傷む前に

尾八原ジュージ

傷む前に

 その日の正午、自宅に帰ってきた僕は、隣の102号室の前に立っている太った男に出くわした。

「どうも、暑いですな」

 男はなれなれしく声をかけてきた。五十代くらいか、尊大で脂ぎった印象だ。顔は彫りが深く、痩せていればハンサムかもしれない。ラフなポロシャツ姿だが、高そうな靴を履いていた。

 僕は適当に「暑いですね」と答えた。

「写真なさるんですか。いいですなぁ」

 男は僕が提げているカメラバッグを見てでかい声でそう言いながら、102号室のチャイムを押した。

「さっきから出んなぁ! いや、困った」

 また僕の方を向く。「わたしも昔、ちっとやりましたよ。その頃はフィルムカメラでね」

「そうですか。僕はデジカメで……」

「フィルムもいいもんですよ! 現像は手間ですが」

 男はまたチャイムを押す。するとようやく102号室のドアが開いて、隣の奥さんが顔を出した。

「おー、ようやく出た」

「すみません、お待たせして」

 丁寧な言葉とは裏腹に、奥さんは憮然とした顔だ。色っぽい美人だが、白い額に険しい皺が寄っている。ふたりはどこか慌ただしく、102号室に姿を消した。

(訳あり臭いなぁ)

 脂ぎった中年男と美しい人妻。好奇心というかエロ心をそそる組み合わせだ。僕は悶々と考え事をしながら自分の家に入った。覗きはよくないよなぁ、などと思いながら手を洗って寝室に入り、102号室に隣り合っている壁の穴に頭を突っ込んだ。

 この穴は僕が突っ張りラックを倒して、たまたま開けてしまった穴だ。壁の素材が粗悪なものだったのだろうか、思った以上に大きな穴が開いてしまった。もちろん修理せねばとは思ったが、ここから時々、隣の寝室でいちゃつく声がハッキリ聞こえるものだから、悪いと思いつつそのままにしてある。もちろん、ここに穴があることは誰にも教えていない。

「どうするんだ、これ」

 かなりはっきりと声が聞こえた。男の声だが、さっきの親父ではない。隣のご主人の声だ。

 ご主人、今日は仕事じゃなかったのか。すると、さっきのおやじは奥さんと逢引きに来たのではなさそうだ。

「どうにかするのよ。やっちゃったものは」

 今度は奥さんの、聞いたことのないような刺々しい声だ。

「お前、来ていきなり殴ることないじゃないか」

「うるさい! 遅かれ早かれこうなってたに決まってるわ。話が通じる相手じゃないんだから。あたしは今日、ハナからこうするつもりだったの」

 そのとき、獣の唸るような声が聞こえた。

「生きてる! まだ生きてるよ!」

「さっさと押さえて! そっち! ぼさっとしない!」

 ドタンバタンと、床に手足を打ち付けて暴れるような音が続く。僕は息を詰め、身動きもせず、じっとその様子を聞いていた。両手の平に汗をかきながら、今僕が想像しているような事態ではありませんようにと願ったが、この願いは神様に届かなかった。

 僕はこの時、壁一枚隔てたところで人が死んでいくのをじっと聞いていたのだ。

 僕の顎から汗がポタポタと垂れ始め、そういえばエアコンを入れてないなと思い出した頃、隣から深いため息が聞こえた。

「死んだ? ちゃんと死んだ?」

 女の冷徹な声が続いた。

「ああ……」と、男の涙混じりの声が聞こえる。「死んだ。ああ、殺しちゃった。俺も人殺しになっちゃった」

「文句言わないで。元々あんたが作った借金でしょ。あたしが売られてくのを黙って見てるつもりだったの?」

 しばらく、鼻をすすり上げる声が続いた。どうしよう。とんでもないものを聞いてしまった。僕は動けなかった。何か物音を立てて、向こうの注意を引くのが怖かった。

 もし、僕が隣で起こったことを知っていると気付かれたら……考えるだけで恐ろしい。身長161センチ体重53キロ、ケンカも武道も経験のないヒョロガリオタクの僕では、隣のご夫婦と戦っても勝ち目がないだろう。あの太った男と一緒に、隣の寝室に冷凍マグロのように並べられるのがオチだ。

「いつまで泣いてんのよ。ガキじゃあるまいし」

 奥さんが吐き捨てるように言った。日頃の上品なイメージが、ガラガラと音を立てて崩れていく。

「だって……だって……」

 また鼻をすする音。ご主人のスマートなイメージも台無しだ。

「どうずんだよぉ」

「死体を始末するに決まってるでしょうが。この暑さじゃすぐに傷み始めるわ。物凄い臭いがして、こっそり処分するのが難しくなる」

「なんでそんな冷静なんだよぉ」

 ご主人はまだ泣いているようだ。僕もなんだか泣きたくなってきた。

「始末って……どうすんの?」

「とりあえず、お風呂に持っていきましょ」

「お風呂でどうすんのぉ」

「解体するに決まってるでしょ。どこに捨てるにせよ、丸ごとじゃ扱いにくいじゃない。大丈夫、できるわよ」

 奥さんはきっぱりと言い切った。「私が結婚前に働いてた創作和食ダイニング、肉屋の直営でね。鹿なんかも解体したものよ」

「そういうもんかな……」

「生き物だもの、大体おんなじでしょ。牛刀持ってくる」

 足音がひとつ、部屋を出ていった。今だ! 僕は壁の穴から頭を抜いた。忍び足で寝室を出て、リビングのソファに腰かけ、テレビを点けた。

『東京でオリンピックが開催されたのは1964年の10月。当時の日本は……』

 たまたま点けたチャンネルは、オリンピックの特集番組を放送していた。そういえば、予定通りなら今頃、東京五輪が開催されていたはずだったんだっけ。僕はぼんやりと画面を見ながらそう思った。

 次々と映し出される試合の数々は、まるで別次元での出来事に見えた。注目株のアスリートたちのインタビュー。胸躍る名場面の数々。選手たちの真剣な表情。躍動する肉体。歓声。笑顔。

 まるで内容が頭に入ってこない。

 気がつくと四時間以上が経過していた。夏休みが始まっているのだろうか、表から子供たちの明るい声がする。僕は一体何をしているんだろう……。

(そうだ、穴を塞がなきゃ)

 僕は大急ぎで立ち上がり、寝室に行った。壁の穴を塞ぐには何が必要なんだ?

 と、穴から声が漏れてくるのに気づいた。

「……何とかなるもんだな」

「私の言った通りでしょ。あとは小分けにして、ちょっとずつ捨てるのね」

「ばれないかな、近所の人とかに」

「そうね……特にお隣の人、気を付けた方がいいかも」

 心臓が口から飛び出しそうになった。

「あいつ、隣の人に色々話しかけてたからね。きっと、自分がこの部屋に来たことをアピールしてたのよ。万が一のときに、あたしたちの足を引っ張るつもりでね。もしも警察がこの辺に来たら、何か証言されるかも……」

 やばい。僕の心臓がやばい。僕は今すぐ隣に行って、玄関で土下座したい衝動にかられた。すみませんすみません警察なんかに通報しません。聞かれても何も言いません。さっきの男の人は僕に何も関係ない人だし、ぶっちゃけ嫌な奴だと思ったし……。

 だが、しなかった。そんな勇気はなかった。その代わり再び穴に頭を入れて、隣人の会話をがっつり聞くことにした。好奇心に負けたのだ。

「だから、あんまり荷物を運び出すところなんか、見られたくないわね」

「じゃあどうすんの?」

「死体のカサを減らすのよ。あたし、創作和食ダイニングの厨房で働いてたって言ったでしょ? もちろん、あんたにも手伝ってもらうから」

 なんだか頭がくらくらする。僕はそーっと頭を穴から出した。やっぱり、これ以上聞いていられない。心臓に悪すぎる。

 再びリビングに戻ってテレビを点けた。缶チューハイを冷蔵庫から出し、グビグビと飲む。締切の近い仕事があるが、とてもやる気にならない。

 過去のオリンピックを観ながら、僕は一連の出来事を忘れようとした。もしも今日のことを誰かに聞かれたらどうしよう。秘密を抱えきれなくなるかもしれないし、うっかり口が滑ってしまうかもしれない。警察にだったら正直に話して大丈夫かな? でも恨みを買うだろうな。もしも通報して、お隣さんが無事逮捕されたとしても、出所したら僕に復讐に来るかもしれない。特にあの奥さん……。

 いつの間にか日が傾いていた。そういえば洗濯物を干したままだ。僕はふらふらとベランダに向かった。

 窓を開けると、夕げのいい匂いが風に乗って漂ってくる。なんだろう、こってりとした脂の香りだ。豚の角煮か何かだろうか……。

 そのとき僕の頭に、不吉な予感が閃いた。

 僕は洗濯物をそのままにして、寝室に飛び込み、穴に頭を突っ込んだ。

「無理……ごめんなさい、ほんと無理です」

 旦那さんの泣き声が聞こえた。

「あのねぇ、誰の責任だと思ってんの?」

 奥さんのドスの利いた声が続く。

「元はと言えば、あんたの作った借金のせいでしょうが。あんな奴に金借りて、いざとなったら私に尻拭いさせようとしてさ。あんたの自業自得。はい、食べて」

「でも……」

「大丈夫! ちゃんとおいしくできたから。スペアリブなんかどう? 珍しい動物の肉だと思って食べてみてよ。カモシカとかさ」

「……」

「ほら、お口に入れてごらん? できるだけ食べちゃえば、捨てる量がかなり少なくなるんだから」

「すいません、すいません……」

 吐き気を感じて、僕は穴から慌てて頭を出した。トイレに駆け込み、便器を抱えて嘔吐すると、缶チューハイが約三本分出てきた。

 頭がくらくらした。エアコンを点け忘れたままの部屋は、むっとするような熱気に満ちている。まるで悪い夢を見ているようだ。僕はぼんやりと考えた。そうだ、きっとこれは夢に違いない……。

 そのとき、チャイムの音がした。

 理性の曇った僕は、習慣的にふらふらと玄関のドアを開けた。

「うっ」

 隣の奥さんが、にこにこしながら立っていた。

「突然すみません。実は珍しいお肉をたくさんもらったんですけど、食べきれなくって……傷むともったいないから、おすそわけに上がったんですけど」

「はぁ」

 僕の全身から脂汗が流れ始めた。

 奥さんの手には、大きめのタッパーが載っていた。

「カモシカですって。どうぞ」

 奥さんは蕩けるような笑みを浮かべて、僕に何かの肉の入ったタッパーを差し出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

傷む前に 尾八原ジュージ @zi-yon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ