「なんか、こういう時間とか雰囲気って、いいって思わない?」


ふっとおれは微笑みを零す。


「あぁ――…わかる気がする、」


無言のまま軌道を軋ませてひたすら駆ける列車。

快くファァァァ――ンと警笛を鳴らし、夫沢トンネルに入る。


「夜ノ森にも汽笛、鳴らしてくれないかなぁ…」

「さーぁ…。線路内に立ち入る馬鹿がいなきゃ、そうそう鳴らねーんじゃねーの」


列車は双葉駅を抜け、大野駅へ続く前田川の橋梁をガタンゴトンと響かせる。


「ママ、今日も遅いかなぁ…。」

「いつもと変わらんだろ」

「…ふふ、日常、かぁ」


静かにおれの肩に身を預けてくる妹。

やっぱ眠たくなってきたか。


「……ふぅ…。」


おれも少し休もうと目を閉じた瞬間。

腕時計が、カッと運命の時を刻んだ。


(…―――?)


2011年3月11日、

午後2時46分18秒。


ゴゴゴゴゴゴ――と突如、地鳴りが響き渡った。P波、到達。


「な、なんだ……!?」


困惑して周囲を見渡すと、大半が寝ていた同じ号車の数人も、全員が起き上がって当惑した表情を見せていた。

列車は急激に速度を落とし始める。緊急ブレーキを作動させたか。


刻下、S波到達。

刹那、烈震が車内に走る。


「うわぁああ!!?」

「キャ――!?」

「わぁぁッ!??」


列車を大地の波動が大きく揺らす。


「お兄!?…わっ!」


妹が当惑して立ち上がったと思えば頭から倒れ込む。

とっさに腕を伸ばして妹を支えると、ガタンと列車が停止した。


「ぐぅ…っ……!!」


天地がひっくり返ったのかと思うほど、立ってすらいられない激震。

膝から崩れて、妹を抱きかかえた姿勢のまま仰向けに倒れ込む。


脱線するんじゃないかと思うほど長く長く揺れた後、ようやくいくらかマシになってきた。陸酔いの寸分で、まだゆっくりと平衡感覚は揺れてる。


「ぐ……、おい、サキ、サキ!」

「わ、…お兄??」


瞬間的に気を失っていたのか、呼びかけてようやくサキはおれの上から退いた。


「周りはどうなって…?」


電気系統が途絶え、暗闇になった車内には窓からの光しか入ってこない。


「防災無線が鳴ってやがる…」


身を寄せて震える2人の女性に向けて、青年がそうつぶやいた。そうだ、おれたち以外にも乗客がいる。


「すみません、なんて言ってるか聞こえます?」

「……破滅的な地震だそうだ。大津波警報が発令されたらしい」


おれの質問に青年はそう答えた。


「お兄、まずいじゃない、逃げないと…!」

「予想高さはどのくらいです??」

「…3m以上、としか。」


青年は不安そうにそう返す。その瞬間、倒れていた爺ちゃんが声を上げる。


「違う…!若いもの、そんなもんじゃ、すまないぞ…!!」


その声でおれは爺ちゃんの存在に気づく。


「だ、大丈夫ですか!?」

「わしのことは気にせんでいい、いまはとにかく高台に逃げろ…!」


爺ちゃんはそう声を捻り出した。妹がその言葉に続く。


「3m程度ならそこの防潮堤で防げそうだけど…」


おれはそれに頷く。この辺の防災の象徴である防潮堤は高さ6mで築かれており、そうそう波が超えてくるとは思えない。


「3mじゃない、3mなんじゃ!実際は、3mを遥かに超える大津波が襲ってくるぞ…!!」

「…どういうことですか?」

「何十年前のことじゃったか……!!」


爺ちゃんはゆっくりと起き上がろうとする。


「あの頃の記録じゃ…。最大遡上高、28.7m…!!」

「「………ッ!!?」」

「津波は防げん、早く高台に逃げるんじゃ!!」


それを聞いた青年は大急ぎでドア手動解放レバーを開放し、一気にガチャリとそれを押し込んだ。ガラガラガラと扉が開く。


「ありがとうございます、逃げるよお兄!」

「待てサキ!爺ちゃんが!」


2人の女性の避難準備を手伝う青年に礼を告げて出ようとした妹を、とっさに呼び止る。立ち上がろうとして腰を抑えて崩れ落ちる爺ちゃん。

おれは駆け寄って手を貸す。


「腰、打ちましたか…。」

「あぁ…運悪くやっちまったみたいじゃ。わしは気にするな、早く逃げろ…!」

「そうも行きませんって…!」


おれは爺ちゃんをどうにか背負いあげた。


「痛くありませんか??」

「……すまんのう、若人。大丈夫じゃ」

「わかりました。急ぎますけど勘弁して下さいね。…サキ!」

「わかったよお兄!」


青年に続いて爺ちゃんを背負いながら外に飛び出る。どうやら他の号車でも避難が繰り広げられているらしい。乗務員さん達は車椅子の人を助けているようだった。


「サキ、絶対にはぐれるなよ!!」

「わかってる!」


おれは妹を確認してから、山を目指して駆け出した。


「はぁっ、はぁっ……!」

「お兄、ちょっと、待って…!!」


妹はお洒落で走りにくい靴だった。爺ちゃんを背負ったおれも、少しずつ体力が削られていく。


「なんとか、付いて来い!ここの通りをあと3km行ったら、坂に入るから…!」

「わかっ…た!」


どのくらいまで来たか、後ろをおもむろに振り返ってみれば津波が防潮堤に達していた。どうにか跳ね返すかと思いきや――乗り越えた。


「………ッ!!」


その光景を目の当たりにして、手が震えた。波に呑まれるという恐怖が一気に現実的なところまで迫って来たのを、ここに至ってようやく実感した。


「不味い!」

「お兄、…もうっ……!」


一段と速度をあげる。だが、サキはそろそろ限界に達してきていたようだった。


「わしを降ろせ!」


爺ちゃんがそう後ろから声をかける。


「わしよりかは、己らのほうが将来があるじゃろう!!」

「…でも、爺ちゃん!」

「わしみたいな先のない老害残すよりかは、己らがこの惨劇を生き延びて長く伝える方が理にかなうじゃろうが!!」

「それでも、見捨てるわけにはいきませんよ…!」


歯を食いしばって進む。もはや津波は坂の下まで呑み込んだ。

一直線に、こちらを目指して進んでくる。


「お兄…!あそこの階段、あそこさえ登れたら!!」


山の斜面に造成された公園に続く細い階段が見えた。確かにあそこなら助かる。


「っ、急ぐぞ!!」


形振り構わず無茶苦茶な姿勢で階段を駆け上がる。最後の力を振り絞って、二段飛ばしで駆け上っていく。


「はぁっ…はぁ、っ……!!」


気づけば、どうにか階段の上までこれていたようだった。


「爺ちゃん、大丈夫ですか…!?」

「……ダメだっ……!!」


確かに爺ちゃんはそう言った。爺ちゃんは無事なのに、ならなにが起こっているというのだろうか。


「妹さんが、おらん!!」

「さ、サキがぁっ!!?」


慌てて階段の下を覗き込むと、中腹で蹲る妹の姿が。

そのすぐ背後にすぐ迫る、渦を巻く大浪。


「おい!なにやってる!!早く!!」

「…無理っぽい。足、くじいちゃった…。」

「っ……!!」


思いっきり飛び出した。

階段を一気に飛び降りて、妹のすぐ上の踊り場におれが着地するのと、妹の足を波がさらったのは同時だった。


どちらが遅かったのかは、もはや明白。


「サキぃッ―――!!!」


サキの差し出す左手に伸ばした右手は、虚しく空を切った。


「ぁ――お兄……。」


すぐに首元まで濁流に飲まれ、大きくおれから遠ざかるサキ。

そこに飛び込もうとして、おれも迫りくる津波に足を掬われた。


「……ぐっぁ…!」


必死に階段の柵に捕まり、激流に足掻く。

そこで、津波の遡上は止まった。

波のうねりは落ち着き、静かに波が下がっていく。


「――ぁ―……あぁ…」


おれから、第一波が過ぎ去り、妹との日常が過ぎ去った瞬間だった。

春を迎える、直前のことだった。


・・・・・・

・・・・

・・


それからのことはあまりよく覚えていない。

気がついたら、おれは仙台の祖母の家に避難していた。


テレビでぼーっと、ニュースを眺めていた。

発電所が爆発したという報道をやっていた。

父親はその発電所の管理職員で、あの日も、ちょうどそこにいたのだろう。


母親とは連絡が取れない。そして――妹とも。


夢を見ているようだった。現実だと、到底信じられなかった。

鉄路とともに何もかもが押し流され、地域が封鎖された。

曰く、放射線量が云々とのこと。


おれには、出来ることすら、何も残らなかった。


入るはずだった高校が根こそぎ海の奥底へ引きずり込まれ、おれは仙台の高校に編入されることになった。まぁひどいいじめに遭った。彼ら曰く、福島人は放射能モンスターだか、汚染されてるだか。


でも、その学校にはおれと同じような福島からの避難民もいた。彼らとともにいじめられたが、彼らもまた、おれをいじめた。曰く、お前の父親は発電所職員だ、お前の父親が俺らの故郷を奪った、放射能で破壊し尽くした、お前は犯罪者だ、と。


迫害に近い差別を受けても、おれには不思議と怒りが湧いてこなかった。

未だ夢の中にいるようだった。


つまるところ、おれの時計は、常磐線に乗っていたあの瞬間から、動きを止めていた。まだ、おれは帰路の軌道の途上にあるのだ、と。

それを自覚したのは、高校3年生になってからのことだった。


唐突に、家に帰ろうと思った。

きっと、家に帰ればなにもかもが戻っていると思ったのだろう。


大学受験で周囲が必死に勉強に励む中、おれは自分の街へ続いているはずの線路へ足を踏み入れた。常磐線の上り方面列車に乗って、ひたすらに南を目指した。


原ノ町駅で、列車は折り返しだった。この先へはいかなる列車も行かないらしい。


まさか、とおもいつつおれは、もう3年間使われていない原ノ町駅の『いわき・水戸方面』と記された2番ホームに立った。


「なんで…電車、一向にこないんだろ……。」


半分、泣き笑いの形相で時刻表を見つめる。『水戸方面』と記されたそこには、5時から23時の行まで、ひたすら空欄が続いていた。


おれはこらえきれなくなって歩き出した。線路だけは、見える限り、たしかに南の地平線の先まで伸びているのだ。


駅の改札を抜け、線路の上を歩き続ける。だんだんと草が生い茂っていき、もう暫くこの上を列車が走っていないことがわかる。

それでも鉄の軌道は、まだまだ途切れていない。

南に、南につづいている。


「はぁ…はぁ、はぁっ……」


いつの間にか、遥か日は阿武隈山地に沈んでいた。

それでもおれは、闇夜の下をあるはずの線路に従って、歩く。

街灯も、途中からは途切れた。


携帯が鳴ったのには気づかなかった。祖母が帰りの遅いおれを心配してかけてくれていたことは、あとで知る。


隧道を潜って、鉄橋を渡って。今思えばとても危ないことをした。でも、この時は何かに取り憑かれたように、確かに在ったはずの軌道を求めていたのだ。


やがて―――鉄路が途切れた。


突然鉄のレールがひしゃげたと思ったら、そこから先はどこまでも、月光が美しく青く照らす、海だった。


「……な、んで…。」


限界を遥かに超えた疲労を蓄積された膝は、勝手に崩れ落ちた。


「どうして――…なんで、この先に、続いてないんだ、よ……!!」


涙が、勝手に頬を伝う。


「ふざけんなよ…どうし、て、こんな所で…途切れて……!」


おれは、誰もいない分断されたその先へ向けて、慟哭した。

あれから3年目の、ある夏の暑い夜だった。


・・・・・・

・・・・

・・


大学受験をどうにか突破し、二流くらいの大学に進んだ。

ヤリサーに入りかけてめちゃくちゃ焦ったことを覚えている。


避難指示は相当解除されたと聞いたが、おれの街にはまだまだ入れすらもしない。


封鎖地区内で毎日発表される放射線の数値を調べてみた。

どのくらいなのかというと、何も起こっていない地域と比べるとたしかにまだまだ高いが、人が住むのには支障をきたさないレベル。


つまり、世間様はまともの放射能のことを調べようとはせずに、平均と数値だけ比較して高いだか危険だか騒いで、故郷を封鎖しているのだ。


「………っ!」


やりきれなさと、やりどころのない怒りを抱く。

まだまだ東北産の農作物は風評被害で売れないし、差別だって横行している。所詮、大衆なんてそんなものなのだと突きつけられたような気分だった。


だからこそ、行って証明してやろうと思った。

猛烈な憤慨に突き動かされて、おれは再び常磐線に乗り込み、南を目指した。

まだ、おれは在りし日を追い求めていたのだろう。


鉄路は、高校の頃よりかは南へもっと伸びていた。

原ノ町駅の『水戸方面』の時刻表には、しっかりと数字が載っていた。


あの日と同じように列車は揺れる。でも、周囲の景色はあまりにも変わりすぎた。あの日車窓から伺えた人々の営みは、南へ進むごとにどんどんと色褪せていく。


浪江駅で列車が止まる。折り返しだと言われても、今度は動じなかった。3年前よりかは少しくらいおれも進んだと思いたい。

浪江駅の駅名標を見上げる。仙台方面を指す矢印には「桃内」と記され、反対の南を指す矢印の部分は、白いテープで覆ってある。


この裏には、鉄路がおれの街へと続いていたあの日のまま、「双葉」と記されているんだろうと思うと、息が詰まった。


きれいに新しく再敷設された線路はここまで。此処から先の鉄路は、在りし日のまま時を止めて残された、いわば残像だ。


車止めの先へ、ゆっくりと静かに踏み出す。


「ほら、全然大丈夫だ。…何が、何が帰宅困難区域だ……!」


吐き捨てるように進む。

実際のところなんて、父の職場から流出した放射線量はあのチェルノブイリと比べたら数百分の一といったところなのだ。人々はそれをチェルノブイリと同じラインに並べて、危険だ、汚染されている、と叫ぶ。


「おれの故郷は、汚染されてなんかいねぇ……。」


呪詛を吐くように歩き続ける。


やがて、「双葉町」と書かれた道路標識が県道の先に見えた。

しっかりと路はあの頃のまま続いているんだ、そう思うと自然と嬉しさがこみ上げてきた。だが、それも束の間、その下に高いフェンスが築き上げられていた。


「………ッ…!!」


おれは一気にそこへ駆け寄る。


「なんで…、もう、故郷への入り口は見えてるのに……!!」


『帰宅困難区域につき立入禁止』と記されたプレートを睨めつける。


「ふざけんなよ…、何が、汚染地域だよ……!」


食い入るように、あるいは悔い入るようにフェンスを見上げる。


「この先に、サキがいるのに―――!!!」


故郷へ続くカントリーロードは、在りし日のまま時を止めて、人を拒んでいた。

あれから6年目の、秋の肌寒い夕暮れのことだった。


・・・・・・

・・・・

・・


就活を無事に終えても、おれは人生を歩んでいる気が到底しなかった。

9年間、夢心地で適当にふらふらとここまで来てしまった気がする。


ある冬の寒い通勤の途中、適当に駅の広告を眺めていたら、『2020年3月14日 常磐線復活全通』と記されたそれを発見した。


「3月、14日……。」


大急ぎで手帳を開いて予定を確認する。新人社畜のおれには基本的に休みはないが、どうにかこの日には大きな仕事はないようだった。

なけなしの有給をここにぶっこむことに決め、大きく丸を付ける。


1週間、2週間と8年目の冬は過ぎていく。9年目の春が来ようとしていた。


おれは3月14日の朝を、原ノ町駅で迎えた。


『まもなく、いわき行きの列車が参ります――。』


始発列車。9年ぶりに原ノ町駅2番線に『いわき行き』のアナウンスが響く。確かに、9年前おれはここでそれを聞いたのだ。

南へ向かう列車にたくさんの人々が乗り込んだ。


マスコミや鉄道ファンを乗せ、列車はあの街へ向けて出発する。


「………。」


3月11日に乗るはずだった列車は3月14日、9年ぶりの振替輸送でおれをあの街へと運ぶ。この心地よい揺れも、汽笛も、なにもかもあの日の上り列車と変わらない。


それなのに、なんだろう。この寂寥感は。

隣に、何かが足りない。


列車は浪江をゆっくりと発車し、9年来の軌道を再び軋ませた。

その瞬間、あの記憶が蘇る。


『お兄、いつ家につく?』

『もうすぐ。浪江を過ぎたから、あとは双葉、大野、夜ノ森の順。』


3月11日昼下がり。時刻は午後2時半を過ぎた頃か。浪江駅を抜けた上り列車は、夜ノ森にむけて鉄路をゆっくりと南下する。


「………ッ!!」


今までモノクロに写っていた世界が、一気に反転して、色彩を以て動き出した。

3月14日昼下がり。時刻は午後2時半を過ぎた頃か。浪江駅を抜けた上り列車は、夜ノ森にむけて鉄路を実に9年ぶりに、ゆっくりと南下する。


「ここは――…っ」


無言のまま軌道を軋ませてひたすら駆ける列車。

快くファァァァ――ンと警笛を鳴らし、夫沢トンネルに入る。


『夜ノ森にも汽笛、鳴らしてくれないかなぁ…』

『さーぁ…。線路内に立ち入る馬鹿がいなきゃ、そうそう鳴らねーんじゃねーの』


列車は双葉駅を抜け、大野駅へ続く前田川の橋梁をガタンゴトンと響かせる。


「あぁ…、おれは……!!」


運命の地点を、列車が通り過ぎた。

今度は、地鳴りも、烈震も来ない。


そうして―――漸く、おれの時間は9年ぶりに動き出した。


人目を憚らず、涙腺が潤む。


(……サキ、なんでお前はここに…。おれの、隣にいないんだよ…!!)


必死に堪えながら、大野駅をすぎる。


「次はぁ――、夜ノ森ぃ――夜ノ森ぃ――。」


「………っ!」


アナウンスに身を震わせる。

9年ぶりに、この長い長い家路を、乗車を終わらせることが叶う。

でも、その時隣に妹はいない。これからも、永遠に。


「あ…ぁ――。」


9年前、おれの肩に頭を預けたまま、妹ははるか向こうへと消えてしまったのだ。

あの日を境に、おれは全てを喪った。それを心底から受け入れるまで、8回の春が過ぎてしまった。9回目の春は、すぐそこまで迫っている。


ファァァァ――ン、と列車は歓喜を示すように汽笛を鳴らし、夜ノ森駅のホームへ進入した。1番線。ついに降りれなかった故郷の玄関口へ、おれは辿り着いた。


同時に2番線にはいわきからの北行列車が到着した。そうして9年分断されていた列車は、鉄路は、現刻を以て常磐線南北300km、ようやく接続を果たす。


変わり果てた駅舎を見上げる。

橋上駅に改築され、あの日妹と通り抜けた大正からの木造駅舎は存在しなかった。取り壊されてしまったのだろう。


刷新された改札を抜け、駅を出ると、取り払われたフェンスの先に、すっかり荒れ果ててしまった桜並木の駅前通りが続いていた。

雑草が生い茂り、人々の影はなく。


「……ただ、いま…。」


そうつぶやいた瞬間、涙が溢れてくる。

列車で必死にこらえていたそれは、人目が消えた今、もう止まらない。


『ママ、今日も遅いかなぁ…。』

『いつもと変わらんだろ』

『…ふふ、日常、かぁ』


日常は突然奪われ、時は刻むのを止めた。

それでもいつかは動き出す。


おれは9年越しに、故郷の地に帰ってきたのだ。


「ぁぁ…あっ…――。」


堰を切ったように流れる涙は、通りを濡らしていく。

街は変わり果てれど、桜は今年も蕾を付け、しっかりと咲こうとしていた。


『桜、もうすぐ咲きそう。』


9年前、妹が蕾をつけた駅前の桜並木の一本一本を眺めながら呟いていた。


『開花まであと2週間くらいはかかるだろ』

『今年もお兄と桜、みたいかも』


9年前、小悪魔的に振り向いてそう告げる妹にため息をついた。


『花見今年もやろうよ。お兄も予定ないでしょ』

『…はぁわかったよ暇ですよ。受験も落ち着いたし』

『やった!』


9年前、確かに妹の笑顔がそこにあった。


「そういや、お前の名前、花が咲くの『咲』から来てるんだっけか」


おれは、虚空の彼方に向けて呟いてみせる。

瞬間、並木の中に、一本だけ、何故か満開に咲いている不思議な桜を見つけた。


「ぁ――、サキ……そこに、いたんだな。」


涙を拭って見事に一本だけ咲き誇った桜の幹に、額をくっつける。


「漸く―――…会えた。」


涙を拭って、思い切り笑ってみせる。


「帰ってきたよ…。おれも、鉄路も、…この街に。」


おもむろに、駅の方からファァァァ――ン、と汽笛が響く。

早くも、2番列車が到着したらしい。


「9年越しだけど――…汽笛、夜ノ森に響いたな。」


春はすぐそこまで迫り、花は咲く。

鉄路が消えて9年目。再び、街に汽笛が舞い戻る。

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