8.能力不安の現代社会 ―批判されつつ使われ続ける学歴―
1.能力不安
前回、近代は伝統の絶対性が崩れた社会で、伝統に代わる仕組みや行動の理由である「能力」は権威を持ちながら疑いや検証にさらされ、修正や淘汰が繰り返されてきたことを述べました。
今回は前回を踏まえて、現代社会で人々が抱える自分の能力に対する不安、「能力不安」と学歴に焦点を当てます。
人々は「自分には能力がないんじゃないか」という問いを自らに発する状態になりがちです。こうした状態を中村(2018)は「能力不安」と称しています。
能力不安は、伝統的な身分では「自分の社会的位置の正当性」を示せなくなった、近代になり生じたものです。自分は社会に認められる能力があるのか気になる、能力が自分のアイデンティティになるのは近代だからこそです。
そして、かつて能力に関するアイデンティティの代表として機能していたのが学歴です。今や、学歴には能力不安を埋めるようなかつての社会的信頼がありません。一方で、学歴は使われ続けています。
近代から現代へ至る経緯を見て、能力不安が拡大する現代の構造を捉えていきましょう。
2.教育拡大と能力不安
かつて、学歴が能力についてのアイデンティティの代表であることができたのは、高等教育を受けられる人が限られていたためです。大学を出たということだけで希少価値があり、多くの他者より能力があると示せたのです。
しかし、高等教育の拡充に伴い、多くの人が高校そして大学に通えるようになります。このことを「高等教育の大衆化」と言います。多くの人が通えるようになって、通ったことの希少価値がなくなります。
それだけではありません。より多くの人が教育内容や上級学校での教育の実態を知ることになるのです。かつて遠い存在で批判しようがなかった高等教育を、(自己)批判可能な層が厚くなっていきます。すると、制度への批判や問い直しが高まります。雲の上の存在ではなくなり、大衆に現実的なものとなったのです。
社会での高等教育システムの普及は、段階的に進むと言われます(トロウ・モデル:Trow1973)。進学率15%未満の社会を「エリート」、15~50%を「マス」、50%以上を「ユニバーサル」段階と呼びます。大学進学がエリート層に限られている社会から、大衆(マス)が大学進学する社会に変化していきます。
日本では1960年代にマス段階を迎えました。学歴社会への批判が大きくなったのもこの頃とされています(苅谷1995)。教育の普及に伴う必然の流れ、ということですね。
学歴への批判は高まりますが、かつての学歴と同じ程度に社会的信頼を獲得できる能力指標は、現時点でも見つかっていません。そのため、学歴は使われ続けながら、人々は学歴があっても自分の能力への確証を得ることができない「能力不安」が蔓延する状況が生まれています。
代わりのアイデンティティとして、資格とか新しい能力とかは魅力的に思えるから飛びつく人も多い。でも、結局確証は得られず、不安は解消されないというのが現状です。
3.情報化と能力不安 ~相対化する機会の増加~
能力不安が拡大するのは「近代の徹底」の必然だということは、他の面からも言えます。ローカルからの切り離し、マスメディアやコンピュータの登場といった「情報化」も大きな要因です。
前回、前近代はその土地ごと(ローカル)の価値観が共同体を支配していましたが、近代はいつでもどこでも通用する(ことを目指す)価値観が生まれたことを学びました。
近代はローカルな社会で閉じることを許さず、全体と照らし合わせることが求められます。そして、情報化は全体と比較する頻度をより高めます。自身の能力についての認識も、情報が入る度に考えさせられることになります。
ローカルな社会の中、例えば学校では成績がよくても、全国模試という存在の登場で自分がいかに大したことがないか知る、というアイデンティティの揺らぎが起こります。井の中の蛙が大海を知って、大海の荒波にもまれていくのですね。
そして、比較を容易にするための指標が次々登場しました。例えば「偏差値」は、1960年代に大手塾が相次いでコンピュータを導入したことで普及します。社会全体における相対的な位置を示すことが、テストの度に可能となりました。相対的な位置を突き付けられる機会が増え、数字で優劣がはっきりついてそれが評価されてしまう機会が増えました。
それに、比較可能な指標があれば、自分の社会的承認に不安であればあるほど確認したくなる、周囲から要求されるだけでなく自分から求めて指標に囚われてしまう面もあるでしょう。
偏差値は、(一応)点数より正確に自分の相対的位置を示す生徒のアイデンティティとしてはもちろん、大学の偏差値ランキングなどによる在学者・卒業者のアイデンティティとしても機能していきます。
しかし、在学者・卒業者にとって「自分の通う大学の偏差値が高い」と言われることが自身の学歴の正当性を強化するとしても、能力不安を解消するには到底至りません。
「学歴」とともに「偏差値」そのものもやはり大きな批判の対象になっていきます。また、別のアイデンティティを揺るがす指標、例えば「世界大学ランキング」なども広く知られるようになっています。それにより、偏差値は高くても世界で見たら全然ダメ、なんて言われてしまうわけです。比較範囲がローカルから国を越え、グローバルな社会へも拡張しているのです。
しかし、世界大学ランキングと偏差値ランキングは全くの別ものです。偏差値に取って代わることができるものなのか、と疑問に思う方も多いでしょう。
重要な視点です。代わりにはならない、だからこそ共に使われる状況となります。そして、さらに重要な点はこれらの指標の信憑性や仕組みはあまり問われないことです。
「世界大学ランキング」にしても、英タイムズ社の「World University Rankings」、 英クアクアレリ・シモンズ社の「QS World University Rankings」、上海交通大学の「Academic Ranking of World Universities : ARWU」など多数あり、それぞれの理念や算出法は異なります。そうした背景はあまりみられることはなく、数字だけが強い影響力を持ちます。(順位なんて数値を見比べなくても、最初から序列を示してくれていますからね…。)
中村(2018)はこうした指標「それ自体が一つの専門家システムとして一般には信頼されており、私たちの日常を回していくのに機能してしまっている」(p.173)と指摘しています。
前回やったように、「専門家システム」はある程度の権威として機能しますが、結局暫定的でしかあり得ないのですね。
4.揺らぎながら使われる仕組み ~学歴と労働市場~
学歴が最も社会的に機能する場面は就職です。学歴は単なる誇りではなく、職業という身分と金銭獲得手段を保証する社会的信頼があるからこそ誇りになるわけです。
前回、近代の社会システムの大きな特徴の1つが、いつでもどこでも通用する「象徴的指標」だと扱いました、学歴は制度化され、価値が保存でき、広く通用するという貨幣の性質を持つ、でしたね。
かつては今よりも学歴が明確に機能していました。戦前は高等教育卒→社員、中等教育卒→準社員、初等教育卒→工員のように、学歴と企業身分は一対一対応でした。また、同じ高等教育卒でも出身学校によって賃金は異なりました(野村2007)。
学校での就業年数を「縦の学歴」、同じ段階での学校の違いを「横の学歴」といいますが、どちらによっても処遇の差が公然とありました。学歴が明確に身分を保証するから、進学が立身出世への道として明確であったのです。
しかし、大学進学者が増えると、希少価値は薄れ、学歴で決まる「道」も批判も高まります。進学率が上昇すると、学歴による公的な身分差・賃金差は縮小していきます。
もちろん、大卒者が増えても、名のある大学かどうかという「横の学歴」差は残ります。ですが、「縦の学歴」にせよ「横の学歴」にせよ、社会の学歴への批判は高まっていきます。
大学別賃金差を明示する企業は50年代にはほとんどなくなりましたが、70年代までは特定の学校に絞り求人を出す「指定校制度」が残りました(野村2007)。しかし、この指定校制度も機会不平等・学歴偏重という批判が高まり、80年代には「見かけ上は」自由な採用市場となりました。
「見かけ上は」というのが厄介なところです。
学歴は採用に使われ続けています。例えば、すでに80年代には盛んだったというOB・OG訪問、つまりお願いにきた後輩学生を採用するわけですが、有力大企業に先輩がいる大学は限定されます。過去の採用での学歴の偏りが、そのまま受け継がれるわけです。
また、エントリーシート時点での「事実上の」門前払い、就活サイトでは入力した学歴によっては募集が表示されない、など一般に「学歴フィルター」と呼ばれる状況も周知のものです。
重要なのは、露骨な学歴による選抜は「批判されることが前提の社会になった」ということです。OB・OG訪問もそれ自体は正規の採用場面ではなく、あくまで訪問という建前です。エントリーシートで弾く企業でも、募集要件に指定する大学名は明記していません。
中村(2018)は、(現在含め)「これからの学歴社会はつねに学歴批判を織り込んだ」「たいへんまどろっこしく、婉曲な学歴社会」しか当分は作れない(p.201)と論じています。学歴がないとダメなこともあるとみんな知っている。必要だと言われながら、しかし決して身分は保証しない。明示してないからこそ、気に食わない時は学歴を「使わない」選択も可能である。…不安は高まりますよね。
5.意義であり続けられる「新しい」能力
かつて支配的だった能力指標「学歴」について考えてきました。最後に、その批判として次々に生まれる「新しい能力」について考えてみましょう。
第4章で飽きるほど色々見ました。使い古された言葉を新しいかのように看板をかけ替えることが繰り返されていましたね。
批判の対象である旧来の能力指標は、批判されながら残り続けています。残り続けている、ということは批判もし続けられます。「新しい能力」は(中身は新しくなくとも)旧来の能力指標に対抗するものとして、いつまでも取り上げ続けることができるのです。
人々は確証を失った学歴など旧来の能力指標に代わるものを欲しているから、「新しい能力」論が歓迎され続けるのです。
しかし、諦めて旧来の能力指標だけを使えば解決、とはいきません。能力や学歴という近代のシステム自体が暫定的なものでしかあり得ず、疑いや検証にさらされるものです。
簡単に答えは出ません。しかし、この現実の構造を理解し向き合って空虚な議論や熱狂・煽りを少しでも減らしていくことは、現代社会にある過剰な不安を減らす、虚しい努力や争いを減らすことにつながると思います。(これは本講座「能力とは何か」全体の目的でもあります。)
「これからこんな能力もいるよ!今のままでは生きられないよ!」って能力不安を煽ることが、世の中ではびこっています。
商業的な煽りもありますが、個人としても「自分の社会的位置の正当性」、社会としても先の見通せない未来を生きる術、これらは不確実でどうしても不安です。明確なものにして安心したいという思いから、商業的な意図がなくても空虚な議論をしてしまう、本気で必要だと信じてしまう面もありますね。
能力不安を解消する特効薬はないと理解することは大切です。
さて、本講座では能力という人物の捉え方の社会的機能とその限界を述べてきました。今回で一通りの内容は終えたのですが、次回少し補足的な内容を扱って一区切りとしたいと思います。
(9.反知性主義と「新しい能力」論 につづく)
【第8章の参考文献】
◆中村高康『暴走する能力主義 ――教育と現代社会の病理』ちくま新書、2018年
◆Trow Martin “Problem in the Transition from Elite to Mass Higher Education” Carnegie Commission on Higher Education, 1973年
◆苅谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ ―学歴主義と平等神話の戦後史―』中央公論新社、1995年
◆渡部由紀「世界大学ランキングの動向と課題」『京都大学国際交流センター 論攷』2、pp.113-124、2012年
◆ニューフィールーズ・ティモシ、齋藤典子「偏差値の生みの親・桑田昭三氏へのインタービュー」『SHIKEN: JALT Testing & Evaluation SIG Newsletter』14 (2)pp.6-10、全国語学教育学会、2010年
◆野村正實『日本的雇用慣行 ―全体像構築の試み―』ミネルヴァ書房、2007年
◆新堀通也・加野芳正『教育社会学』玉川大学出版部、1987年
☆本文は、2019年12月に公開した自作動画「ゆかりアカデミー 能力とは何か⑧」の内容を加筆修正し、2020年3月に投稿したものです。
2020年3月 がくまるい
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