9.反知性主義と「新しい能力」論

 これまで、能力という指標の脆さや、作られ続ける「新しい能力」論がいかに空虚か考えてきました。本動画が土台としてきた文献(中村2018)は、この「新しい能力」論を「反知性主義」と重なると指摘して締めています。

 聞きなれない言葉かもしれません。訳語ですし、「反」(アンチ)が付く前の知性主義(intellectualism・主知主義とも)が一般に馴染みない言葉ですからね。

 しかし、日本でも2015年頃から時折用いられる語となっています。そして、元の語(anti-intellectualism)が生まれたアメリカでもトランプ政権発足以後、言及が増えています。


 「反知性主義」でSNS検索すると、ちょっと気分は良くないと思います。誤用されているって声も多いです。

 国内では急速にそれっぽい用語として乱用される語(いわばバズワード)になってしまったため特に混乱していますが、原語「anti-intellectualism」でも少なからず蔑称として使われる傾向は見られます。

 この語自体が「耳なれない用語が自己批判と相互理解を意味するアメリカ社会の日常語となったのは1950年代」(Hofstadter 1963、田村訳2003 p.1)とされています。

 しかし、「反知性主義」という語が重要な社会の傾向を示しているのではないか、と多くの人が考えるからこそ(乱用でも)再び注目され用いられているわけです。


 人によってまちまちですが、「ポピュリズム」「ナショナリズム」の語と並列されたり、科学者軽視・専門家軽視や教養軽視の意味で使われたりしています。しかし、それらと全くの同義ではないからこそ、1つの語として使われる、と考えました。

 今回は原語である「anti-intellectualism」について、日本でも参照されるリチャード・ホフスタッター(1963)と、アメリカでよく引用されるアイザック・アシモフ(1980)を中心に解説します。また、最後に「新しい能力」論とのつながりを考えていきます。



1.「反知性主義」(anti-intellectualism)を考える前提・辞書の説明


 前提として、この語は学術用語として定まっているわけではありません。この語を広めた本として広く引用されるホフスタッター(1964)によると、


「反知性主義」(anti-intellectualism)とは、知性(intellect)と知識人(intellectual)、知的な生き方(the life of the mind)に対する憤りと疑惑、そのような生き方を極小化するような傾向(Hofstadter 1963 p.6-7、田村訳2003 p.6)


を意味します。


The common strain that binds together the attitudes and ideas which I call anti-intellectual is a resentment and suspicion of the life of the mind and of those who are considered to represent it; and a disposition constantly to minimize the value of the life.


(Hofstadter, Richard “Anti-intellectualism in American Life” p.7)


 ただし、ホフスタッター自身が、「反知性主義」は明快に定義されてこなかったし、そうすることに利点はない、と述べています。

 ざっくりと「知性?知識人?本当に正しいの?」というところでしょうか。

 その上、その反抗心をどう価値づけるかも人によって違います。これから紹介する2人も違いがあり、ホフスタッターは混乱を招く悪い面だけでなく対権力としての意義もある、と見ています。一方、アシモフは「無知のカルト」という強い言葉でバッサリ切り捨てています。

 主に社会への危惧を持つ人が警鐘を鳴らすために使うので、後者のように悪いものと捉える用法が多いように思います。


 2人の論に入る前に、“intellectualism”という語を押さえておきましょう。(これに“anti”がつくわけですからね。)

 アメリカとイギリス2つの辞書を引いてみましょう。(※ちなみに、両辞書には「anti-intellectualism」は見出し語としてありませんでした。)まずはアメリカのヘリテージ英英辞典(ホートンミフリン社)です。


1.知性の使用または応用

2.知性の使用または発展に精進すること


1.Exercise or application of the intellect.

2.Devotion to exercise or development of the intellect.

(The American Heritage Dictionary of the English Language, Fifth Edition “intellectualism”)


 これに対して、イギリスのオックスフォード英英辞典は少し違います。


感情よりも論理的な道筋で考えて物事を理解する能力を使うこと

 

the use of your ability to think in a logical way and understand things rather than of your emotions

(Oxford Advanced Learner's Dictionary, 10th edition “intellectualism”)


感情よりも、と対比されていますね。これは哲学等における議論を踏まえたものと思われます。知性を重視する主知主義(intellectualism)と、感情を重視する主情主義(emotionalism)の対比です。対比されるものを定義に加えているか、加えていないか、大きな差です。

※哲学の話が中心ではないので、主意主義(voluntarism)などの話は置いておきます…。

 極々単純化して考えると、感情的だ→知性を重視しない→反知性主義、という図式が出来上がります。甚だ素朴ではありますが、特に侮蔑としては「感情的」の言い換えになることも珍しくありません。


 また、そもそも「知性(intellect)」とは何か、という疑問もありますが、この話で先に進めなくなると困るので、ここでは再びヘリテージ英英辞典を引くに留めます。


1A 学び、推論する能力。知識と理解の容量。 B個人の思考・推論する能力

2 優れた知的能力を持つ人


1. a. The ability to learn and reason; the capacity for knowledge and understanding

b. A person's individual ability to think and reason

2 A person of great intellectual ability

(The American Heritage Dictionary of the English Language, Fifth Edition “intellect”)


 まあざっくり「考えること」ですね。そうした能力を持つ人を指すこともあるのはポイントかもしれません。カタカナの「インテリ」は直接的には、ロシア語で知識階級を指すインテリゲンチャ(英表記:intelligentsia)から来ていますが、結局元をたどれば同じラテン語(intelligō)です。

 この語(intellect)が知の能力そのものだけでなく「人」を指す性質を持つ、そして特別な階級のイメージを帯びてくる、これは知が権力構造に関わってきた人間社会において必然なのかもしれません。そして、このことは「反知性主義」が指すものの難しさにつながっていきます。


2.ホフスタッターの「反知性主義」― 反権力・反エリート ―


 リチャード・ホフスタッター(Richard Hofstadter 1916-1970)は米コロンビア大学の歴史学者です。今回参照する「アメリカの反知性主義(Anti-intellectualism in American Life)」は、知性や知識人の役割と社会運動について、アメリカの国家構造、その成立過程から考察した著書です。

 背景には50年代アメリカの政治状況があります。1952年アメリカ大統領選挙で、陸軍将軍の共和党愛是ンハワーが、エリート政治家の民主党アドレー・スティーブンソンに勝利したことが、「知識階級と民衆の間の断絶」と捉えられました。

 多くの知識人(intellectual)が支持したスティーブンソンの言葉より、それを長ったらしい(wordy)・思い上がった(pretentious)と称したアイゼンハワーのスローガン「I Like Ike」が大衆を引き付けたことは、知識人に衝撃を与えました。

 長ったらしい・思いあがったというのは、大衆が感じたことでもあったのでしょう。「インテリ」に対する人々の拒否感を、甘く見ていたのですね。

 また、この頃は、多くの政治家・学者・芸能人などが親共産主義として告発され糾弾される運動(マッカーシズム)の最中でした。

 隆盛した反知性主義ですが、57年ソ連の人工衛星打ち上げ成功「スプートニク・ショック」などもあり、知識人・知性への批判は収まっていきます。こうした波を受けて、ホフスタッターはこうした動きが、歴史上何度も繰り返されてきた構造的なものであることを論じていきます。

 「反知性主義」を自ら標榜した運動とかがあったわけではなく、あくまで、社会で生じる人々のある傾向といったところでしょうか。


 ホフスタッターは、アメリカでの反知性主義の源流を信仰復興運動(リバイバリズムrevivalism)に見ます。

 現在のアメリカの礎は、1600年代、イングランド国教会に異を唱えるピューリタン(清教徒)が海を渡り築きました。

 町の共同体は教会を中心としており、その一員に認められるには回心(conversion)して正式な信徒になる必要がありました。回心とは、成人して改めて自分の意志で罪を悔い改めて洗礼すること。つまり、親が信徒で生まれれば自動的ではなく、自覚的な信仰があって初めて正式な信徒になれるというものです。

 プロテスタントは「真の信仰はカトリック教会ではなく、聖書を理解することにある」と知性を重視していました。その中でも、本国のあり方に異を唱えて理想の社会を目指し、海を渡った人々ですから、高学歴者も多く教養重視でした。ハーバード、イェールといった現在も名門として知られる大学も初期から生まれます。

 しかし、信仰心に突き動かされ海を渡った人々に比べ、次の世代、その次の世代では当初の意志は薄れていきます。すると、回心したという自信がない、確信を得たいという人々が増えます。

 信仰への確信は薄れても、共同体に制度として確立されている分、信仰の必要性への認識は揺らいでいない点はポイントですね。


 そして、町の共同体の中心である教会という権威に対し、権威に認められていない「自称」宣教師「リバイバリスト」が登場します。

 1730~40年代頃、リバイバリストによる熱狂的な集会が支持を得ます。大学で神学教育を受けた協会の牧師は日曜礼拝で難解な説教をする、しかし野外集会を開くリバイバリストは、学などなくとも抜群に話術に長けている。そして、町全体の宗教心が急速に高揚します。こうした動きをリバイバリズム、あるいは大覚醒(Great Awakening)と言います。

 カリスマ性と集団の熱狂が、多くの人に信仰の自信となる心からの感動を与え、回心したいという人々の欲求に応えたのです。


 リバイバリズムは、学のあるなしに関わらない平等主義、教義より自身の素朴な道徳的感覚を重視するなどの考え方を、アメリカに根付かせました。

 その後、1820~30年代頃には第二次大覚醒、1860~70年代頃には第三次大覚醒と呼ばれる隆盛期が訪れました。第二次は監督制と巡回牧師制をとったメソジスト教会と各個教会主義をとったバプテスト教会が隆盛し、第三次はYMCA(キリスト教青年会)を中心に大資本による大規模集会が隆盛しました。時代で集会などのスタイルに違いはありますが、リバイバリズムの基本構造は変わっていません。回心を求め、カリスマ性に惹かれ、集団で熱狂する、ですね。

 その度に反知性主義的な考えが広まっていったとも、反知性主義的な土壌がそうした現象を繰り返したとも言えるでしょう。


 反知性主義は、ともすれば原因を決めつけて思考を停止してしまうこと、自分達の思想を純化して他を排斥すれば社会は良くなると信じてしまうことに陥る危険性を持ちます。

 現在は社会の「分断」という言葉がよく使われますが、執拗なまでに排他的になることは時代場所を問わずどんな社会でも起こり得ることです。


 一方で、反知性主義は必ずしも悪い影響ばかりもたらすものではないとされています。反知性主義は既存の権威(権力者や権威的な知)に対する反発や忌避です。これは権力支配や固定観念の打破にもつながります。

 例えば、リバイバリズムは宗教の自由の確立に大きく影響しました。当初共同体は教会が中心だったと述べたように、宗教と公共制度は密接な関係にあり、少数派の信仰者は公的な不利益を被り迫害を受けていました。しかし、1791年権利章典(合衆国憲法修正第1条)で宗教の自由が明記され、1830年代には全州で公定教会制度は廃止されました。

 信仰と権力が結びつくことが否定されたわけです。権力や常識への抵抗が、新しい制度や発見につながる面もあると言えます。


 なお、本書『アメリカの反知性主義』におけるホフスタッターの問は、「反知性主義にどう対応するか」ではなく、そうした傾向があることを受け入れた上で「知識人はどうあればよいか」にあります。結論の章タイトルは「知識人:疎外と体制順応」(The Intellectual:Alienation and Conformity)です。

 その中で、権力は専門家を要求に従うだけの技術者として使いがちであり、その時専門家はもはや知識人と言えるのかや、知性あるものが国の大使になっただけで(権力の道具になったため)知識人でなくなってしまうのかなど、知識人と権力との関係の難しさを述べています。

 そして、知識人共同体が二極化し、一方は権力のみに関心を持ち、一方は自らの純粋さのみを追求する、そして相互に反感を持つ勢力に分裂してしまうのが、社会にとって最悪の事態であることを述べています。

 簡単に答えが出るなら苦労しませんが、少なくとも極端な者しかいなくなったら機能しなくなる、ということは言えます。

 アメリカでは特に象徴的な運動の形で現れた反知性主義ですが、知を扱う以上どの社会でも考慮しなければならないことですね。



3.アシモフの「反知性主義」― 無知のカルト ―


 もう一方のアシモフの文章ですが、そもそもの条件の違いには注意です。ホフスタッター(1964)は400ページを超える本ですが、アシモフ(1980)は雑誌「ニューズウィーク」に掲載された1ページ(1000単語ほど)の論考です。

 しかし、ミステリーやSF作家としての知名度の高さや引用しやすさからか、アメリカでは一般レベルでの反知性主義の引用によく使われます。

 ちなみに「anti-intellectualism」でgoogle画像検索すると、アシモフの顔写真と引用文が並んだ画像が沢山出てきます(2020年3月現在)。一般的にはよく引き合いに出される例ということです。学術レベルではあまり見ませんが、anti-intellectualismの一般的な使われ方に迫る点と、主張がホフスタッターと対照的な点から、今回取り上げていきます。


 文章のタイトルは「無知のカルト」(A cult of ignorance)。カルト(cult)は特定のカリスマと信念を狂信する集団です。よく引用されるのはこの文です。


アメリカには無知のカルトがあり、常に存在しています。反知性主義の特徴は、民主主義は「私の無知はあなたの知識と同じくらい良い」を意味するという誤った考えによって育まれた、私たちの政治的・文化的生活を通ずる絶え間ない糸です。


There is a cult of ignorance in the United States, and there always has been. The strain of anti-intellectualism has been a constant thread winding its way through our political and cultural life, nurtured by the false notion that democracy means that "my ignorance is just as good as your knowledge.


 民主主義の名のもとに無知を正当化するという文化が巣くっている、と嘆いています。しかも、個々人だけの問題ではなく「カルト」と称している。


 この文が書かれたのは1980年で、ホフスタッターの頃とは社会背景に違いがあります。アシモフは「専門家を信じるな」(Don't trust the experts)は現在(執筆当時)のバズワードであり、10数年前は「30歳以上を信じるな」(Don’t trust anyone over 30)だったと述べます。

 1960年代後半は、既存の規範に囚われないカウンターカルチャー(Counterculture)が世界的に隆盛しました。その中で、「30歳以上を信じるな」が象徴的な言葉として流行しました。

 大人ダメと専門家ダメ、2つの流行は相手が替わっただけで、権威への反抗という意味では同じ、アシモフは2つを、権威を否定して無知を肯定する同種の現象に捉えたのですね。

 そして、能力や知識・学習を賞賛したり広めたりする人を指す「エリート主義者(elitist)」というバズワードも登場した、これはこれまでに発明された最も滑稽な(funniest)バズワードだ、と述べます。学習や知識を短絡的にエリートと罵るなという怒りが見えます。


 この文でアシモフが最も懸念しているのが、「知る権利」の有名無実化です。「“アメリカの知る権利”は誰も(情報を)読めないなら無意味なスローガンである」と述べ、そうなれば報道の意味は事実上ゼロになるだろう、と警鐘を鳴らします。


“America's right to know” is a meaningless slogan when hardly anyone can read.


 権利を意味のあるものにするには、相応の能力が必要だという考えです。

 また、平均的なアメリカ人は自分の名前を書いてスポーツの見出しを読むことができるが、何人が小さな活字の連続した語を読むことができるだろうか、とか、最近さらに状況は悪化しており、学校での読解力は着実に低下している、といったわりと典型的な学力低下批判も見られます。

 短絡的な批判にも思えますが、「反知性主義」という言葉と知的水準の低さへの嘆きは結びつきやすい、ということを表しています。


 最後に、無知が素晴らしいのか「エリート主義」を非難するのが理にかなっているのかを自問することから始まるかもしれない、私たちは全員、知的エリートのメンバーになれる、その時だけ『アメリカの知る権利』のようなフレーズや民主主義が意味を持つ、と述べています。

 「エリート」が指し示すものなど、エリートを批判する人たちとかなり断絶がある気がします。(もちろん、雑誌の性質などもあるでしょうが)


 総じて、この文では反知性主義について、ホフスタッターが述べたような肯定的側面は書かれず、民主主義・平等主義を履き違えた無知の礼賛と捉えていると言えるでしょう。



4.「反知性主義」と「新しい能力」論


 さて、ここまで見てきた反知性主義ですが、ここからは「新しい能力」論がどういった点で反知性主義の性質を持つのか考えていきます。(「新しい能力」って何、という話は第4章をご覧ください。)

 今回、大きく4つの特徴が「反知性主義」的だと考えました。それぞれは相互に関連していますが、1つ1つ見ていきましょう。


①反権力 学力テストという旧来の権威的な評価システムへの批判

②生き方そのものの否定 「エリート」的生き方への拒絶(学習の拒絶まで)

③学力やテストを絶対悪とみなしがち 旧来の能力評価システムを打ち破れば、教育や採用の問題が解決すると信じ続けられる

④素朴な感覚 全人的能力は“ありそう”“測れそう”


 1つ目は、反権力です。新しい能力は、学力テストでの成績で評価するという、旧来の権威的なシステムへの批判が前提にあります。

 テストでの評価法が主流であり続けるからこそ、「新しい能力」論は「新しく」あり続けられるという面がありました。「新しい能力」論にはテストの絶対性を否定し、見落とされている部分があることを示す意義もあります。しかし、「新しい能力」側の限界点を考慮せずに批判すればいい、批判しつづけることだけが存在意義になってしまっていることも、よくあります。


 2つ目は、生き方そのものの否定です。反知性主義は「エリート」的に見える生き方そのものを否定する傾向にあります。学力で評価することや評価されて上の立場に立った人間だけでなく、勉強やテストに向けて努力することや、データを出して論理的に説明すること自体への否定まで至ることがあります。

 これも「他の生き方もあるのでは」や「評価システムの支配が人々を縛りすぎてないか」とか、社会の監視や改善に機能する面もあります。しかし、行き過ぎると、アシモフの非難した無知の礼賛に陥る、といえるでしょう。


 3つ目は、学力やテストを絶対悪とみなしがちな点です。1つ目と通ずるものですが、旧来の能力評価システムを打ち破れば、教育や採用の問題が解決すると信じ続けている側面があります。

 しかし、実際にはどちらなら必ず良い社会になるというものではありません。能力という捉え方そのものに限界がある、という視点が必要です。


 4つ目は、素朴な感覚です。前の3つと視点がかなり変わります。反知性主義は権威的知性の批判と共に、自己の感覚を重視します。「新しい能力」論の全人的能力は、まさに感覚的に“ありそう”“測れそう”なものです。実際、人間は経験的に「人間性」や「コミュニケーション能力」が高いか低いかなどを判断している。それを可視化できるのではないか、可視化したいという思いはどうしても生じます。

 ただ、結局その判断はよく間違っている、というのが実際のところです。能力は状況依存であり、どんな場面でも通用するものにしようとすればするほど無理が生じるのでしたね。



5.おわりに


 「反知性主義」は特定の個人や集団を指す語として適切ではありませんが、社会で常に生じる可能性のある傾向を示す語としては意義があるかもしれません。

 素朴な感覚VS権威的な知性という対立が先鋭化することで、「どちらにも欠けている視点」が考えられなくなる、それぞれが立場と化し少数派を排斥しだす、何かを絶対だと妄信したり全てを諦めたりする事態に陥る危険は常にあります。

 「反知性主義」という言葉を通して、上に挙げた危険性を知ることには意義がありますが、「反知性主義」をレッテルとして使ってしまうとその危険性を増幅させてしまいます。

 本文章「能力とは何か」を通しての大切な点ですが、人間はそんなに単純には理解できないし、絶対にうまくいく社会システムはなく暫定的でしかありえないという現実を受け入れた上で考え続けていく必要があります。

 それは難しいからこそ、こうした傾向を利用して利益や人気を獲得する人も絶えません。それが対立を煽る方向に進むと、まずいことになります。

 知に対する捉え方は、信仰に匹敵する人生観・世界観と言えます。今まで積み重ねた知に間違いがある可能性も、自身の感覚にも間違いがある可能性も、どちらも受け入れにくいものです。

 能力評価システムも含めて社会制度(特に価値観に大きく関わる教育制度)を考える上では、自身の生き方や社会の進む方向性について確信を得たいという強い思いが人間にはあり、特定の方向を過信しやすいことを踏まえる必要がありますね。


 以上で、「能力とは何か」は完結となります。ここまでご覧いただきありがとうございました。


【第9章の参考文献】

◆Hofstadter, Richard “Anti-intellectualism in American Life” Alfred A. Knopf, 1963年(訳書:田村哲夫『アメリカの反知性主義』みすず書房、2003年)

◆Diane S. Claussen. “A Brief History of Anti-intellectualism in American Media” Academe, 97(3), pp.8-13, 2011年

◆Michael A. Peters “Anti-intellectualism is a virus” Educational Philosophy and Theory, 51(4), pp.357-363, 2019年

◆Isaac Asimov “A Cult of Ignorance” Newsweek(1980年1月21日)p. 19

◆Diana Lea, Jennifer Bradbery “Oxford Advanced Learner's Dictionary, 10th edition” Oxford University Press, 2020年

◆The Editors of the American Heritage Dictionaries “The American Heritage Dictionary of the English Language, Fifth Edition” Houghton Mifflin Harcourt Publishing Company, 2011年

◆『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』ブリタニカ・ジャパン、2014年

◆森本あんり『反知性主義: アメリカが生んだ「熱病」の正体』新潮社、2015年

◆矢部拓也「反知性主義としてのまちづくりと地方創生」『社会科学研究』32、pp.78-96、徳島大学総合科学部、2018年

◆君塚淳一・赤木大介・名越萌美・君塚貴久「抵抗と1960 年代アメリカ : 大衆文化と政治」『茨城大学教育学部紀要 人文・社会科学・芸術』66、pp.1-17、2017年

◆中村高康『暴走する能力主義 ――教育と現代社会の病理』ちくま新書、2018年


☆本文は、2020月3月に公開した自作動画「ゆかりアカデミー 能力とは何か⑨」の内容を文章化し、投稿したものです。

2020年3月 がくまるい

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能力とは何か:「コミュ力」と社会 がくまるい @gakumaru

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