三秒間の虹色
それを見つけたのは、同居人を迎えて三ヶ月も経った頃、何となく押入れの掃除を始めた夕方のことだった。
——シャボン玉セット。
錆びの浮いた円筒形の缶の中から、先端が太くなったストローをつまみ上げる。元々はクッキーが入っていた缶を、幼い頃の私は小物入れにしていた。
蓋はちゃんと閉まっていたので、プラスチックのストローは案外傷も汚れもなかった。少しくすんだ蛍光色の黄緑が、胸の中に遠い思い出を呼び起こす。
——隣でシャボン玉を飛ばす兄。そして——、私たちを見守る祖母の皺くちゃな笑顔。
同じ缶の中には、蛍光ピンクのプラスチックケースも入っている。まるっきり原色な黄色のキャップを捻ってみると、中身は当然空っぽ。そりゃそうだ。いつからしまい込んでいたのか思い出せないが、十年以上も前の話である。
「あ、それ! ナツい」
弾むような声が刹那の郷愁を打ち破る。と同時に、背中に控えめな体重がかかる。
近くの姿見には、どてらを羽織った猫背の私と、その上にのしかかる制服姿の少女——すばるが映っていた。アッシュベージュに染めた軽そうなショートヘアは、彼女が通う女子高指定の制服の清楚な雰囲気とあまりに不釣り合いで可笑しい。
「へえ、意外。知ってるの?」
「またバカにしてる。知ってるも何も上手いんだよ、私」
私の猫背に身体を預けたまま、鏡の中のすばるは不満げに頬を膨らませる。切れ長の目尻を釣り上げ、私の手元を睨む。
「ごめんごめん。馬鹿にしてるわけじゃないって。キミがシャボン玉吹いてるのが想像できなくてつい——」
すばるは三ヶ月前から我が家に住んでいる、言わば居候というやつだ。
とは言え、私が知っている事は、彼女がひと回り歳下という情報だけ。生まれも育ちも、何もかもが謎に包まれている。そのせいで、時折どうも浮世離れというか、常識知らずな感じに扱ってしまうのだ。
でも実際に常識を知らないかと言うと、そんな事はない。私と出会う前も後も、近所の女子高に通い続けている、甘い物好きな少女——まぁ概ね、普通の女子高生である。学費はどこからか支払われているようだけど、その辺の事情をあまり詮索しないようにしているので、やっぱり謎なのだけど。
何にせよ、すばるにもここに転がり込む以前の生活があったわけで、親兄弟や友達とシャボン玉遊びをした経験があっても不思議はない。
「そだ、揺乃。勝負しよう。どっちが長く飛ばせるか」
すばるは野良猫を思わせる双眸を鋭く光らせ、挑みかかるように提案してくる。その口ぶりからすると、よほど自信があるのだろう。
「まー、いいけど。決着ついたら勉強に戻ること。それから、負けた方が今日のお風呂当番ね」
「言ったなぁ! その言葉後悔させてやるから!」
無駄に威勢の良い戦線布告が、十二畳間の天井に響き渡った。
縁側から庭に出た。
開けっ放しの窓に手をかけて、クロックスを履く。
すっかり日は落ちて、明かりも何もない庭を隙間なく闇が埋め尽くしている。
自宅の庭なので、格好は冬用のジャージにどてらを羽織っただけの、他所様にはあまり見せられない引きこもりスタイルだ。一足先に庭に出ていたすばるは制服姿ではなく部屋着姿だった。臙脂色のパーカーの上に濃紺のジャケットを重ね着している。しかし、足元はミニスカートにタイツと寒そうだ。「若いなぁ」というフレーズが頭を横切った。
住宅街の街灯から少し離れた場所にある古びた瓦葺きの一軒家。それが私の棲家だ。師走の入りの空気は流石に刺すように冷たかった。あらゆる不純物を拒んで冴え渡る。そんな澄んだ空気のお陰か、今日は一段とくっきりと浮かぶ上弦の月。都会の真ん中にいる事を忘れそうなほどの星の海が天蓋を飾る。
昔から、ここから見上げる夜空が好きなのだ。
「何してんのよ」
すばるの不機嫌そうな呼びかけ。
「ああ、すぐ行くよ」
空だったピンクのプラケースは、ぬるま湯に洗剤を混ぜて即席で作ったシャボン液で満たされている。不敵な笑みを浮かべたすばるが駆け寄ってきて、私の手からそれを引っ手繰る。彼女のもう片方の手には黄緑色のストローが握られていた。
「ちゃんと見ててね」
縁側に座る私に向かって、楽しげなトーンでそう言ってから、ストローをシャボン液に浸し、吹き口を咥える。そのストローの先から、こぶし大くらいの、透明な闇を映したシャボン玉がふわりと飛び立つ。
すばるが作ったシャボン玉はぷかぷかと、微風に乗って漂う。そして庭の隅——ぽつぽつと実がなり始めた柿の木の前で、ふわっと弾けた。
「どうよー」
「へぇ。本当に得意だったのね。上手いこと」
「……? う、うん」
得意気だったすばるは、何故か目を丸くして私を見つめてくる。素直に褒めたつもりなんだけど、彼女にとっては予想外の反応だったらしい。
「さて、次は私の番ね」
そう言って縁側から腰を上げ、すばるからシャボン玉セットを受け取る。
「——でも、まだまだ甘い。私がシャボン玉得意じゃないなんて、一言も言ってないわよ」
新鮮な夜気をすーっと肺に溜めて、シャボン液に浸したストローを咥える。ゆっくり優しく息を吹き込むと、ストローの先端で表面に虹を宿した膜が膨らみ、球体になって夜空に浮かび上がる。それはやがて風を捕まえ、あの柿の木に向かって緩やかに進んでいく。
幼い日の私もこの庭で沢山シャボン玉を飛ばした。虹をはらんで漂うそれが好きだった。しかし、同時に心細かったのだと思う。夕陽に映えて赤くなった球体は、あっという間に風の中に溶け去ってしまうから。絶やさないように何度も何度も吹いた。
そんな憧憬から溢れたシャボン玉の幻影が、たった今私のもとを飛び立ったシャボン玉に重なる。それは柿の木の枝をすり抜け、石垣の上を越えて、——ふっと唐突に、夜の暗がりに消えた。
「えええーっ!? 何でそんなに飛ぶの?」
悔しさと感心が半々くらいに入り交じったすばるの高音を浴びせられ、過去にトリップしていた思考が引き戻される。
隣には純粋に驚き憧れるような表情をしたすばるがいた。
「ざっとこんなものかな。すごいでしょう?」
今度は息を短く吹き込んで、小さなシャボン玉をたくさん浮かべてみる。
「昔からこれだけは兄貴にも負けなかったのよ」
「そんなぁ……。揺乃は絶対下手っぴだと思ってたのに」
勝手にそんな裏切られたような顔をされても困る。
そう言えば、お風呂掃除を賭けて勝負していたっけ。
「そういうことで、キミの負けでいいわよね。中に戻ろうか」
「待って。もうちょっと遊んでから」
再勝負とは言い出さなかったものの、すばるがむきになっているのは明白だった。この様子だと何時までシャボン玉遊びに興じるか分かったものじゃない。
「いいけど。キミ、勉強は? 試験近いんじゃなかったっけ」
「つ、疲れたから休憩してんの! 後でちゃんとやるし……」
目が泳いでいる。試験当日までに勉強が間に合うことを祈っておこう。
「だいたい自分だって原稿放り出して、片付けなんか始めてたじゃん」
痛い話題にすり替えてきた。さっきまで、コタツに向かい合って、各々の本分を全うしていたわけで。押入れ掃除などと先に根をあげたのは私の方だ。
「物書きにはそんな時もあるの。覚えときな」
「いや、別に物書きになるつもりないし。——てゆーか、お風呂上がったら数学教えてよ。数列、全然分かんない……」
「はいはい」
話している間も、すばるは懲りずにシャボン玉を飛ばし続けている。ふくよかな唇がストローに息を吹き込み、また大きなシャボン玉が生まれる。
——しゃぼんだま。浮かんでは消えて——、それでおしまいだ。
「何で揺乃みたいに飛ばないんだろう」
「あはは、そんなの上手くたってしょうがないよ。どうせすぐに消えちゃうんだし」
それがほんのちょっと、早いか遅いかの違いだ。
「キミさー……」
「そろそろ帰んなよ」
すばるの目は怒っているようにも悲しんでいるようにも見える。
「別に。ちょっと買い物してくる」
すばるが踵を返す。
少女の肩を落とした背中を見ていると、あの時の事を思い出す。
*
*
*
それは土砂降りの秋雨の下だった。
買い置きを切らして仕方なくスーパーに行った。途中で交通規制に引っかかり、散々迂回させられたことに辟易としていた帰り、少女が軒先に座り込んでいたのだ。
「ちょっと、こんなところで何してるの!?」
返事をするでもなく俯く少女。
少女はそれから三日三晩寝込んだ。
そして、元気になった少女は同居人を名乗るようになった。私はそれに文句を言いながらも、結果的には許し続けている。
折しも夏に祖母を見送ったばかり。独りでこの広い家に住み続けるかどうか、漠然と考えていた時期だった。
*
*
*
「何で泡風呂……?」
廊下ですれ違ったすばるは、むくれているのが態度の端々に出ていた。そんなに帰りたくないか。でも、すばるもいつかはこの家を出ていく。二人で過ごすこの日々も、あのシャボン玉のように泡沫と消えるのだ。
バスタブを満たす泡を吹き散らかすと、たくさんの小さい泡が浮かぶ。そして、次々に散っていく。
自分を恋人として慕ってくるすばるに、私は何を求めているんだろう。私からも恋人と認めてみたら分かるだろうか?
薄闇にぼんやりと浮かぶ青白いシルエットは、まだ瞼の裏に焼き付いている。冷たく張り詰めた肌。今でも唇が思い出すあの生々しい感触は、いつになったら消えてくれるのだろう。
*
風呂上がりにミネラルウォーターを求めて私は台所へ向かっていた。滅多にしない泡風呂のおかげで、長湯しすぎたかもしれない。通りがかったコタツのある部屋こと作業場に明かりがついていたので覗き込むと、すばるが勉強していた。
彼女は私の気配に気づいて振り向いた。
「揺乃って数学得意だったの?」
「いやー全然。たぶんキミよりひどかったね」
数学なんて中学に入ってすぐに挫折した。
ただ、数列だけは何となく好きだった。一つの規則に従ってどこまでも続いていく、何とも調和の取れた美しい世界を見ているような気になるから。
「特に暗記がダメだったわ。社会とかホントひどかったわよ」
「数学、ちょっと見てよ」
「いいよ」
教科書を覗き込んで身を乗り出した私を、すばるが背中に手を回して抱きしめてくる。
「揺乃はガリガリだよねぇ。こんなに抱き心地ビミョーな女の子って初めて見た」
「余計なお世話だっての」
「体壊しても知らないよ。すぐに食事抜くんだもん」
すばるの抱きしめる手は優しい。そして、不意に思う。あの冷たい肌の感触が消えることはないんだろう。すばるは実家に帰るべきだと思う。親公認でこんな怪しい女の家に同居させる家庭に返すのも心配ではあるが、それでも彼女の親は私じゃないのだから。しかし、同時に逆のことを考えてしまう自分がいる。
「あ、この計算ここで間違ってるよ」
「ええ、教えてよ。揺乃」
「いいわよ」
「まじ!? 」
すばるが機嫌良さそうに隣の座布団を勧めてくる。
「違うわよ」
「え?」
「同居のこと。もう帰りなさい何て言わない」
すばるはぽかんと口を開けてこちらを見ている。そうしているうちにみるみる顔が青ざめる。
「ど、どーしたの? もしかして父さんたちに何か言われた?」
「違うわ。私がそうしたいと思っただけ」
「夢、とかじゃないよね?」
すばるは私の頬をつねりながら言う。
「現実だっての!」
私はすばるの手を振りほどき、彼女のアッシュベージュの髪を撫でる。
「嫌なら言って」
「嫌じゃない!」
立ち上がったすばるの瞳は少し濡れていた。そして、私が知る中で一番の笑顔で笑った。私はそれを見上げながら、胸に淀んだ空気が満ちていくのを感じた。
「嬉しいから……、私もひとつ揺乃のために何かしたい」
「いいわよ別に」
「そーねぇ」
私を無視して、すばるはすこしだけ悩むように天井を見る。
「原稿忙しいときは私が料理してあげる」
「それはとても魅力的」
——仕方ない。当面の間はキミとの時間を大事に積み重ねていこう。
「そろそろ寝るわよ」
「明日こそ数学教えてよね」
「はいはい」
***
気が付くと晴れ渡る空と、全く同じ色をした海——。どこまでいっても単色の世界、私の身体は泡を浮かべながら水底の方へとゆるゆる沈んでいく。
我が家の狭い水槽を飛び出し、広い海を暢気に泳ぐ巨大なメバルの背に乗り、私はどこか遠くを目指している。その傍らには、ちょっとだけ大人っぽくなったすばるもいるのだ。
***おしまい***
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