(4)決戦

  【骨断演説】


 十二月二十七日、二条里帝は年の替わる直前のところで首都日本に帰還した。だが、二条里帝はその足で東京に戻るのではなく、故郷の長崎に両院を召集したのである。その為、東京にいた議員達は慌てて移動を開始したのである。文輪においては、一月一日の施政方針演説は重要な行事の一つになっていた。それに加え、戦時のそれである。欠席するわけには行かなかったのである。また、辻杜帝の頃とアルフレッド帝の頃に、東京以外で開かれたという前例があったのである。故に、これを断る理由も無かったのである。

 十二月三十一日、両院は無事長崎に結集した。具体的には、長崎港近くにあった大会議場であったとされる。そこで、二条里帝は一年間の両院の働きを讃え、翌年の協力を求めたのである。所謂、恒例行事であった。そして、その年の議会を解散し、翌年の集結を約束しあったのである。

 だが、解散後に行われた事であれば常例に反していた。何と、両院の議員全員を招待し、蕎麦を振舞ったのである。日本には年越し蕎麦という風習があったそうであるが、それを知らない地域の議員やレデトールから帰順した議員まで招かれたのである。それも、眉唾ではあるが、皇帝自ら作ったものもあったとされる。但し、量は非常に少なく、その後にはきちんとした蕎麦と鍋が振舞われたという。そして、そこで初めて食事を摂った彼は、最後まで付き合ったそうである。

 翌日、二〇四二年一月一日、第二次クラッタニア戦役五年目の幕が開けた。そしてこの日、二条里帝は施政方針演説に挑んだのである。これは恒例行事と言っても、年末のそれとは大きく異なる。その上、この演説に関しては必ず帝国中に、その日の内に伝えられ、可能な場所では放送される。特に、今まで幾度と無く皇帝候補として上げられ、終に登位した二条里の所信表明演説でもあり、その注目度は今までに無いほどであった。また、長引くクラッタニア戦役終結に対する期待もあったのである。

 この、非常に大きな期待の寄せられる大舞台の上で、二条里帝は歴史に名の残る演説を行なう。これこそが、『骨断演説』であるが、この柱は以下の三点から成り立っていた。


・クラッタニア駆逐の為には多大なる犠牲が必要であるという事。

・外交上の敵を可能な限り少なくしなければならないという事。

・戦勝には未だ、多くの時間が必要であるという事。


 この三点は、戦争を行なう上では当たり前の事である。だが、これを民衆に納得させ、その上で一致団結を生むというのは、容易な事ではない。それを彼は行わなければならなかったのである。

 では、私の無駄な解説はここまでにするとして、この『骨断演説』の全文を紹介する。




 帝国人民並びに両院の議員の方々には、私のような者を帝位に就けていただき、感謝する。それに伴い、私はこの難局に当たり、己が身命を投げ打って勝利の為に邁進する所存である。

 さて、今日最大の難題は第二次クラッタニア戦役であるが、ご存知の通り、現在、クラッタニア軍は欧州のほぼ全てを制圧し、中東、更には中央アジアにまで勢力を拡大しつつある。これは、建国以来最大の侵略であり、同時に、最大の危機である。これに対し、両院では常任委員長並びに両執政官を始めとする多くの議員を投入して事態の収拾に当たっている。

 また、帝国外でも不穏な動きは広がりつつあり、ギジガナアニーニア連邦帝国とヴィア王国からは条約破棄の通達が来ている。それと共に、この両国はクラッタニア王国との同盟に応じ、その締結に向けて協議を開始している。当然、我等が敵となる日もそう遠い事ではないであろう。これは、何もこの両国に限ったことではない。我等が友人であり同盟国の多くは、我等が弱体化に付け入り、滅ぼそうとしているのである。

 更には、クラッタニア王国はその王自らがこの戦いに参戦し、指揮し、我々を隷従化せんと目論んでいる。若し、この事が現実に実行される事となれば、現在の我々では最早、隷属化の道しか残されていないであろう。

 とはいえ、この文輪帝国に全く戦機が無い訳ではない。寧ろ、現在の状況を逆手に取る事が出来れば十分に勝利を収め、新たなる発展を手にする事も可能である。但し、これには今以上の犠牲が不可欠であり、同時に、如何なる事態に於いても私に対して絶対の信頼を抱いていただく事が重要である。私も、今までに五つの戦争を越え、百を超える戦いに於いて勝利を収め、三度の戦いで敗北を喫してきたが、これほどの困難に満ちている戦も無い。だが、戦争というものは、決して自ら諦める事無く、粘り強く戦ってゆく事で勝利を収める事の出来るものである。故に、市民諸君の敢然たる意思さえあれば、我々は勝利する事が可能なのである。

 私が生まれ育った日本という地域においては、肉を切らせて骨を断つという諺がある。これでも分かる通り、勝利の為には、多少の犠牲は必要なのである。況して、帝国の存亡と我々の自由とを賭けた戦いである。自らの骨を断たせる覚悟さえ必要なのである。そして、仮令骨を断たれるほどの苦しみに苛まれようとも、その苦難に耐え、勝利のその時まで戦い続けなければならないのである。

 しかし、諸君は思われる事であろう、この艱難にいつまで耐えねばならぬのかと。だが、その答えは、諸君次第である。諸君が各々の境遇に耐え、その持てる力を夫々この戦役の為に用いれば、二年の歳月を以って解放される事であろう。二年は長いようにも思われよう。だが、九十年を経て解放されたインドや、数千年を経て自由を獲得したレデトールの諸君に比べれば、未だ少ない労で済む。その上、未だ彼等とは異なり、限りのある苦難である。若し、これさえも耐える事が不可能であるというのならば、己が身命をクラッタニアの人々に預けるより外には無い。それならば、どうか私にその貴重な人生を僅かの間だけでも預けてはいただけないだろうか。また、耐え難いと思えば、ユヌピス、レデトール、トレラニアといった我々の友人を思い出していただきたい。彼等は真に心強く、友がある限り、国は決して滅びず、友の多い国は勝利を収めるものなのである。少なくとも、この三国が我々の下にあり、諸君が勝利を信じ続ける限りは決して敗北する事はない。

 少々長くなってしまったが、兎に角、骨を断つ覚悟で共にクラッタニア軍と戦おうではないか。そして、真に素晴しい自由というものを、再び我々の下に輝かそうではないか。我々の子や孫やその先の代の、子孫達の為にも。

 以上、皆さんの御清聴を感謝する。二〇四二年文輪十四代皇帝二条里博貴。




 この演説の直後、両院の議員達は一斉に立ち上がると二条里帝に向って盛大なる拍手を送った。何よりも、二条里帝の二年の内に勝利を収める事が出来ると宣言した事が、彼らにとっては喜ばしかったのである。そして、この演説が帝国中に伝えられると、一気に兵役志願者が増大したのであった。

 だが、これらの希望に対して、二条里帝は戦時特別税によって応えた。これでは、全体の士気を下げるのではないかと思われるかもしれないが、兵役に就いている者を除外し、その趣旨をよく説いた事によって、逆に一層、士気が高まったのである。特に、兵役で従軍する人物を、税金を通しての食糧供給で支える事は戦争において非常に重要で、名誉ある行いだという説得は功を奏した。また、二条里帝自身が清貧であり、皇帝としての通常の給与を、生活費以外全てこの戦役の為に支払った事は、帝国中で彼の支持を高めたのである。

 このようにして、帝国内の支持を固めた二条里帝は、内田に代理皇帝権を与えた上で地球を後にした。それは、クラッタニアとの直接対決の前哨戦とも言える戦いを行う為であった。






  【外交戦】


 対外戦争を行うに当たっては、三つの戦いが必要になる。これは、典帝の言葉であるが、二条里帝もまた、この事を念頭において戦っていた。例によって、この三つの戦いを列記する。


・外敵との戦い。これは言うまでも無い事であるが、武力を持っての戦いを指す。

・国内勢力との戦い。これは、国内の反対勢力を排除し、支持基盤を固める、国内政治上の戦いを指す。

・第三国との戦い。これは、関係構築という事が主目的であり、外交上の戦いを指す。


 典帝はこれに対して更に順序を与えている。第一に国内を固め、第二に外交上の敵を排除して友好関係を多く結ぶ。そして、最後に武力を以って敵を討つべきである、と。これを、二条里帝は実際に行ったのである。

 それで、全権を内田に与えた二条里帝は最初にトレラニア星へと向かった。二条里自身が鎮圧したトレラニア戦役からは既に、二十年が経っている。だが、二条里に対する熱狂であればその当時と何等変わりは無かった。着陸と同時に、二条里帝はトレラニア星の支持者から熱い歓迎を受けたのである。

 故に、ここでの二条里帝の仕事は同盟関係の確認と協力に対する感謝であった。そこに従えていたのは、二十四人のファッジと皇帝旗を持った旗手の二十五名だけであった。これらの人々は通訳や飾りのようなものであって、一次帝政末期まで護衛の役割は無かったのである。即ち、皇帝に従う人物によって、その訪問の目的や帝国との関係は一目瞭然であったのである。その上、剣も差してはいなかった。

 逆に、これがバヌル星に上陸した途端、その内容は完全に変わる。二条里帝は地球から連れてきた一個小隊分の護衛兵を従え、剣を佩いたのである。

 これには、反文輪勢力の拡大という事態に加え、征服したグラファードの死による文輪に対する楽観的な観測の拡大があった。つまり、十分に暗殺の危険性があったのである。そこで、二条里帝は同盟関係の確認を早々に済ませると、各地の巡察を行ったのである。その上で、帝は貧困層に対する施しや本国への特別留学という優遇を与えたのである。無論、これは文輪の為の人気取り政策であったのだが、これこそが、後に起きる戦役では有利に働く事となる。だが、この為に二条里帝は三週間を費やす事となった。

 このようにして、二条里帝は次々と同盟国を歴訪し、その関係の強化を図ったのである。当然、クラッタニア王国もその同盟網を広げる為に次々と使者を文輪の同盟国に送ったのである。それでも、三十七の同盟国のうち、二十三までを最終的には結び付けておく事に成功する。やはり、一年をかけただけの事はあった。

 そして、凡その同盟国を訪問した後で、二条里帝は最後にレデトール星とユヌピス王国を訪問する。この二ヶ国は、二条里帝にとっては最大の基盤であり、最も信頼の置ける同盟国であった。その上、帝政樹立戦争に於ける思いもあり、相当に思い入れがあったのである。その為か、ここでは皇帝旗を持つ旗手が二条里帝に従っただけであった。

 ここで、二条里帝の下に一人の少年が現れる。彼はギジガナアニーニアからの侵略に対する防衛線において両親を失っていた。彼を不憫に思い、また、その才能を認めた二条里帝は、養子として迎え入れる事とした。アレー・ニジョウリ。彼の子孫は後々、デラニアット・ニジョウリとして皇帝となる事となる。

 以上の事を終えた二条里帝は、急いで本国に帰還した。そして、二〇四二年十二月二十日午前十一時十七分、終に皇帝自らの出陣を決定したのである。その上で、帝は両院を招集し、年が変わる前に所信表明演説を行ったのである。異例の前倒しではあったが、長崎に集まった議員に戸惑いの色はなかった。彼等には、決戦が近付きつつある事が分かっていたのである。実際、この直後にクラッタニア王が地球に上陸している。






   【決戦】


 二条里帝が地球に帰還した頃、クラッタニア軍の方でも、王であるデーレ・サーヴィア・マラーヌの到着が兵士たちの士気を挙げていた。その様子を、現地で指揮を執っていた亀委仮執政官の報告書は次のように描いている。


 今日の明け方、にわかに敵(クラッタニア)軍の動きが慌しくなった。そこで、私は間者を放ったが、その報告によると、クラッタニア王が到着し、全軍に以下のような演説を短く行ったという。

「兵士諸君、余と汝ら臣民のために、日夜激闘を繰り広げていることに感謝したい。しかし、それがすなわち、戦争の終結を意味するわけではない。我々が富と栄光を掴み取れるかは、ひとえに、この文輪帝国を隷従化できるか否かである。ゆえに、汝らには、なおいっそうの働きを期待する。そして、勝利の暁には汝ら一人につき、四人の奴隷を与えることを約束しよう。さあ、兵士たちよ、余と共にこの弱小なる帝国を打ち破ろうぞ」

 この演説の後であったと思われるが、全軍一斉に喚声が上がった。そしてこの日中、敵軍から喚声が消え失せるという事は無かった。


 この報告書が届けられたのは、早馬で一月四日午後十時二分であったとされる。しかし、その時には既に、二条里帝はクラッタニア王到着の報を受けていたのである。それは、二条里帝の独自で持つ情報網であり、一日の午後六時であったとされる。王の到着から僅かに八時間後であった。

 この情報をいち早く手にした二条里帝は、しかし、即座に軍事行動に訴えるということは無かった。むしろ、不穏な動きの続くギジガナアニーニアに間者を放ち、反乱の可能性を探ったのである。そして、これは見事に的中した。ギジガナアニーニアの皇帝であるガヴァーラナ・ドレストニクシーマ・カッラが多数の重臣と共にクラッタニア王の下を訪れていたのである。これに対し、二条里帝は内部撹乱を行うべく、常任委員のチャーリー・パスカルをギジガナアニーニアに送りこんだのであった。ちなみに、彼の息子はジョーン・パスカル。第十八代皇帝となる人物であった。

 さらに、二条里帝はアメリカから、娘の二条里希を旧イギリスへと送り込んだ。その兵力は三個軍団。しかし、彼女は二十一とは思えない巧みな用兵で上陸に成功し、クラッタニア軍四万と激闘を繰り広げていた。

 以上の手配を済ませた上で、二条里帝は両院を招集し、クラッタニア王に向けて正式に宣戦布告を行った。それは、形式的な必要性と言うよりも、二条里帝が出陣することを内外にアッピールする為であった。そして、この宣言の後に、二条里帝は各同盟国に同盟軍の派遣を依頼したのであった。

 この動きに、最初に行動を起こしたのはユヌピス王国であった。これには、ギジガナアニーニアからの領土の防衛という政治上の問題に加え、大デベデジニアなどの親二条里派が多く存在したという理由が挙げられる。その為、ユヌピス王国は大デベデジニアを司令官に、三万の同盟軍を一月十日には派遣したのである。これ以外にも、各地から同盟軍が集結し、その数は七万にも及んだ。

 だが、これだけの準備を行っておきながら、二条里帝はその出陣の時期をさらに延ばしたのである。その間に、同盟軍と軍団兵とに訓練を施し、全軍の一体感を高めたのである。これにより、同盟国軍まで含めた全軍が、二条里帝の思い通りの軍に変わったのであった。

 二月二十日、二条里帝は全軍を率いて日本を出発した。以下は、この時に編成された軍の内容である。


 〈文輪正規軍〉二万四千

 第一軍団…渡会和貴

 第二軍団…内田水無香

 第三軍団…小野村洋行

 第四軍団…霧峯瑞希

 第五軍団…二条里博貴


 〈同盟軍〉七万

 ユヌピス王国軍三万…大デベデジニア

 EUFP軍一万三千…ジュリアヌス・ブラットン

 トレラニア軍一万…マラー・トットリュー

 レデトール軍一万…キャバー・マヌソフ

 リューカス軍七千…ダホーマ・リューカス


 これに対し、クラッタニア軍は王の直属親衛隊七万と王国第一軍二十万が、二条里帝の軍を迎え撃つべく、待ち構えていたのであった。九万四千対二十七万。これが、二条里帝が迎えようとしていた決戦の中身であった。

 しかし、常に兵力が多い方が勝利を収めるというわけではない。むしろ、二条里帝は今までの戦いを通して、その殆どを劣勢の中で戦っている。要は、如何に戦うかということである。それを熟知していた帝は、軍団長から大隊長にいたるまで、帝自身が良く知っており、今までに大きな戦績を上げている人々を任命したのであった。それと同時に、帝は全ての敵を撃破するための戦略を持っていたのである。

 だが、クラッタニア軍の方も王自身の出陣によって大きく士気が上がり、容易には撃破できない状況にあった。また、クラッタニア軍も情報を集めることは行っており、それによって、二条里帝が卓越した指揮官であるということが既に分かっていたのである。ゆえに、王自身の出陣は控えるべきであるという意見が戦略会議の中では大半を占めていたのであった。

 三月十日、二条里帝はアラル海の西においてクラッタニア軍とついに対峙した。この時、二条里帝が全軍であったのに対して、クラッタニア軍の方はその名将と呼ばれたクーミ・レア率いる四万であった。だが、ここで誰もが予想だにしなかった事が起きる。それは、二条里帝の敗走であった。

 この結果に、帝国中が動転した。むしろ、それだけではなく、帝国外も動転したのである。特にそれが激しかったのは敵であるクラッタニア軍であったが、この思わぬ戦勝に、クラッタニア王はクーミに対して第一等の勲章を与えたのである。しかし、この衝撃はそれだけでは止まなかった。三月十三日、今度はファーラ・リステーラ率いる五万の軍が敗走する二条里帝の軍を破ったのであった。それに加え、その四日後には再びクーミが二条里帝を破ったのである。

 帝国内外の動きが一斉に慌しくなった。まず、ギジガナアニーニアとヴィアの両国が戦端を切り、文輪の領内に攻め込んだ。次に、クラッタニアとの同盟を画策していた七カ国が一斉に文輪に対して宣戦布告を発し、クラッタニアの指揮下に入ることを求めた。さらには、中立であったカウファン星もレデトールへの侵攻を決定。そして、クラッタニア軍では王自らが最後の殲滅を行うべく、行動を開始したのである。

 まさに、破れかぶれと言うにふさわしい状況であった文輪であったが、二条里帝はいたって平生であった。なぜなら、この全てが作戦であったからである。二条里帝には、一度の会戦で事を決するだけの自信があった。それには、王の出陣が必要であり、何かしらの方策を用いて誘き出す事が必要な事であった。また、確かに短期的に見れば損失である十の国の離反も、長期的に見れば、理由を見出す必要も無く殲滅できる格好の機会となったのである。

 それに加え、負けたと言っても二条里帝が失った兵士の数は異様に少なかった。それは、二条里帝が戦略的に負けたためであるが、すなわち、敗戦によって受けた傷は殆ど皆無であったと言える。ゆえに、二条里帝は即座にも反撃が可能な状態であったのである。

 三月二十日、二条里帝はトレラニア戦役後にタラトスと改称したトルクメニスタン北部に陣営地を設営した。それに、クラッタニア軍およびギジガナアニーニアからの援軍が対抗して陣営地を建設する。そして、互いに足場を固めた両軍は睨み合いと小競り合いを始めたのである。互いに戦機を窺っての行為であったが、この時も、文輪軍の方が、敗戦が多かったのである。

 四月十七日、ヴィア王国の援軍がクラッタニア側の陣営地に到着する。そして、その翌日の十八日、クラッタニア軍は陣営地の守りに一万二千を残して全軍で出陣した。これに対し、二条里帝も第四軍団を除いた全軍を率いて出陣したのであった。

 全軍を前にして、二条里帝は演説を始めた。二条里帝にとっては、毎回の恒例行事である。だが、この時はただ三言で終わらせている。ちなみに、タラトスとはトレラニア語で「勝利の地」を意味する。

「この地の名の通り、勝利は我らの手許にある。行くぞ、戦友諸君。我々の祖国のために」

 これに対し、クラッタニア軍は国王が自ら長広舌を振るった。ここでは、それを省略するが、要は今までの戦果と祖国の発展への協力を求めたものであった。そして、ほぼ同時に演説を終えると、両軍は互いに突撃を開始したのであった。

 まず、二条里帝が直接率いる第五軍団がクラッタニア左翼との戦端を開いた。この左翼を率いていたのは、二度も二条里帝を破ったクーミであったが、三万の兵力でその五分の一を押さえるのに精一杯であった。逆に、二条里帝のほうは、常にも増して勢いが激しく、二条里帝の号令の下、その三列をうまく交代させながら敢闘した。

 その間に、中央と右翼も戦端を開く。こちらのほうは、兵力の差もあってか、一進一退よりも文輪が苦しい状態にあった。特に、トレラニアとリューカスからの援軍が主の場所では、明らかに不利であった。

 開戦から二時間、何とかクラッタニアの猛攻に耐えていたリューカスからの援軍が崩れた。この勢いに乗って、クラッタニア軍は一気に包囲殲滅へと持っていこうとする。だが、二条里帝はこれを許さなかった。

 二条里帝は、なんと第五軍団のトリアーリだけを率いて中央に向かったのである。無論、通常ならば、これで右翼が崩れる事もある。だが、二条里帝は急いで中央に駆けつけると、まさに文輪軍の戦列を分断したトレラニア軍の横腹に食らいついたのである。

 ここでも激戦が始まったが、結局的には、さらに隊を二つに分けて挟み撃ちにした文輪軍が何とか戦列を立て直すのに成功した。そして、二条里帝はここで第四軍団に出陣命令を下し、陣営地を燃やさせたのである。

 赤い炎が天を貫き始めるや、戦況は一気に逆転した。元々、陣営地への着火は作戦のうちであり、それを合図として、通常は三列である布陣が二列となったのである。それに加え、後ろに進んだところで逃げ場がなくなったことにもなる。これで、文輪軍は背水の陣を布いたのである。

 しかし、三倍の兵力を誇るクラッタニア軍も、この程度で瓦解するわけには行かなかった。国王は戦線を駆け巡り、叱咤激励を繰り返しながら、奮戦を呼びかけたのである。だが、この努力も二条里によって無効化されることとなる。

 突如として、右翼である第五軍団が戦線を離脱した。四散し、散り散りになって、消滅したのである。この事態に、クラッタニア軍の左翼は勢いづいた。そのまま、文輪軍の右翼を突こうとしたのである。だが、それを実行に移すや否や、左翼は三方を包囲されたのである。霧散していた第五軍団も、いつの間にか集結している。『二条里の軍団兵』にとっては、戦術上、四散した上で再集結するなど、朝飯前である。逆に、今度はクラッタニア軍の左翼が四散する番であった。それでも、クーミは指揮官の意地もあり、文輪軍の海の中で一人、奮戦していた。しかし、結局は二条里帝によって捕虜となった。

 これで、勝負は決した。二条里帝は左翼を撃破するや否や、一気に後ろに回りこみ、クラッタニア軍の中央を挟んだのである。この状況に、クラッタニア軍は完全に混乱し、二十万が烏合の衆と化したのである。それでも、二条里帝は手を抜くことなく、急ぎクラッタニア軍の奥深くに突撃すると、見事にクラッタニア王を捕らえたのであった。そして、将を失ったクラッタニア軍は四散し、戦役の行方も決したのである。

 国王の拿捕に、クラッタニア軍は全てが瓦解した。

 まず、ヨーロッパ地域で縦横無尽に闊歩していた王国第三軍が崩壊し、常任委員長である千野律生によって完膚なきまでに撃破された。それと同じくして、両執政官の率いる執政官軍団が中東に進出していた王国第二軍を撃破したのであった。

 また、このあっけない結果に、ギジガナアニーニア帝国内では覇権下にある国々の離反が始まっていた。それに加え、ユヌピス王国では侵攻してきた三十万の大軍をゾ・マーナが降し、文輪の国境は守られたのであった。

 ヴィア王国では、精鋭軍の全滅に国中が動転した。こちらは、国王こそ無事であったものの、玉砕か降伏かの二択で国中が割れた。よもや、領土国家としては崩壊したも同然であり、各地で暴動と一揆が頻発した。

 一時は中立を表明しつつもクラッタニア側についたカウファン星では、レデトール星との講和を打診するようになる。だが、これに正統政務官であったフェラデルは明らかな拒否を示し、

「弱きを以って付け入るは人道に反する。よもや、是非に及ばず」

と、カウファン星の使者に告げた。

 このように、文輪の勝利で幕を閉じたタラトス会戦は、文輪側の死者が七千五百。負傷者が二万七千であった。一方、クラッタニア連合軍の方は死者が一万二千に及び、負傷者が三万六千、捕虜が十七万六千という、双方に大きな被害の出た戦いであった。しかし、クラッタニア王を捕虜にした瞬間、第二次クラッタニア戦役は決したのであった。

 この戦いの後、二条里帝はこのような言葉を残している。

「戦役において、一戦一戦の価値というものは、さほどに大きくはない。だからこそ、些細な事を考えず、大きな気持ちで戦略を立てるべきである。むしろ、決戦において勝利を掴むことができれば、百の敗北は戦略となり、未来永劫にわたる栄光となるのである」

 一方、捕虜となったクラッタニア王も似たような言葉を残している。

「僅か、三度の勝利で戦役の結果は見えるものではなく、勝利の次こそ、最高の戦いをしなければならない。二次戦役では、この一事が抜けていた。そういった意味では、我が軍の敗北は自明の理であり、文輪軍の勝利は、二条里帝の敗北と同時に決まっていたのであろう。いずれにせよ、タラトス会戦における敗北の原因は、私の驕りに尽きよう」

 戦役は決した。まさに、骨断という言葉が相応しい形で。そして、終わればいつもと同じように、条約の締結となるのであった。

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文輪帝国興亡の歩み 鶴崎 和明(つるさき かずあき) @Kazuaki_Tsuru

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