7.能力とポストモダン ~現代は近代の徹底~

 前回は「人の能力を測定し、能力により地位を決める」考え方が「近代」の特徴であることを述べました。

 今回は、現代はどうかという話です。結論から言うと、現代は近代をさらに徹底しています。しかし、世界大戦後や冷戦終結後の社会は、それ以前と違うように語られることが多いでしょう。

 今回はまず近代と現代を分ける考え方を、その後、近代の延長として現代を捉える考え方を述べていきます。


1.現代は「大きな物語の終焉」か(リオタールのポストモダン)


 1970年代~80年代に「ポストモダン」が盛んに議論されました。ポスト(次の)+モダン(近代)です。近代から時代が変わっているぞ、どんな時代が来てるんや、ってみんな考えた時期ということです。

 ポストモダンは「脱近代」とも訳されるように、近代の価値観、ひいては既存の権力に対する反発や不信の意味が強いです。それぞれの論者が反発するものによって「ポストモダン」の意味は異なります。なんでも言えちゃったパターンです。

 ですが、その中で、様々な分野で現在も「ポストモダン」の意味としてよく用いられる考えが示されました。フランスの哲学者リオタール(Jean-François Lyotard 1924-98)が示した「大きな物語の終焉」です。(1979年『ポスト・モダンの条件』)


 大きな物語(仏grands récits:英grand narrative)とは、近代における普遍的な価値・理念を指します。あらゆる思想と行動の根本という意味で「メタ物語」とも表現されます。社会を動かす価値観ということです。

 リオタールの挙げる「大きな物語」は、資本主義や社会主義といったイデオロギー、啓蒙主義などです。知識・制度・正義・歴史・文化など、全てはその社会の「大きな物語」に準拠します。最終的に人類全体がそれの達成によって救われることを約束する理念です。

 資本主義は「資本家の利潤追求による経済発展」、社会主義は「搾取からの解放・富の分配」ですね。冷戦期はどちらの立場も、突き詰めれば皆が豊かで幸せになれると謳って、それぞれの理想社会の実現を目指しました。


 啓蒙主義(仏 lumières:英enlightenment)は聞きなれないかもしれません。啓蒙主義とは、理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想で、人々を無知から正しい理性に導くことで皆が幸せになるという考え方です。元は17世紀イギリスに始まった、神など超自然的な偏見を取り払い、科学的な認識で人間本来の理性の自立を促すという革新的な運動でした。神の名を借りた支配体制や物の見方を転換しました。


※主に「従来の封建社会の中でのキリスト教的世界観」の否定であり、必ずしも「神の存在」そのものを否定するわけではありませんでした。


 ですが、啓蒙主義は「理性や科学についての知識を持たない無知蒙昧な人々を無知から解放する」ことを名目として、植民地支配の正当化に使われたことで、のちに批判を受けます。「古い間違った認識を持っている君たちに、私たちが科学という正しい認識を教えてあげよう」という傲慢さがあったのです。

 啓蒙主義の物語は、「(西洋の)科学は万能で、他の考えを放棄させ西洋的価値を教えれば全人類が幸福に」という物語です。リオタールは、このような大きな物語が信頼を持っていたのが近代、信頼を失った時代を現代としました。現代は、社会で広く信頼され目標や行動基準となっていた共通の価値観が失われた時代ということです。

 現代はようやく人々や社会の複雑さに目を向け始めた段階、どう折り合いをつけていくかは容易ではありません。


2.現代は近代の徹底(ギデンズ) 


 これに対して90年代に、現代を「ポストモダン」ではなく、近代の徹底(radicalized modernity)と捉えたのが、イギリスの社会学者ギデンズ(Anthony Giddens 1938-)です。

 現代は、近代の特徴をより突き詰めている、どういうことでしょうか。

 ギデンズは社会の決定的な違いは、近代と現代ではなく前近代と近代にあるとしました。ギデンズは前近代と近代の違いを伝統が支配するかどうかで捉えたのです。

 前近代は伝統(tradition)が支配する社会です。人々の行為も、社会の仕組みも、理由は「伝統だから」で事足りるのです。前回扱った前近代の血縁システムも、なぜその人がその地位に就くのかという理由は「伝統だから」であり、説明不要なのです。

 伝統社会では儀礼により、共同体の時間と空間に一定の形式が与えられます。道徳的な規範性を帯びた「なすべき」事柄が具体的に指示されます。そして、一定の形式が繰り返されます。

 人々はそれで納得していたのか今の感覚だと疑問に思うところですが、少なくとも共同体の一員に認められている人々にとっては、これをすれば認められると決まっています。伝統的価値観の中で生き、認められ続けることで、個人は安定した、そして伝統に根差したアイデンティティを獲得する、という構造です。「どうすれば認められるか」「何が正しいか」という不安は少ないのです。


 近代は、その伝統の絶対性が崩れた時代です。仕組みや行動の理由は「伝統」では済まず、合理的な説明が必要になります。なぜその人がその地位に就くのかにも理由が必要で、その理由が「能力」となっているのです。

 ただ、その「能力」という理由が脆いものであることはは今までやってきた通りです…。

 人々は社会の仕組みを変えることが可能になった一方で、「どうすれば認められるか」「何が正しいか」わからないという不安が顕著になりました。


 また、近代の特徴は「ローカル(な文脈)からの切り離し」です。前近代はその土地ごとの価値観が共同体を支配していました。近代は、いつでもどこでも共有される、通用する(ことを目指す)価値観や物が生まれます。資本主義や社会主義といったイデオロギー、それに伴う社会・経済の制度はまさに「いつでもどこでも通用する」ことを目指したものです。「人権」という価値観もそう言えるでしょう。


 近代の社会システムは、時間と場所のローカルな縛りを越える「抽象的システム(abstract system)」です。大きく2つの要素があります。

 1つが象徴的通標(symbolic token)です。時間や場所を問わず、あらゆるものの交換の媒介になり広範囲に流通するもの、つまり貨幣(coin)です。

 もちろん、貨幣は古代からありますが、近代以前の貨幣が持つ意味は、近代ほど大きくありません。貨幣は存在しても基本的には共同体内の自給自足が主で、交易も限定的でした。しかし、近代は人々の活動領域の広がりや分業体制の確立などにより、貨幣の重要性は格段に高まりました。共同体の外にいる全く知らない人と物やサービスの売買をすることになり、その上で、貨幣は欠かせないものとなったわけです。

 また、ギデンズは直接論じていませんが、アメリカの社会学者コリンズ(Randall Collins 1941-)は、学歴(educational credentials)を貨幣の性質を持つものと捉えました。

 学歴は、特定の職場・仕事という個別具体的な場と切り離され、広く通用する抽象的な能力を示す指標として機能しています。学歴は使えば失うものではないですが、制度化され、価値が保存でき広く認められている、という点では貨幣の性質を持つのですね。


 もう1つの要素が専門家システム(expert system)です。人々から独立した専門家の知識・技術体系が認められ、保証されます。例えば、家の近くにいるかかりつけの医師でなくても、医師という専門家であることを信用して、家から離れた病院にも行けます。

 共同体の中になくても、相手がどんな人かわからなくても、専門家であることが物事を頼む判断基準になります。医療だけでなく建築や運輸、金融など、あらゆる仕事について言えます。

 専門家システムが機能するように、資格や営業許可など公的な制度設計もなされます。また、教育制度も重要な役割を果たします。教育制度で専門家の育成が制度化され、専門家システムを支えるのです。

 しかし、全員が信用できる人ではありません。怪しそうな人は疑われます。専門家が前近代の伝統の守護者(聖職者や長老など)と違うのは、疑いや検証にさらされ、修正や淘汰が繰り返されてきた点です。

 このシステムも様々な専門的知識の発展をもたらす一方で、絶対的な正しさのない不安ももたらすのです。


 どちらの抽象的システムも、新たな情報や知識に照らして絶えず修正を受けます。指標や制度は変えられる、ということは、それが暫定的であり「そうでなくてもよかった可能性」が常に内包されることになります(中村2018 p.162)。

 こうした抽象的システムが、システム自体への疑問や批判を生み、問い直されるという性質を「再帰性(reflexivity)」と呼びます。


 さて、以上がギデンズの言う近代の特徴です。現代、ローカルからの切り離しは国家を超えグローバルです。貨幣で交換できるサービスはさらに増え、国を超えた「通貨」も生まれました。専門家システムは、一般の人々もあらゆる分野の専門家(の情報)にアクセス可能になりました。近代の徹底は、ギデンズが論じた90年代よりさらに深まっているといえるでしょう。情報を得ることが容易になり、制度への疑問や批判もさらに増えています。

 注意すべきは、修正や淘汰されることで新しく作られるシステムが、必ずしも改善されたものとは限らない点です。

 能力論も同じような内容が繰り替えされてきたことは、第4回で扱いました。能力で人を評価するシステムは、ローカルと切り離し広く通用する、しかしそのシステムはいつまでも暫定的で修正を繰り返す、近代の抽象的システムの典型なのです。


3.おわりに


 「大きな物語の終焉」と「近代の徹底」という2つの現代の捉え方は、最大の転換点を近代→現代とみるか、前近代→近代とみるかという大きな違いがあります。ですが、どちらが正しいではなく、現代を捉える上でどちらの見方も重要だと思います。

ただ、能力という社会システムを考える上では、「近代の徹底」という見方がより重要になってきます。

 第5回ではいかに能力を示す・測ることが難しく、暫定的に過ぎないか扱いましたが、より「貨幣」のように交換や比較を簡単にするには、できる限り測定し、数値で示そうとします。

 しかし、第3回ではコミュ力を扱ったように、個別具体的な場と切り離すことが難しいのが能力です。ですから、システムに無理が生じてきます。批判にさらされ修正すれど、うまくいかないを繰り返しているということです。

 社会のシステムは個人の価値観として浸透します。近代の特徴を理解し、能力というシステム、そして能力で人を判断する価値観を冷静に捉える必要があるでしょう。


(8.能力不安の現代社会 ―批判されつつ使われ続ける学歴― につづく)


【第7章の参考文献】

◆萩原優騎「アンソニー・ギデンズの「再帰性」概念について」『社会科学ジャーナル』66、pp.51-69、国際基督教大学、2008年

◆長光大志「アンソニー・ギデンズの近代社会論」『佛大社会学』28、pp.1-13、佛教大学社会学研究会、2004年

◆石毛弓「リオタールの大きな物語と小さな物語 ― 概念の定義とその発展の可能性について」『竜谷哲学論集』21、pp.53-76、2007年

◆井野瀬久美惠「「大きな物語」の終焉と科学 ―歴史学における地殻変動から考える」『学術の動向』23(3)、pp.101-107、2018年

◆中村高康『暴走する能力主義 ――教育と現代社会の病理』ちくま新書、2018年

◆Lyotard, Jean-François “La condition postmoderne: rapport sur le savoir”1979年(訳書、小林康夫『ポスト・モダンの条件 ― 知・社会・言語ゲーム』水声社、1986年)

◆Giddens, Anthony “The Consequences of Modernity”1990年(訳書、松尾精文・小幡正敏『近代とはいかなる時代か? ―モダニティの帰結―』而立書房、1993年)

◆Collins, R “The Credential Society: An Histrical Sociology of Education and Stratification”1979年(訳書、大野雅敏・波平勇夫『資格社会』東信堂、1984年)


☆本文は、2019年11月に公開した自作動画「ゆかりアカデミー 能力とは何か⑦」の内容を加筆修正し、2020年3月に投稿したものです。

2020年3月 がくまるい

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