糸の揺れ結ばる夜に

白湊ユキ

よふかし五分の裏表


 今夜も私の時間がやってくる。


 リビングにある水槽のエアポンプが奏でる規則的なBGM。それに紛れて、耳元には早くも静かな寝息が届いていた。

 電気を消して、「おやすみ」——それから三つ数える頃にはもうこれだ。一日中走り回っていた子どもみたいな寝つきの良さも、さすがに毎晩見せられると、驚きや呆れを通り越して笑えてくる。

 耳をそばだてて眠っているのを確認してから、ゆっくりと瞼を上げる。

 暗闇がこびり付いた木張りの天井がぼんやり映る。東を襖、南を障子に仕切られた十二畳の和室。畳に直に敷いた二人用の布団の上で、下ろしたての羽毛布団を首まで引き上げて身震いする。隣で良い塩梅に発熱する少女という名の湯たんぽが、冷え気味のつま先を温めてくれる。

 もう二度目の冬だ。

 吐いた息が白く立ちこめては、消えていく。目はすっかり闇に慣れていた。さっきまで頭の中を煩いほど飛び交っていた書きかけのネタはいつの間にか霧散して、天井に浮かびあがった泡沫のような染みに溶けていく。

 首を左に回して、枕の膨らみの向こう側を覗き込む。そこには当然のように、こちらに向いた少女のあどけない寝顔がある。布団の中で私の指先を絡め取ったまま、甘えるように眠っている。

 不意に、堪らない想いの波が押し寄せてくる。物音を立てないよう細心の注意を払って上半身を起こし、寝顔を上から覗き込む。


「すばる?」


 密やかに息を吐くようにその名前を呼びかけるが、反応はない。そうでなくちゃ困る。

 すぐ目の前には、ふっくらと丸っこい頬っぺたがある。若いっていうのは本当に羨ましい。瑞々しくて、張りがあって。でも、本人が思っているよりもずっと傷つきやすい。壊れ物を扱うように、その頂に掛かった長い髪を払ってから、唇の先で触れる。


 ——本当、どうしてキミはうちに来ちゃったかね。


 私はすばるのことをほとんど知らない。何故この家の軒先に座り込んでいたのか、それ以前はどこに住んでいたのか、家族はいるのか、もしかすると本当の名前すらも。それが気にならないわけじゃないけれど、何となく聞かずに過ごしているうちに、もう一年以上が経ってしまった。

 彼女を拾ったことで、祖母から譲り受けた独り身には広すぎる我が家に彩りが添えられた。一人暮らしの気楽さと引き換えに、美味しい食事と明るい笑い声が響くようになった。


 最初の頃はそれで良かった。

 そう、あの日に断っておくべきだったのだ。一回りも年下の少女のこと、燃え上がった熱もどうせすぐに冷めるだろうと軽く考えていた。しかし気が付いてみたらこの有様。すばるの火は未だに消えず、いつの間にか私の中にまで燃え移っている。

 そして今日も私は彼女を傷付ける。「さっさと自分の家に帰りなよ」と、何度も繰り返してきた言葉で突き放してしまう。そんなとき、彼女はいつも曖昧な笑顔を浮かべて黙り込む。何かを堪えるように引き結ばれた口の端は痛々しくもある。でも、そうして彼女が心を痛めることで救われてしまう私も確かにいるのだ。


 ——いい大人のくせして、難儀なものですこと。


 私の気持ちを知ってか知らずか、すばるは堂々と恋人を称する。そんな十代の少女らしい物怖じのなさは、今の私には少し重い。袖を引く手を払いのけてしまうのは、キミを汚してはいけないと思うから。仮とはいえ保護者として子どもが正しい道を外さないように、きちんと教育する責任がある。親でも姉妹でもない、アラサー間近のぱっとしない物書きだけど、一応大人だし。

 釣ってきたメバルを可愛がるのと同じように、とはいかない。たかだか一文字違いで、話は随分と面倒になるものだ。


 だけど、すばるが寝静まった後の五分間だけは、私のもの。伝えられずにぽろぽろと落としてしまった想いを拾い集めて、心の隙間を埋める、誰にも見られたくない自己満足のロスタイムだ。


『早く大人になってよ』


 そうしたら、私だってキミのことを————。

 なんちゃって。その前に愛想を尽かされてしまうのが目に見えている。キミが居なくなった家で独り、お婆さんになるまでキミへの未練を抱えて生きていくのだろう。

 もう一度同じ場所にキスをして、布団に潜り込む。

 明日のキミに早く逢いたい。キミが企んでいる秘密の種明かしが聞きたい。

 だから、呟く。


『おやすみなさい』


 冬の夜は更けていく。唇に残る余韻と隣にある温かな存在を感じながら微睡む、一日の終わり。それはゆりかごのように、私を夢の中へと揺蕩わせてくれる。




   ***




 今夜は頬っぺたでした。


 ——もうね。起きてる時はつれないくせに、そういうのって酷いんじゃないでしょうか?


 仰向けで音も立てずに眠る横顔を、ちょっと恨めしい気持ちで眺める。

 人のことをあれこれ言うくせに、自分もたいがい寝付きが良いんだから。

 普段はお姉さんぶって、キスどころか手を繋ぐのも嫌がるし、デートの誘いだって全然受けてくれない。仕事が忙しいのは散々目の当たりにしているから分かる。分かるけど、たまにはさぁ……。釣った魚だけじゃなくて、同棲している恋人にも、餌を与えて欲しいよ。

 そんなことを面と向かって言っても、たぶんお決まりの返しが待っているだけだ。そう——、「早く帰りなよ」って。

 だから、これは仕返しなのだ。

 今夜は頬っぺたに二回。身体を伸ばして、起こさないようにそっと意趣返し、————っと。

 満足したところで、ふかふかの枕に頭を埋める。そのとき——、


「うぅん」


 揺乃がこちらを向くように寝返りをうってきたので、背筋がきゅっとなる。そこにあったのは、ゆったりと曲線を描く二つの目と、緩んだ半開きの口元。別に目を覚ましたわけじゃなさそうだ。ひとまず胸を撫で下ろす。

 日に当たろうとしない彼女の、白百合のように透き通った肌が、薄ぼんやりと浮かび上がっている。最近また頬が丸くなってきたようで何よりだ。一人にしておくとすぐに食事をサボって、ガリガリの幽霊みたいになってしまうんだから。


 ——なんだかなぁ……。


 隣でそんなに無防備な寝顔を見せられたら、毒気を抜かれてしまう。そして目覚める頃には、この煮え切らない感情はすっかり吹っ飛んでいることだろう。例によって。


 明日は誕生日。そのために、彼女が観たがっていた芝居のチケットをこっそり取って、机の引き出しの奥に隠してあるのだ。

 遠足の前夜みたいな興奮を抱いたまま、目を閉じる。


『おやすみなさい』




   ***おしまい***

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