灰色一夜


 キミとの最初の想い出は、灰色。

 空ごと沈んでしまいそうな土砂降りの夜だった。


   *

   *

   *


「八重山さん、その子は——?」


 喫茶店のボックス席、向かいに座る担当編集が私に尋ねる。


 ——拾いました。家の前で。


「はい?」


 なんて。犬や猫じゃあるまいし、そんなん言えるわけがない。


「いや、何でもないです。親戚のとこの子供で、ちょっとワケありで預かってるんですよ」


「へー、そりゃまた突然ですねぇ」


「あはは……。なんか急に決まっちゃって。本当は家に置いてくるつもりだったんですが、すみません……」


 雨音がパタパタと窓を打つ。


「まぁ、それはいいけど」


 担当の渡里さんは右手の薬指で刈り上げ頭を掻きながら、呟く。


「さっきから視線が痛いというか……」


 ——そりゃそうですよね。


 謝罪の言葉も見つからず、居たたまれない気分で視線を彷徨わせる。

 店内に他の客はなし、つまり元凶は考えるまでもない。

 隣に座る少女——すばるだ。もともと切れのある目をさらに鋭く尖らせて、斜向かいの渡里さんを親の仇もかくやという勢いで睨みつけている。この店に入ってからずっとこの調子である。


「オジさんに聞きたいんだけど——」


 ちくちくと刺すような、険のある声。


「揺乃とどういう関係なわけ?」


「さっき紹介したじゃない。この人は出版社の渡里さん。いま、真面目に仕事の話をしてるのよ」


「揺乃には聞いてないし、それはさっき聞いた。私が言いたいのは、このオジさんに下心があるかどうかってこと」


「下心ってね……」


 ようやく喋ったと思ったら何を言い出すんだか。娘離れできないお父さんかキミは。

 呆れて言葉に詰まっている間にも、すばるはテーブルの上に身を乗り出して渡里さんに詰め寄る。


「どうなの? 白状しなよ、オジさん」


「参ったなぁ……。何にも白状することなんてないんだけど——」


 こほんと咳払いをする渡里さん。それから意を決したようにすばるに向き直った。


「すばるさん、だったよね。とりあえずオジさんはやめない?」


 ——あ、やっぱり気にしてた。さもありなん、この夏二十七歳を迎えたばかりの彼にしてみれば、さぞかしショックだろう。

 すばるもそれは察知しているはずだが、残念なことに同情する気持ちは生まれなかったらしい。


「ふぅん、話逸らすんだ。オ・ジ・さ・ん」


「うーむ、そうくるか…………」


 ここぞとばかりに追い打ちをかけるすばるに、渡里さんの彫りの深い眦が下がっていく。それでも崩れない温和そうな笑顔は流石だ。流石すぎて、逆に哀愁すら漂っている。

 なんて見てる場合じゃない、いい加減止めておかないと。今日は仕事の話をしに来たのだから。これ以上お子様のわがままに付き合ってはいられない。


「はいはい、そこまで。仕事の邪魔はしないって約束でしょ」


「揺乃は黙って……っ!」


 すばるが荒らげた声を遮って、乾いた音が店内の静かな空気を叩いた。


「——ったぁ」


「もうやめな。失礼だよ。渡里さんは私の仕事の担当さん。——キミが気にしてるようなことは何もないんだから」


「でも……」


「でもじゃない。いい加減にしないと追い出すよ」


「それは、……嫌」


 すばるは唇を噛んで俯く。


「まあまあ、八重山さん。落ち着いて」


「お待たせしましたぁ! 」


 明るく元気な声に思わず振り向いてしまう。そこにいたのは、白いエプロンを纏った小柄な少女——カフェの店員だ。


「たっぷりはちみつのカフェオレは——、おねーさんでしたよね」


「そうです」


「こちらのおねーさんはシナモン風味のビターなホットチョコレート、おにーさんが自家製水出しコーヒー濃いめですね」


「どうも」


 少女はメニューをすらすら口にしながら、手際よく正確に頼んだ相手に給仕してみせる。今時のバイトってすごいなぁと見惚れてしまった。


「ごゆっくりおくつろぎ下さいませ」


 鈴を鳴らすようにして場の空気を一変させてしまった少女は、最後まで笑顔のままキッチンに戻っていった。


 沈黙に落ちる雨音を優しいジャズミュージックが包み込む。

 渡里さんは俯いて深くため息をついてから、シャツの襟を正して顔を上げる。そこには温和で、なんでも包み込んでしまいそうな大らかさを湛えた微笑が浮かんでいた。


「さて、注文も来たことだし。打ち合わせ始めますか」


「よろしくお願いします」


 隣のすばるは、さっきまでの態度が嘘のように大人しくなっていた。ぴんと張った肩は目に見えて萎んでいる。少し言い過ぎたかもしれない——が、原因が本人にある以上は仕方ない。


「それにしても、八重山先生は甘いものが好きですねぇ」


「昔からなんですよ、蜂蜜党でして」


「先帰る」


「あ、すばる——」


 ガタガタッとわざとらしく椅子を引きずって、すばるは店を出ていった。


「大丈夫ですか?」


 渡里さんは右手の薬指で刈り上げ頭を掻いている。


「いいんです、放っておけば。それよりも打ち合わせお願いします。——今回のはあんまり自信ないですけど……」


「はは、とりあえず読ませていただけます? 具体的にどうしていくかはそれから話し合いましょう」


 原稿用紙五枚ほどの薄っぺらいプロットを入れた封筒を手渡す。渡里さんは両手でそれを受け取り、折り目ひとつ付けまいとするように丁寧な所作で中身を取り出した。この人はどんな時でも、例えその場で没になってしまうような端書きでさえ、そんな風に扱う。

 原稿用紙に目を通し始めた渡里さんは、口元を引き締めて厳しさ三割増しの顔付きになる。

 熟読モードに入った渡里さんから窓の外に視線を移して、ふと思う。


 ——渡里さんと二つしか違わない私も、すばるにしたらオバサンなのかなぁ……。


 そう思われていたら結構嫌だなと思った。

 すばるはちゃんと帰っているだろうか……? 今さらになって、手のひらがじくじくと痛んできた。


   *


 最初にイレギュラーはあったものの、問題なく打ち合わせは進行した。渡里さんが普段と変わらない調子で話してくれたおかげで、そのことをあまり意識せずにすんだのは幸いだった。打ち合わせに没頭するうちに、微妙に気まずい雰囲気はどこかに吹き飛んでいた。本当によくできた人である。

 もっとも、提出したプロットは全没を食らったのだけど。

 喫茶『壱月亭』を後にして、容赦なく身体を濡らす雨の冷たさから逃れようと足早に家路についた。




   *

   *

   *




 あの日も土砂降りの秋雨だった。


 執筆作業に集中するため普段から買い置きを欠かさないようにしてるのだが、たまたま米を切らしてしまった。仕方なく、大雨の中スクーターを走らせてスーパーに行った帰りだった。途中で交通規制に引っかかり、散々迂回させられたことに辟易としていた矢先、見ず知らずの少女——すばるが我が家の軒先に座り込んでいたのだ。


「ちょっと、こんなところで何してるの!?」


「——ねぇ、ねぇってば!?」


 呼び掛けても目を開かない。背中を雨よりも冷たいものが走る。青白い肌は氷のように冷え切っていて、ぐったりとした身体を玄関に預けている。

 とにかく家に運んで、救急車を——。





 動揺して慌てふためきながらも、なんとか着替えさせて、布団に寝かせる。安らかな寝息を立て始めた少女にひとまず安堵する。

 しかし、ずぶ濡れの制服をいくら漁っても、保険証などのカード類は見つからない。唯一出てきた携帯はロックが解除できず。制服や鞄から学校くらいは特定できるかと思ったが、スクーターで行ける範囲が生活圏の私には無理だった。結局、身元も連絡先も不明だ。

 仕方なく少女の目覚めを待つことにした。




   ***




 ——ここはどこだっけ……?


 耳を撫でる電子音に紛れてぽこぽこと水に泡が立つ音がする。テレビのやかましい音も、ヒステリックな怒鳴り合いも聞こえてこない。

 ここは、とても静かだ。


「あ、起きた」


「……?」


 誰だろう。ちょっとくたびれた、素朴な感じの女の人。


「熱、まだあるね。寝てなさいな」


「——ここ、どこ?」


「私の家。うちの前で倒れてたの、……覚えてない?」


「あんまり」


「ふぅん……」


 彼女は顎に手をやり何かを考えこむ。長くて細くて、血管が浮き出ている指。

 不意に私のお腹がきゅうと鳴る。

 彼女は慌てたように手を打ち合わせた。


「そうだ、お腹空いてるでしょ。お粥作るからちょっと待ってて」


「あ、ええと。——お、お構いなく」


「あはは、気にしなくていいって。昨日から何も食べてなくて、私もお腹空いてるんだ」


 ——本当に、お構いなしでいいのに。それよりも……。


 肩から先の感覚がほとんどなかったけれど、精一杯に手を伸ばす。遠ざかる彼女の背中を見ていると、どうしてかひどく心許ない気持ちになる。




   ***




 食事が済むと少し地に足がついた気がしてきた。シンプルな卵粥しか作れなかったけど、身体は内側から温まっていくようだ。今更だが、自分も雨に打たれて冷えていたんだなと実感する。

 少女も少しだが口を付けてくれた。多少は食欲が戻ってきたのかもしれない。

 布団の脇に運んだテーブルに二人分の湯飲みを置く。お湯で溶いただけの生姜湯。ついでにノートパソコンを持ってくる。


「ちょっとは食べたね、感心感心。また寝てていいよー。私もここで仕事してるから、何かあったらいつでも言って?」


 家族と仕事以外で人に会うのは久しぶりだった。できるだけ気軽に話しかけてもらえるよう、気さくなお姉さんを演出しようと試みる。


「じゃあ」


「ん?」


「着替えたい。汗、気持ち悪いから」


 私が着せたTシャツの裾を引っ張りつつ、少女が言う。細くて——、それでいて肉付きのある身体のラインが露わになって、思わず目を逸らす。なんだか悪いことをした気分になる。


「わかった。着替え出すよ」


 押入れの中に入れた比較的新しい服を漁る。長袖で厚手な方がいいかな。——それより先にこれを渡しておこう。

 

「はい、これで体拭いときな」


 私は少女の手元めがけてタオルを放る。


「ありがとう」


「悪いね、Tシャツとジャージしかないけど。我慢してね」


 布団の脇に着替えを置いて、私はパソコンを引っ掴む。


「——どこに行くの?」


「知らない人に着替えみられたくないでしょ。隣の部屋にいるから、終わったら教えて」


「別に気にしないよ。どっちかってゆーと、出て行かないで欲しいんだけど……」


 自分の身体を抱く少女。心なしか不安そうだ。


「キミ、名前は?」


「——すばる。お姉さんは?」


 お姉さんという響きに少しどきりとする。そう呼ばれ慣れていないし、そもそもまだそう呼ばれてもいい歳だっけか——、ちょっと自信がない。


「八重山揺乃だよ。揺れるの揺に乃木坂の乃」


「揺乃……」


 少女は反芻するように、口の中で私の名前を唱える。

 そして、弾かれたように顔を上げる。


「ねえ、揺乃って呼んでもいい?」


「いいよ。——って、そうそう。おうちの連絡先教えてもらえないかな。迎えに来てもらえるように頼んでみる」


 言うと、すばるは途端に身を固くする。


「そんなのいいよ」


 すばるはTシャツを強く握り、頑なに首を振る。

 やっぱりか。なんとなく察してはいたけれど……。


「よくないってば。キミが寝てる間にもう二日も経ってるし、さすがに親御さんが心配してるよ」


「心配なんて。どうせ誰も気にしてない」


「こらこら、未成年。そんなことを言うもんじゃないよ————っ!」


 ぎゅ——っと。胸に押しつけられる重み。突然、すばるが布団を跳ね退けて、しがみ付いてきた。私はたたらを踏み、柱に寄りかかる。

 少女は何かを確かめるように額を寄せてくる。その温度が私の胸の表面をちょっとだけ焦がす。


「おねがい。揺乃は迷惑だと思うけど、しばらくここに居させてくれない?」


「はぁ……、やっぱ家出か、キミ」


「だめ?」


 半オクターブ高いトーンで問いかけ、首を傾げるすばる。

 思わず頭を抱える。


「まー、正直迷惑」


「そうだよね、ごめん。やっぱすぐ出てくよ」


「いやいや、こんだけ熱い身体して何言ってるの……」


「じゃあ、おねがい」


「はぁ……」


 まんまとすばるという少女の術中にまっている気がする。と言っても、このまま見捨てるわけにもいかないよなぁ……。

 家がダメなら、警察とか専門の施設とかに任せるのが常識的なんだろうけど。


「——ふたつ条件があるわ」


「おうちにはちゃんと連絡しておくこと。それから、風邪が治ったら帰ること。いい?」


「うん」


 快諾したすばるの表情は、熱のせいか真っ赤で——年相応の屈託ない笑顔だった。


   *


 すばるはそれから三日三晩寝込んだ。

 完治したすばると入れ替わりに私が風邪をひき、その間に我が家の台所は彼女のテリトリーになった。ただの素行不良な高校生と思いきや、すばるの手料理は文句なしに美味しかった。


 一つ目の条件——、実家とは連絡を取ったらしい。高校に通えてるということは、親御さんも容認してるということだろう。


 そして二つ目の条件は未だに果たされないまま。そんな状況を何となく、まぁいいかなとか思い始めていた。


 三年前の夏に祖母を見送って以来、初めて迎える住人だ。私自身そのことに心動かされていなかったと言えば嘘になる。

 この家は一人で住むには広すぎる。




   *

   *

   *




 家に帰ると、すばるは縁側で足をぶらぶらさせていた。


「いつまでヘソ曲げてるのよ」


「曲げてない」


「曲げてんじゃん」


 すばるは私にきつい視線を浴びせる。


「あたしの気持ち、知ってるくせに」


「私が取られるとでも思った?」


「だってアイツ、揺乃のこといやらしい目で見てた」


 いやらしいって……。よりにもよって渡里さんを捕まえて、そんな風に思い込めるとは。すばるフィルターが映すのはどれだけ下卑た世界なんだろう。

 いや、それだけ若いってことかもしれないなぁ。


「そりゃないってば」


「どうしてそう言い切れるの? 心配だよ。揺乃、キレイだもん」


「違くて。そもそも渡里さん結婚してるし」


「それでもだよ! オトコなんてみんなそう!」


 いくら言っても聞かないすばるに、思わずため息が漏れる。どんだけ男が嫌いなんだか。


「じゃあ、これから私の知り合いに会うたびに、同じことするんだ?」


 口にしてから、この子ならやりかねないと思った。よりにもよって私が綺麗に見えるくらいだ。

 目の置きどころに迷って、空を仰ぐ。


「あたし、やっぱり揺乃が好き」


「言ったでしょ。その気持ちはただの吊り橋だって」


 出会ってから一週間とちょっと。すばるは世間話でもするように「好き」と言ってくる。でも、私は『恩人』であってそれ以上じゃない。


「そんなことない!」


 すばるは拳を握りしめる。手のひらに爪を食い込ませて。それはまるで、自分に言い聞かせているかのよう。


「あたしは揺乃の恋人になりたいの……。変かもしれないけど、そう思ってるの」


「いいよ。キミの気がすむまで付き合ってあげる」


 すばるの気持ちを変だと思ったことは一度もない。

 私が黙って指差した先——、見上げたすばるの瞳が輝く。


「だから変なヤキモチ妬かなくていいのよ」


 雨が上がれば空には虹が差す。それに出会えたらラッキーだと思うけれど。実際は何の不思議もない、ごくごく自然な出来事。でもやっぱり、ちょっとだけ得した気分になるのだ。




   *

   *

   *




 ——ひとりにしないで……。


 掠れた囁きは、しかし切実な響きをもって耳の奥を打つ。

 まるで母親に縋り付く赤ん坊のように、私の首に両腕を回した少女のほの白い背中が震えていた。秋雨に晒され冷え切った身体とは対照的に、私の肩に預けられた首筋はひどく熱かった。乱れた息づかい。相当苦しいのが分かる。これ以上病状が悪化したら危険そうだ。


「それじゃ寒いでしょ。ちゃんと着替えよう?」


 ぐったりと力の抜けた肩を支えて、一旦布団に横たえる。

 外で水飛沫の上がる音がする。家の前を通り過ぎた車のヘッドライトが一瞬だけ室内を照らし、仄暗い布団の上に横たわる名も知らぬ少女の細い裸身を浮かび上がらせる。

 今更になって指先に伝わる素肌の滑らかさを意識する。こんなふうに他人の身体に触れたのは何年ぶりだろう。


 ——だから、魔が差したのかもしれない。


 間近に覗き込んだ少女の顔。熱のせいか瞳は虚ろで、長い睫毛には涙の粒が滲んでいる。薄く開いた口許が時折弱々しい吐息を漏らす。

 まるで吸い込まれるように、気付いた時には唇を合わせていた。

 静寂が耳に痛かった。

 全身がうなるように脈を打ち、舌は火傷したように痺れを訴えていた。

 それでも——。

 心は一度も抑制を掛けなかった。




   *

   *

   *




 さて、出会ってから一ヶ月が経ち、すばるは私の『恋人』を自称するようになった。

 私は未だにすばるを『恋人』とは呼べないでいる。




   ***おしまい***

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糸の揺れ結ばる夜に 白湊ユキ @yuki_1117

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