鴇六連先生★スペシャルショートストーリー
鴇 六連/角川ルビー文庫
鳥籠の悪夢は陽光に消え
「ハッ……、ハッ……――」
濃厚な湿気が澱む部屋に自身の荒い呼吸が響く。
細長い窓から入ってくるのは水気を多く含んだ夜風ばかりだった。
鶂妃は腕立てや懸垂を夜すがらつづける。酷い湿気のせいで肌は一度濡れると簡単には乾かない。大量の汗が、十二歳のものとは思えない硬い腕や胸板を流れ、汗雫が顎からしたたり落ちては絨毯に吸い込まれていく。
誰にも知られず鍛練できるのもあとわずかだろう。鶂妃が十六、七になるのを、丹天老君たちが悠長に待つはずがない。おそらく近いうちに閨房へ呼ぶ。
彼奴等よりも早く行動を起こす必要があった。
・◇・・・
――ははうえ、どこ? ははうえ……。
温かくて柔らかな母鳥に触れたい一心で朱い殻を割ったというのに。白金色の翼羽を持って孵化した鳳凰の雛は、「さぞや美しい妃となるだろう」と嗤う朱真鳳凰たちに〝鶂妃〟と名づけられ、暗く冷たいこの部屋へ運ばれた。
――こわい……。さむいよ……。
母鳥がたまらなく恋しくて、ピイッ! ピイッ! と力の限り鳴き立てていると、小さな声がした。
「鳴かないで。こっち、窓のほうに近づける?」
――ははうえっ?
鶂妃が閉じ込められている部屋と隣室を隔てる壁の上部に鉄格子の嵌まった小窓があり、声はそこから聞こえた。飛べない鶂妃は翼をばたばたと動かし、壁をよじ登ってはずり落ちることを繰り返しながら必死で窓枠に乗り上げる。
「あっ……登ってきたの? すごい、よく頑張ったね」
嬉しそうに微笑んで格子から人差し指を伸ばしてくるのは母鳥ではなかった。
鶂妃のふわふわの額を撫でる指も、頬やまつげも、髪も羽も真っ白で、瞳だけが青い雄の鳳凰だった。歳は十代後半だろうか、とても綺麗な彼はひどく痩せている。
「白金の羽毛と赤い瞳……なんて美しい雛なんだろう。――怖いし寂しいけれど鳴きすぎてはだめだよ、すぐ弱ってしまうからね。寂しくても眠って、食事をとって力をつけて、どうか強くなって……自力でここを出られるくらいに」
――ここはどこ? どうしたら、でられるの? ぼく、ははうえにあいたい。
そう言ったはずが、「ピッ、ピィッ」という鳴き声しか出なかった。
「離宮なんかで死んではいけないよ。いつか自分の翼でここを飛び立って。誰も成し遂げたことがないけれど、孵化したばかりでこの壁を登ってこられた其方ならきっとできる。……伝えられてよかった。私は明日には連れて行かれるから」
――つれていかれるって、どこいくの? すぐもどってくる? またなでてくれる?
ふたたび鳴き声だけが出る。なにも伝えられないが、白鳳凰は撫でるのをやめずにいてくれた。母鳥に会えないことが悲しすぎて、嘆き疲れた鶂妃は、白鳳凰の指先の優しさを感じながらまぶたを閉じた。
朝が来て目を覚ますと隣室に白鳳凰の姿はなかった。
離宮と呼ばれるこの場所は湿気が酷く、暗くて恐ろしい。雛鳥たちの悲しげな鳴き声が聞こえてくる。鶂妃と同じように閉じ込められているのだろうか。
『怖いし寂しいけど鳴きすぎてはだめだよ、すぐ弱ってしまうからね』――夜が来るたび鶂妃も鳴きたくなったが、白鳳凰の言葉を思い出し、母親を求める雛鳥たちの鳴き声に引きずられそうになるのを必死に堪えた。
怯え嘆きながら白鳳凰の帰りをひたすら待ちつづけて一年が過ぎ、鶂妃は、美しい彼が二度と戻ってこないことをようやく悟る。
このとき、怒りという感情が生まれて初めて心に芽生えた。
夜通し鳴いて明け方に息絶える雛、悲痛な声を残していなくなる十代の鳳凰たち、世話係が淡々と語る朱真鳳凰と色の異なる鳳凰との関係、離宮に幽閉されている理由、自身に付けられた名の意味――状況を把握するほどに、怯えが怒りへ変わっていく。
鶂妃が離宮へ運ばれたあの宵、白鳳凰はどれほどの恐怖と絶望に苛まれていただろう。それでも鶂妃の羽毛を撫でつづけてくれた、彼の優しさと強さを思い起こした。
――こんなところで死んでたまるもんか。
鶂妃は白鳳凰の言葉のひとつひとつを心に刻む。離宮などでは絶対に死なない、体力をつけて強くなり、自力で離宮を脱してみせる。
そして必ず名を変えると決めた。
四歳で人の姿を得ると、莫迦みたいに豪奢な衣服を着せられた。幼児の身体に重く伸しかかり、駆ける自由すら奪う御子衣裳は枷そのものだった。
部屋の外へ出られるようになっても、陽の差さない庭でじっとしている雛鳥たちの瞳は虚ろで、言葉を交わせる者はほとんどいない。ありふれたものでいい、誰かと会話してみたい鶂妃は初めて自分から世話係に声をかけた。
「母上にお会いしたい。母上は今どこにおられる?」
「鶂妃さまの卵を産んだ水鳥は死にました」
雛鳥に情を移さないよう洗脳されている世話係は形相をいっさい変えず言い、幼い心は簡単に傷ついた。
癒す手立てがわからない鶂妃は、深く抉られた心を抱えたまま、薄暗い庭を眺めて過ごすようになる。そしてある日ふと気づいた。離宮と庭に、朱真鳳凰たちの力で作られた格子状の覆いがかけられていることに。
目を凝らさなければ見えない、だがたしかに格子状の覆いがある。まるで巨大な鳥籠のようだった。飛翔が可能な十代なかばの鳳凰がなぜ逃げ出さないのか不思議に思っていたが、彼らは逃げ出せないのだ。離宮が常に暗く湿気が澱んでいるのは、鳥籠を形づくる朱真鳳凰たちの力が日輪の熱と光を遮断するまでに強大なせいだろう。
「飛べるようになっても僕は外に出られないのか。誰かを逃がしてやることもできない……」
絶望的なそれを、独り言ちた。
色の異なる鳳凰は朱真鳳凰の駒であり、誰もが慰み者になり得る――精神と本能に刻み込まれた慣習が、重い御子衣裳が、そして巨大な鳥籠が、雛鳥から逃げる気力を奪う。皆、失意と寂しさに呑み込まれて衰弱していく。
だが鶂妃は呑み込まれるわけにはいかなかった。雛たちの最期のひと鳴きに苛まれ、どれほど心が傷ついても怒りによって己を奮い立たせる。
衰弱死がつづいたからだろうか、新たな雛鳥は来なくなり、十代の鳳凰が姿を消し、やがて鶂妃だけになった。
がらんどうの離宮は昼も夜も耳鳴りがするほど静かで、しかし鶂妃は強烈な孤独に心地よさを覚える。自分より幼い雛鳥を撫でてやることもできず、その死をそばで感じるくらいなら、孤独のほうがずっといい。
毎年訪れる約二十日間の冬は恐怖を感じるまでに厳しいものだった。鳳凰も禽鳥も冬眠するらしいが、鶂妃は長く眠ったら二度と目覚められないような気がして、恐ろしくて冬眠できなかった。越冬用の仙果を早々に食べきってしまっても、世話係が眠っているため追加は求められない。
無駄に広い部屋は凍てつくばかりだった。鶂妃は蒲団にくるまり、母親を偲んで、いつの日か掲げる新しい名を考えながら飢えと寒さを凌ぐ。
「僕の母上が水鳥なら〝鶂〟の字だけは大切に持って生きていこう。うん、とても素晴らしいことを思いついた! 今日は最高の日だ! ……母上――」
劣悪な環境のせいで成長は遅く、肌は不気味なほど蒼白い。誰もいない庭を無言で歩き、独りで食事をとって眠る暮らしを約二年間つづけ、鶂妃が七歳になった春。ふたたび鳳凰の雛たちが離宮へ運び込まれるようになった。
そうして出会った、ひとりの幼児の額に蓮花印がないことに驚く。
でも、ふたつ年下の彼は鶂妃に似ていた。同じ父親の可能性を思わせるほどに。
「やあ、僕らどことなく似ているね。きみは驚くくらい小さいけど」
瞳をぱちぱちさせる幼児に微笑みかけた鶂妃は、ほんのわずか緊張し――初めて秘密の名を声に出して言った。
「僕の名前は、――ゲイキ。きみは?」
「玻璃っていうの。ねえ、げいき、ここはどこ?」
可愛らしい唇からその名がこぼれ落ちた瞬間、ぞくぞくと総毛立ち、五色の羽が膨らんだ。
鶂妃など仮初めの名に過ぎず、〝ゲイキ〟こそが正しい。真の名で呼ばれることがこんなにも気持ちいいものとは思いもしなかった。
鶂妃には固い意志があるが、生き延びることで精一杯でまだなにも行動に移せていない。
今日から始める。そして必ずここを出て、ゲイキになるんだ――鶂妃は激しい高揚を抑え、玻璃の問いに答えた。
「この離宮は鳳凰たちの慰み者を育てる、言うなれば豪華な飼育小屋さ」
「しいくごや? なぐさみもの? って、なあに?」
「雄の鳳凰に寄って集って弄ばれる、綺麗で憐れな小鳥のことをそう呼ぶんだよ」
言葉の意味はわからなくても不穏なものを感じたようで、玻璃が鶂妃の御子衣裳をぎゅっと握ってくる。
「怖いだろう? だから玻璃はここにいちゃいけない。僕もそんなのまっぴら御免だ」
「わたし、どうしたらいいの……?」
短い眉をひそめる玻璃を見つめ、鶂妃は考える。
この仔を自分の手で離宮から脱出させること、それを丹天老君たちへの反撃の烽火とする。玻璃を上手く逃がせたらきっと、否、必ず、夜ごと思い描いている計画も成し遂げられるはずだ。反対に、一羽の雛鳥さえ救えないのなら、鶂妃は丹天老君たちが待つ閨房への道を歩くことになるだろう。
今にも泣きそうな玻璃は鶂妃の御子衣裳が皺くちゃになるほど強く握りしめている。鶂妃は小さな拳をほどかせ、手をつないで言った。
「僕が玻璃をここから出してやる。だから僕の言う通りにするんだ」
「げいきの言うとおりにする……」
「いい仔だね。寂しいけど鳴いてはいけないよ、すぐ弱って死んでしまうから。寂しくても眠って、世話係が持ってくる食事を残さずとって体力をつけるんだ。玻璃は衰弱さえしなければいい、あとは僕がやる」
「ウン……」
玻璃は鶂妃の隣室に――かつて白鳳凰が過ごしていた部屋に入れられた。
彼は聡く、芯の強い仔だった。鉄格子の嵌まった小窓に向かって「もうおなかいっぱいだよ」と訴えてくる玻璃に「だめだ、全部食べろ」ときつく言うと、しょんぼりしながらも長い時間をかけて仙果を食べきる。「鳥だと鳴いちゃうから。げいきにしかられるから」と言って、幼児の姿で寝床に入る。ほかの雛たちが鳴き立てる中、「母上……」と静かにつぶやき、ぐす、と洟を啜って眠った。
鶂妃は玻璃の寝息を確認したあと鍛練を始める。
朱真鳳凰の力で作られた覆いは格子の目が細かく、鳳凰の雛は抜けられない。しかし小鳥の玻璃なら抜けられる。誰にも気づかれぬほど速く、そしてより遠くまで放るための腕力が必要だった。
「はっ、はあ……っ。くそ……」
慣れない動きにすぐ息切れがして腕も脚も痛くなるが、鶂妃は鍛練をつづけた。昼は玻璃を背負って庭を走る。世話係の目には雛鳥が戯れているようにしか映らないだろう。
玻璃が離宮に来て三か月が経ったころ、遠く離れた場所に立つ白木蓮の枝に一羽の鶯が止まるようになった。彼女は玻璃の母堂だ。玻璃は時折あらわれる母鳥を一心に見つめ、鶂妃は巨大な鳥籠を睨みつけて考える。
――自分の身より大きな卵を産んだなら身体に相当な負担がかかってる。たぶん長くは持たない……。
そうなる前になんとしても玻璃を母堂のもとへ帰したかった。
陽が落ちれば冷たい夜気と湿った瘴霧が纏わりついてくる。体躯の発達を阻むかのようなそれを撥ねのけて、夜ごと身体を鍛えた。
鶂妃の言いつけを守る玻璃が衰弱することなく七歳になり、鍛練に慣れた鶂妃が九歳になった春の盛り――。相変わらず肌は蒼白くて腕も細いが、触れると硬く、筋肉が付いているのがわかる。あとは玻璃をいつ投げるかだけだった。
今日でも明日でもいい、そう思ったとき、白木蓮の枝にいる鶯が倒れたように見えて、鶂妃はひどく焦って袖を捲った。
「今しかない、玻璃は離宮から出ろ。僕が母堂のところまで投げてやる」
「えっ、どうして? 出て行くならげいきも一緒じゃないといやだ」
「僕は残る。ここにいたほうが都合がいいんだ。――なに、あと一、二年もすれば僕の名が瑞郷天じゅうに知れ渡る。玻璃の耳にも届くよ」
「いやだ、まってよ、げいきっ」
「捕まるなよ。なにがあっても戻ってきちゃだめだぞ」
鶂妃は鶯色の小鳥を片手で包み、にっこり笑う。
朱真鳳凰たちが作った巨大な鳥籠の、格子の隙間を狙い澄まし、玻璃を放り投げた。
「げいき! ……わぁーっ!」
思いもよらない強い力が出たことに鶂妃自身が驚く。小さな小さな玻璃は流星のように長い弧を描き、幾重にも連なる瓦屋根や朱色の大楼門までも飛び越えて、母親が止まっている白木蓮の枝にぽとりと落ちた。
「――はは、……」
その瞬間、抑えようのない笑いが込み上げてきた。
玻璃は間に合っただろうか、母堂の温もりに触れられただろうか。見届けたいのに景色がぼやけていく。
「ははっ……あははは!」
大いなる歓喜と激しい怒りが綯い交ぜになり、涙があふれてくる。落涙を堪えるために鶂妃は声高に笑った。
「やった……やってやったぞ、っ……! ざまあみろ!」
一羽の鳥がついに離宮から脱した! 朱真鳳凰どもの思い通りになどなるものか!
僕の手で下卑た慣習を断ち切ってやる! そしてこの忌々しい鳥籠を跡形もなく破壊するんだ――。
それからの鶂妃は取り憑かれたように鍛練を重ねた。
玻璃が行方不明になったことに激怒した朱真鳳凰たちは数羽の雛鳥を離宮へ運び込む。世話係は全員が断罪されて後任者があらわれ、離宮はいつになく騒がしかったが、世話係に微塵の関心もない鶂妃は鍛練に没頭した。
一年も経たないうちに目に見えて胸板が厚くなり、腕が太くなる。身長も急激に伸びた。このままでは世話係が「体躯の異様な発達」と丹天老君たちに報告し、鍛えていることが知られてしまう。
鶂妃は、半年前まで見上げていた世話係を見おろして言った。
「今後は自分で着替える」
「鶂妃さまのお召し替えはわたくしたちが行います」
「常に美しく着付けるようにと、朱真鳳凰さまの御命令がございます」
朱真鳳凰の洗脳を受けている彼らが型通りの返事しかしないことはわかっていた。鶂妃はあらかじめ考えておいた台詞を淀みなく口にする。
「性器が勃起するようになってね。これはきみらが見ていいものじゃない。朱真鳳凰さまだけがご覧になるものだろう?」
股座へ手を滑らせて下衣越しに膨らみを目立たせ、微笑と流し目を向けると、いつもは無表情な世話係たちが揃って頬を真っ赤にした。
――手緩いな。
鶂妃はこのとき、自身の笑顔で他者を籠絡できることを知った。それも、至極容易に。
噴き出しそうになるのを堪え、まだ恥じらっている世話係にもう一度微笑みを与えてやり、重ねて言う。
「今後、着付けはいっさい不要だ。自分で着替える」
莫迦みたいに豪奢な衣服が筋肉の付いた身体を隠してくれる。枷以外のなにものでもなかった御子衣裳が初めて役に立った。鍛えていることは秘匿し果せたが、生殖行為が適う肉体になったことは必ず丹天老君たちの耳に入り、閨房へ呼ばれるのが数年早まるだろう。
彼奴等よりも先に行動を起こさなければならない。
眠る時間すら惜しかった。鶂妃は鍛練を夜すがらつづける。
今夜もまた、ピ――ィ……、ピ――ィ……と、母親を求める雛鳥たちの鳴き声が湿気の淀む離宮に延々と響く。
――鳴くな。頼む、鳴かないでくれ……。
今の鶂妃ならきっと、部屋の扉を壊し、すべての雛鳥を連れて逃げられる。しかしそれは救ったことにならない。鶂妃に雛を守り育てるまでの力はなく、空になった離宮に新たな雛たちが運び込まれるだけだった。離宮そのものを破壊しなければ意味がないのだ。
少年の身がひどく歯痒かった。早く青年になって力を得たい。丹天老君を中央の玉座から引きずりおろすための、揺るぎない力を――。
雛鳥の最期のひと鳴きに苛まれ、また独りきりになり、新たに運び込まれた雛鳥の悲痛な鳴き声を聞くことを繰り返して、鶂妃は十二歳になった。
丹天老君との対面が叶う日の明け方にも一羽の雛が息絶えた。鶂妃は憤りを覚えながら御子衣裳を身につけていく。これが最後だ、もう二度と着ないと決めて錦の帯を縛る。
離宮の一角に設えられた謁見の間に丹天老君が姿をあらわした。鶂妃は跪き、頭を深く下げる。
「丹天老君さまにお願い申し上げます。どうか一度だけ軍場へ行かせてください。非力ですが僕は鳳凰です、縄張り争いの最前線を見ておきたいのです。どうか……」
丹天老君はしばらく口を開かず、沈黙が漂う。
やがて聞こえてきた「よいだろう」という返事に、はっと顔を上げると、眼前に皺の刻まれた手があった。嗤う丹天老君が人差し指を立てる。
「一日で軍功を挙げてみせよ。できなければ速やかに瑞郷天へ戻って沐浴し、閨房へ参れ。わかっているだろうが下帯は不要だ。手始めに余がおまえを貫く。余の生殖器で鶂妃の孔を丹念に拡張したのち、朱真鳳凰らに与えるとしよう」
鶂妃は、せり上がってくる胃液を呑み込んで辞儀した。
丹天老君が手配した八羽の護衛鳥に囲まれて軍場へ向かう。
十二年ものあいだ幽閉されていた離宮を出たことも、初めて見る瑞郷天の幻想的な風景も、青空を飛翔したことにも感慨はない。今日のわずか数時間の行動によって、自分自身と、この先数多と生まれてくる美しい鳳凰の雛鳥の運命が大きく変わる。脳内にあるのは武将麒麟を殺して軍功を挙げること、それのみだった。
――なん、だ……?
煙が立ち上る戦線を目にした途端、どくんと心臓が跳ね、血が湧き立つ。
戸惑ったのは一瞬だけだった。鳳凰や猛禽が持つ戦闘の本能が覚醒したと気づく。考えるより先に身体が動いた。敵方から弓と矢筒を奪い、大勢の軍鳥と兵獣が入り乱れる中へ飛び込んでいく。
「鶂妃さま、危のうございます! 我々が盾になりますゆえ――」
「黙れ! 二度とその名で呼ぶな! 呼ぶなら殺す!」
「なっ……!?」
慄く護衛鳥たちを振り切る。殺傷することに微塵の躊躇もなく、矢を次々と放った。自分には弓術の才があるのだろうか。駆ける碧馬や跳躍する白鹿が止まって見え、おもしろいほどよく当たる。
敵方から放たれた矢が風切り羽の先を通り抜けても恐怖はない。血は滾りきり、滅茶苦茶に興奮していた。四頭の武将麒麟を立てつづけに射殺す。敵方も味方も激しくざわめく。
「なんだあの白金色の鳳凰は!?」
「見たことない御方だ、初陣か? なんという美しさだ……!」
「なぜ鎧を着てない? 誰かっ、鳳凰さまに鎧を!」
高い岩の天辺に降り立ちながら人の姿に変容する。脱いだ御子衣裳を地面に叩きつけ、ハアッ、ハアッと荒い呼吸を繰り返していると、頭上から金色の羽根が落ちてきた。
見上げれば、神将の位を持つ金鳳凰が旋回していた。
「はははっ、見事だな! 美麗なる鳳凰よ、味方へ誇り高く名を名乗れ! 軍場に白金鳳凰ありと麒麟どもに知らしめてやれ!」
神将の声に応じて、ばっ、と弓を掲げる。
離宮には二度と戻らない。断じて朱真鳳凰どもに屈しない、己の身は己で守る。
信じるのは〝己〟のみだ――赤い瞳を見開き、真の名を叫んだ。
「我が名は鶂己! 必ずや武将鳳凰となって瑞郷天を守護する!」
ウオォ――という咆哮と歓声の混ざった轟音が響き渡る。数多の鎧や武器が日輪の光を受けて輝く。涙の気配はいっさいなかった。死と隣り合わせの軍場にあるのは血と汗と泥と、怒りと凄まじい高揚と熱狂と、そして初めて感じる希望だった。
今ここに〝鶂妃〟を葬り、生まれ変わった鶂己は、命を賭して鳳凰の悪しき因習を断絶し離宮の破壊を遂行する――。
突如あらわれた白金鳳凰が華々しい軍功を挙げたという朗報は、伝令鳥によってその日のうちに瑞郷天へ齎された。激怒した丹天老君たちは毎日のように「速やかに戻れ」と使いを寄越してくる。鶂己はそれを無視して軍場に五日間留まった。
棲み処がない鶂己を青楼街へ連れて行ってくれたのは歴戦の猛禽たちだった。
青楼街で酒と香烟と交尾を覚え、快感の虜になった鶂己は、自身が色事を殊更に好む瑞獣であることを認識する。重要なのは相手の雌雄や年齢ではなく、鶂己に抱かれることを恐れていないか、それに尽きた。一瞬でも拒めば即座に手を放すと決めたが鶂己を拒む禽鳥は一羽もいなかった。
軍場で武将鳳凰や猛禽類とともに戦い、青楼街で遊君たちと性交の快楽に耽溺する日々を、離宮にいたころは想像もできなかった暮らしを鶂己は気に入っていた。
しかし眠れば必ず悪夢を見て魘される。
悪い夢を見るときに出る唸り声は遊君たちをひどく怯えさせた。鶂己は早々に同衾をやめ、独りで夜を過ごす――離宮にいたころと同じように。
「これでいい……独りでいい」
救えなかった多くの雛鳥を忘れてはならない、否、絶対に忘れたくないから、夜ごと独りで悪夢を見る。
激怒していたのに態度を変え、機嫌取りを始めた朱真鳳凰らを鶂己は心の底から侮蔑した。
未だ鶂己を犯し服従させることしか頭にない丹天老君を今すぐ射殺せるが、逆賊のような真似はしたくなかった。弑逆すればいつか必ずされる側になる。丹天老君たちに仕掛けさせ、それに応戦する形で討つと決めていた。
忠義らしく振る舞う一方で、少しずつ疑念を抱かせていく。疑念の器が満ちあふれたとき丹天老君は仕掛けてくる。鶂己が名を変え青楼街を棲み処にしたことで、すでに器の半分以上まで満たされただろう。
計画を着実に進めるために、再会した玻璃すら利用した。
鶂己は「丹天老君さま、朱真鳳凰さまの御為に」と縄張りを広げる。また別の日には、玻璃を捕らえようとする朱真鳳凰と、抗う玻璃のあいだに立ち「朱真鳳凰さまともあろう方々がこうも未練がましいとは」と揶揄する。
忠義立てするときも、〝叛意らしきもの〟をちらつかせるときも、等しく極上の笑みを与えてやった。鶂己の真意が読めず戸惑う朱真鳳凰たちの愚かなさまが愉快でしかたない。
鶂己の発言によって玻璃は捕らえられずに済んだが、鳳凰の執拗な求婚に難儀していた。
「だからさっさと僕の仙華一枝になればいいんだ。僕、わりと一途だよ。共有なんてさせないしさ」
「はいはい……」
瑞郷天一と謳われる絢爛美麗さは血腥い軍場にあっても失われず、巧みな弓術で戦況を支配し、猛禽類の信頼も厚く老鳳凰たちの覚えめでたい白金鳳凰――誰もが〝鶂己瑞将〟の仙華一枝になりたがる。
鶂己は「どうか僕だけの仙華一枝に」とは絶対に言わない。玻璃に〝仙華一枝〟を使うのは、鶂己が挨拶代わりに口にすることを彼だけがきちんと理解しているからだった。
特別な存在を作れば丹天老君たちの魔手が伸びる。彼奴等の標的はあくまで鶂己でなくてはならない。誰も質に取られないよう、あえて複数の遊君と交尾し、夜ごと相手を変えた。
鶂己がいつも異なる美鳥の匂いを纏っているという噂は広く流布され、朱真鳳凰も認知し、玻璃は「艶聞の絶えない色男……」と窘めるように言う。それでいい。
自分でも可笑しくなるほど簡単に笑顔を作ることができる。だが離宮に向かおうとすると顔が強張る。息苦しくなり、どうしても近づけない。青楼街で産み落とされた鳳凰の卵を守るために、ふたつめの贋物の卵を献上したのは十八歳のときだった。
そして鶂己が二十歳になった春――。誰も想像だにしない、瑞郷天を揺るがす大事変が勃発した。
育雛衙門で働きはじめた玻璃が初めて受け持った鳳凰の卵。その外殻を割って出てきた雛鳥は黒い翼羽で覆われていた。
瑞郷天を滅亡させるという黒鳳凰を目の当たりにし、恐れるものが皆無に等しい鶂己もさすがに戦慄を覚えた。丹天老君は玻璃に黒い雛鳥の抹殺を命じる。彼は殺せない、自分が始末するほかないだろうという鶂己の予想に反して、玻璃は黒色の小さな死骸を盆に載せて九尊の間にあらわれた。
「鶂己瑞将! 確認せよ!」
朱真鳳凰たちが金切り声で命じてくる。死骸くらい自分で確かめたらどうだと心の中で辟易し、玻璃の前に立った。
死臭を嗅ぐため長躯を屈める。どうしてか臭いがしなかった。落ち着き払っている玻璃の、盆を持つ手がにわかに震えだす。
それだけで気づいてしまった――血濡れの盆に載った黒い雛の死骸が贋物であることに。
鶂己は赤い瞳を見開く。玻璃が贋物の死骸を作った理由はひとつしか考えられない。
――まさか育てるつもりか?
信じがたい。すでに凶禍鳥に取り憑かれているのだろうか。しかし、射殺す勢いで睨みつけてくる玻璃の瞳は正気を保っていた。泣き顔で鶂己の御子衣裳を握ってきた仔がこんな目をするようになるとはな……などと感心しながら、異母弟かもしれない男を平然と睨み返す。
そうして刹那の睨み合いに思惟し、判断する。
目も開いていない黒鳳凰が今日明日に瑞郷天を滅亡させるとは考えにくい。玻璃が提示した死骸が贋物だと知っているのは鶂己だけで、これは丹天老君たちに疑念を抱かせるまたとない材料になる。
鶂己は玻璃を何度も救ってきた。もう充分だろう。彼が黒い雛を育てることで新たな利用価値が生まれるなら良し、計画完遂の邪魔をするのであれば凶禍鳥もろとも殺すまで。
屈ませていた身を起こす。鶂己は玻璃を睨みおろして、餞別代わりに言った。
「絶命しています。死臭がひどい」
鳳凰たちは袖で鼻を覆い、安堵の声を漏らしたり悲鳴をあげたりする。ざわめきがやまない中で玻璃が短い吐息をついたことに、鶂己は眉をしかめた。
――玻璃まで安堵してどうする。凶禍鳥との共存を選んだきみに安寧の日は来ないぞ。
黙って九尊の間を出て行く玻璃の背に強い声をぶつける。
「追尾をつけます。瑞郷天に埋葬されては敵いません」
――僕ら瑞獣を欺くと決めたのであれば最後まで徹底して装え、玻璃。
離宮で別れ、瑞郷天の中枢にある書院で再会した鶂己と玻璃は、ふたたび別離した。
鶂己は遠方から玻璃の行動を監視しつつ自身の計画を進めていく。みっつめの贋物の卵を献上し、神将の地位に上り詰めた。
十年は見て見ぬふりをしてやる。そのあいだに丹天老君を玉座から引きずりおろして離宮を破壊する。十歳の凶禍鳥を殺すときは僕の手で――しかしこれらの思惑は覆された。黒鳳凰がわずか六年で成鳥になったことに鶂己は心底驚愕する。
九尊の間にあらわれた巨大な黒鳳凰を一射目で牽制して二射目で仕留めるつもりだったが、一本放ってやめた。
「ははは! 黒いの。なかなかやるじゃないか」
「なんだおまえ。いけ好かねえ野郎だな。おれには玻璃が名づけた〝烈〟という名前がある」
黒鳳凰に利用価値を見出した鶂己は、「殺せ! 今すぐ殺せ!」と騒ぎ立てる丹天老君らを無視し、あからさまに烈に肩入れする。配下に置いて軍場で活躍させ、瑞郷天を守らせ、大衆鳥が烈を受け入れられるよう促し――一連の騒動の最後に、九尊鳳凰が鶂己と烈に用意した玉座を蹴った。
丹天老君は激怒し、鶂己は心の中で大笑した。彼奴が抱く鶂己への疑念は澱のように積もり溜まっている。ほどなくあふれるだろう。
玉座を拒絶したことが大衆鳥のあいだで噂になったころ、南斗后輝に呼び出された。いつもの長い御小言と思ったが、違っていた。
「此度、一羽の若い猛禽が初陣する。見習いとして、鶂己のところで預かってくれぬか」
機が熟しつつある今、面倒だと思った。しかし、武将鳳凰たちの後見であり理解者であり、鶂己が殊更世話になっている彼女の依頼は断りにくい。
「大将鳥を輩出してきた鷲の名門の仔じゃ。一時的な側仕えでかまわぬ、経験を積ませてやってほしい」
「……まぁ、期間が限られているなら」
そうして軍場にやってきた小さな鷲は、鶂己が決して持ち得ない陽光の匂いを纏っていた。
・◇・・・
「――!」
目覚めた瞬間に鶂己は跳ね起き、焦って口許を片手で覆う。
その拍子に嵐の頭の下から腕枕が勢いよく抜けて、ゴトッという鈍い音が鳴った。
「あっ、悪い……大丈夫?」
頭を打った痛みで起きたと思い、訊ねたが、返ってきたのは「ぐーっ、ぐーっ」という鼾だった。
鶂己はあらためて現状に驚愕する。誰かと同衾して朝まで眠りこけるなど信じがたい。青楼街で暮らすようになって十四年、一度もなかったことだった。
――僕、魘されてたか? この仔に聞かれたか?
鶂己が魘されるときに出す声はひどく不気味で、そばで聞けば熟睡していても目が覚めるだろう。しかし嵐が夜中に起きた様子はなく、鶂己が嵐に揺り起こされた記憶もない。
魘されなかったのだろうか。否、それ以前に、悪夢を見なかったのではないだろうか。
――あの夢を見ないなんて……おかしい……。
「………」
形容しがたい心持ちになって、嵐の顔をのぞき込む。ぐうぐうと元気な寝息を立てる小さな鷲からは昨夜と同じ陽光の匂いがした。柔らかな羽と亜麻色の髪にまた顔を埋めたくなる。いい匂いに抗えず鼻先を近づけたとき、嵐が「へぷしっ」とくしゃみをした。
鶂己は我に返り、嵐に掛け蒲団を被せて寝床を出た。
梧桐の葉の上に立って桃色の寝衣を脱ぎ、下衣を穿く。袍服と上着を纏って瓔珞や佩玉を身につけ、長靴を履いて部屋を出ると、三人の遊君が寄ってきた。
「鶂己さまぁ、おはようございます」
「おはよう」
「ゆうべはいかがでした?」
「ん? ……――うん」
誰かに腕枕をして熟睡するという初めての事態に物凄く焦り、忘れていたが、訊ねられて思い出す。昨夜は寸止めなどという大変ひどい目に遭わされたのであった。
射精を我慢したのも交尾を拒まれたのも初めてだった。鶂己を拒む者がいるなんて信じられず、狭くて気持ちいいところに何度も入る気満々だった陰茎が可哀想でならない。
初めてづくしがだんだん嫌になってきた鶂己は赤い瞳を半開きにして口をへの字に結んだ。遊君たちがくすくす笑う。
「あら、だめでしたの? 入りませんでした? あの仔おしり小さいですものね」
「孔も狭そう。鶂己さまの男根は初心者向けではありませんし」
「今からぼくたちとなさいます?」
「うーん。そうだなあ……」
しなだれかかって下腹部をくっつけてくる遊君の尻を撫で、しばし思案した。
鶂己は午前の情事も好きだった。夜とは異なる淫靡な匂いと気配がいい。彼ら三人が相手であればすぐ気持ちよくなれるし四半時もかけずに数回の射出が叶う。
だが気分ではなかった。
「やめておこうかな、きみらも休む時間だし。部屋の中の仔、もう少し寝かせてあげて。起きてきたら、鎧を鎧甲衙門へ運ぶよう伝えてくれる?」
「わかりましたぁ」
「ねーぇ、鶂己さま、彼のおしりの締まり具合を見てもいいかしら?」
「あの仔が嫌がらなければいいんじゃないかな。無理強いはだめだよ」
「じゃあぼくは陰茎の立ち具合を見ようっと」
「小柄だけど男根は強くて長持ちするはずよ、だって若い猛禽ですもの」
「そうだよねっ、早く起きてこないかなぁ」
きゃっきゃとはしゃぐ遊君たちを見つめながら鶂己はふたたび思案する。
彼の真面目そうな性格と昨夜の落ち込んだ様子からして、鎧を鎧甲衙門へ運んで御役御免と思い込む可能性が高い。鶂己はそれでもかまわないが、軍鳥への憧れがあるようだし一日で終わるのは気の毒というものだ。なにより、泣かれるのが本当に参る――。
「――もうひとついいかな。磨き終わった鎧を受け取るように、とも。伝言はふたつね」
「はぁい、必ずふたつともお伝えします」
「ありがとう。じゃあまた宵に。よく休んで」
鶂己は労いを籠めて遊君たちの唇を順番に吸い、鳳凰に変容して青楼を飛び立った。
あれほど手酷く鶂己を拒んだのだから今日は姿を見せないだろう。考えながら玉煌朱宮を出て大楼門をくぐると、そこに嵐が立っていた。内心驚き、笑顔を作る。
「鶂己神将をお守りします! ……せ、青楼街へ行かれるならお邪魔はしません」
「はは、ありがたいね」
嵐は口癖のように言うが、己の身は己で守ると決め、それを貫いてきた鶂己に守護は必要ない。つき纏われるのはやや面倒で、しかし一生懸命な仔を撥ねつけるまでの冷淡さは持っていなかった。
嵐を連れて南斗后輝の宮殿を訪ねる。丹天老君たちが空席の玉座をふたたび利用し鶂己に忠義を示させることも、黒い雛の死骸の真偽に着目するのも想定内だった。
宮殿を辞したあとは青楼街へまっすぐ帰るつもりだったが、思惟したい鶂己は当て所なく歩き、清流のせせらぎが聞こえる草原で立ち止まった。
「大いなる叛逆、ね……。御爺め、ようやっと気づいたか。いいかげん待ちくたびれたわ」
苛立ちと笑いが同時に込み上げてくる。
黒い雛の死骸の噂により、飽和状態だった鶂己への疑念はまちがいなく溢流しただろう。
機は完全に熟し、おそらく数週間のうちに仕掛けてくる。鶂己はそれに乗じて局面を一変させる心算だった。
「さて。いつまできみを預かろうか」
誰かを巻き添えにすることだけは絶対に避けなければならない。長くて三、四日だ。【下級軍鳥に値する】と記した推挙状を持たせて帰せば今後も軍場へ出られるだろう。
「……鶂己さまは、どうして」
「うん?」
あと数日預かって、推挙状を書くよ――そう言おうとしたのに。嵐のひとことでなにもかもが覆ってしまった。
「鶂己さまはどうして面倒でもいらいらしてても笑うんです?」
「――」
鶂己は赤い瞳を限界まで見開く。一瞬、なにを訊かれたか、わからなかった。
「生まれつきの癖なんかじゃないですよね? 鶂己さまに作り笑いをさせるなにかがあるんですか? そんなのはいやだ。すみません、おれは鶂己さまのこと、ぜんぜんなにも知らないのに」
鶂己が十歳で体得した笑顔は朱真鳳凰たちや数多の禽鳥を魅了し、完璧な盾でありつづけてきた――ついさっきまで。
今は微笑すらできない。ただ驚愕して嵐に見入る。
なぜ嵐は鶂己のことでこんなにも悔しそうにしているのだろう。彼が口にした『作り笑いをさせるなにかがある』という言葉に鶂己は心を揺さぶられる。世慣れていない少年みたいな嵐が、遊君たちは当然のこと南斗后輝や玻璃にさえ悟らせなかった胸裡に一気に近づいてくる。
――なんだ、この仔は……。
的確に機微を読む、まっすぐな金色の瞳。鋭敏な仔なのかと思えば、瑞獣が忌避する獣肉のことをぺらぺら喋って鶂己をえずかせ、慌てふためくという抜けた一面を見せる。
よくわからない。わからなくて――。
「きみ、おもしろい仔だな」
そう言ったときには苛立ちも驚愕も消えていた。
あと数日預かって、推挙状を書くよ――それを伝えないまま、翌日、嵐を連れて軍場へ向かう。
戦線での動きは初陣のときとは比べものにならないほどよくなり、鶂己は感心したのだが、当の嵐は「勝手な行動をしました」としょんぼりする。やや心配になるくらいの落胆ぶりだったので、判断と行動に誤りはなかったと説明すると、表情をぱっと明るくした。きらきら輝く金の瞳とにこにこ顔につられて鶂己も笑顔になる。
憂いが晴れてなによりだった。これで心置きなく嵐と交尾できる。
早く中に入りたい。それなのに、弾力のある可愛い尻を揉みしだいたとき、「いやです!」とばっさり言われた。
「僕を何度拒むつもりなんだ! もう十日以上も射精してない! 一昨夜も昨夜も青楼へ行ったのに射精できなかったのは嵐のせいなんだぞっ」
「すみ、ませ……」
三日連続で交尾お預けなど、いまだかつて経験したことがない。さすがに苛立って、意地悪をしてやった。
鶂己の戯れ事に大真面目に応じたり、猥言に閉口したりする嵐は、最後に真剣なまなざしを天幕へ向けて言った。
「鶂己さまをお守りするために、おれは軍鳥になります。盾になって死ぬんじゃなくて、自分の力で守れるようになりたいです」
真摯な言葉が、すっと胸に届く。
これまで配下の軍鳥が護衛を申し出てくるたび、『大丈夫だよ僕強いから』と断ってきた。
守ると言われて嬉しく思ったのは今が初めてで、面映ゆくなった鶂己は「そうか」と短く答えた。
血の臭いが漂う軍場にいても、嵐の髪と羽には陽光の匂いがある。
――あと数日だけ預かって手放すのは……、少々惜しい……かな。
考えられたのはそこまでだった。陽光の暖かな匂いに誘われて、鶂己は瞬く間に眠りに落ちた。
鶂己に〝初めて〟ばかりを齎す、不思議な嵐。
「お守りします」と側仕えの御役をひたむきに務めるけれど、触れることは許してくれない。
皆のほうから寄ってくるから、鶂己は特別な誰かを求めたことがなかった。五色のまつげを揺らして「一緒に気持ちよくなろうか」と誘えば、雄鳥も雌鳥も裸になって脚を開く。
でも嵐は違う。いつものやりかたがまったく通じなかった。
「ぅ……。いや、ですっ」
初めて欲しいと思った仔に拒まれて、鶂己は経験したことのない焦燥に駆られた。
「嵐は悪い仔だな。僕を守ると言って近寄ってくるくせに、僕を拒んでばかりだ」
苛立ちながら甘い声で咎めれば、嵐は困り果てた顔をする。
嫌がっているのだからやめておけばいい。嵐と交尾できなくても青楼街へ戻れば遊君たちが鶂己の胡坐に跨がってくる。しかし、遊君を何羽抱いても満足できない気がした。
預かると決めた三、四日はとうに過ぎている。それを忘却した鶂己は、夜ごと嵐を自分の脚に座らせて口説いた。
「接吻だけでも気持ちよくなれる。嵐も知っているだろう?」
「……鶂己、さま」
「ほら。嫌って言わないと、してしまうよ」
「――」
嵐は嫌と言わなかった。ようやく許された唇は、たまらなくよかった。
放したくなくて夢中で唇を吸う。嵐が袍服をぎゅっと握りしめてくる。その仕草ひとつで昂る。鶂己は嵐を抱く腕に一層力を込め、狭い口内に舌を捻じ込んだ。
劣悪な環境を生き延びて離宮を脱し、強靭な筋骨を持つ武将鳳凰となった鶂己は、恐れるものが皆無に等しい。丹天老君と十数人の朱真鳳凰に囲まれたところで恐怖など感じるはずがなかった。
「おやおや朱真鳳凰ばかりお揃いで。宴でも?」
嵐は戦いかたを着実に体得しつつある。飛翔も速く、捕まることはない。九尊の間を出て加勢を呼べと指示すれば実行できる。信頼に値するから心配もしていなかった。
今日、今ここで丹天老君と決着をつけてもいい。拘束でも強淫でもなんでも仕掛けてこい――。
「自由を得たつもりか? 浅慮なことよ。おまえが謳歌している自由はすべて余の掌上に生じたもの。所詮おまえは離宮につながれた美鳥に過ぎぬ」
丹天老君は拘束もせず身体的な加害にも及ばなかった。
扇を顎の下に差し込むにとどまる。そうして鶂己の精神の、不治の傷口を抉ってくる。
「己の存在理由、よもや忘れたわけではあるまい? ――のう、鶂妃よ」
鶂己は眦が裂けそうなほど目を見開き、奥歯を軋むまでに噛み締める。
黙れ! 二度とその名で呼ぶな! 呼ぶなら殺す! ――初陣のときに叫んだ言葉を今また怒鳴ってしまいそうだった。
怒りに震える手が丹天老君の首を絞めたがる。血がしたたるほど拳をかたく握りしめ、殺したい衝動に耐える。しかし長くは耐えられない。これ以上ここにいてはいけない。丹天老君も朱真鳳凰もことごとく死ぬことになる。
「鶂己さまっ!」
九尊の間を出て行く。ついてこようとする嵐を振り切る。誰も来ない石柱に降り立ち、裸になって泉へ飛び込んだ。
今は嵐をそばに置いておきたくなかった。拒まれても手を放してやれない、否、拒まれたら嵐を滅茶苦茶にしてしまう。
あの名を聞かれた。嵐だけには知られたくなかったのに。凄まじい恥辱だ。自分を見失うほどの激しい怒りをどうおさめたらいいのかわからず途方に暮れる。
見つからないはずのこの場所まで嵐が追いかけてきた喜びも、瞬く間に憤りに呑み込まれてしまった。
「おれ……鶂己さまの怒りを消したいです。どうしたら、消せますか」
どうしたらいいか鶂己にもわからない。でも嵐なら消せる。
鶂己が嵐に乞うのはたったひとつだけだった。
「僕を拒むな」
黙ってうなずく嵐に噛みつくように口づける。衣服を剥ぎ取り、裸の脚を開かせる。身体の震えが伝わってきてもやめられなかった。
腹の底に蟠る怒りを嵐の中に吐き出す。怖がらせたくないのに酷くしてしまう。許しを乞いながら、熱に浮かされたように何度も叩きつける。
すべてを放ちきったあとに残ったのは、抑えようのない嵐への愛しさだった。
離宮を出て十四年――。
巨大な鳥籠を跡形もなく破壊するために、九つの玉座の中央を奪うと決めた。一刻も早く丹天老君を玉座から引きずりおろさなくてはならないという焦燥を抑えながら、機会を狙いつづけてきた。
朱真鳳凰たちを翻弄する、鶂己の忠義立てと数々の小さな叛意。
丹天老君の疑念の器はあふれ、彼奴が〝鶂妃〟の名を口にしたことで関係の破綻は決定的となった。
特別な存在は作らず、夜ごと異なる遊君を抱いてきたから、誰かが質に取られるようなことはない。いつなにを仕掛けられてもいい、鶂己はそのとき確実に丹天老君を討つ。
なにもかもすべて計画通り進めてきたというのに。
「誤算だった、この僕が……。絶対に避けるべきことだったのに――」
「鶂己さま?」
嵐への恋情だけが誤算だった。
これほど制御できないものとは思ってもいなかった。大切な者が囚われ傷つけられる――鶂己が唯一恐れていたことが現実になってしまった。
それでも嵐は恐れない。
「鶂己さまっ……」
「嵐っ、許してくれ、怖い思いをさせたね」
身の危険にさらされたのは嵐なのに、九尊の間へ飛び込んで丹天老君を蹴った鶂己のことを、守るように抱きしめてくる。一瞬もへたり込んだりなどしない。すぐに銀の鎧を纏って鷲に変容し、羽ばたく。
嵐が巻き起こした小さな旋風を、鶂己はたしかに見た。
そうして迎えた終局のとき、嵐は丹天老君に真正面からぶつかっていく。勇ましい行動が鶂己に時間と冷静さを与えてくれた。
鶂己は射程を見極める。必ず心臓の真横に鏃を入れ、肩を貫いてみせる。
「嵐っ、充分だ、離れてくれ!」
「はいっ!」
嵐が鮮やかに旋回する。鶂己の放った黄金の矢は丹天老君の左胸を貫き、その体躯を壁に縫いつけた。
嵐は自身が傷つけられてもなお他者を思いやることを忘れない。丹天老君を淵昏岩窟へ連行し、九尊の間へ戻ってきた鶂己に力強く抱きついて言った。
「雛がいるかもしれませんっ。鶂己さま、おれ今すぐ離宮へ行きます! 許可をください!」
駄目だと言われても離宮へ向かうと、輝く金色の瞳が訴えてきていた。鶂己が小さくうなずくと同時に嵐は玻璃に訊ねる。
「離宮はどこにありますか?」
「案内するよ、かなり奥の、わかりにくいところにあるんだ」
「おれも行く」
「玻璃さんっ、烈天将、ありがとうございます、お願いします!」
鶂己がどうしても近づけない場所へ、嵐はいっさいの躊躇なく駆けていく。
彼らの戻りを待つ心許ない時間はすぐに終わった。烈が一人の幼児を、玻璃が一羽の雛鳥を抱き、そして二人の幼児を抱いた嵐が「鶂己さまーっ」と笑顔で走ってくる。
「四羽いました、みんな元気ですっ! 本当によかった! めちゃくちゃ可愛い……!」
優しく抱かれるのは初めてなのだろう、目を糸のように細めた雛鳥たちは安心しきって嵐にくっついている。この仔らの目には、嵐が暗い離宮を照らす日輪の使いに見えたはずだ。
長い時間がかかった。嵐がいたからこそ成し遂げられた。
〝鶂妃〟を撫でてくれた白鳳凰の悲しみや、息絶えていった雛鳥たちの無念が陽光に洗い流されていく。胸に熱いものが込み上げてくる。優しさと勇敢さを持つ嵐が齎してくれた風景を、鶂己は赤い瞳に焼きつけた。
・◇・・・
瑞郷天を統べる〝一武〟となって約一か月――ようやく愛の巣づくりを達成した鶂己はその日、宵の口から深夜まで嵐と繁殖行動に耽りつづけた。
「嵐? どうしてそっちばかり向くの?」
陣営の天幕で短く激しい情事を終えたあとも、愛の巣で長いあいだ求め合ったあとも、嵐の動きは同じで、つながりをほどくと背を向ける。
鶂己は、陽光の匂いと汗を纏う肌に余すところなく口づけながらささやいた。
「背中や可愛い尻を愛撫できるのは嬉しいけど、顔が見えなくなるのは寂しいな」
「………」
最初、瞳だけでちらりと見てきた嵐は、身体を返して鶂己のほうを向き、ギュ、と抱きついてくる。
「……おれ、鶂己さまと抱き合って寝たいし、でも鶂己さまの寝息を羽で感じたいし……どっちかひとつしかできなくて困り果ててるんです」
「僕も嵐とまったく同じ。どっちも大好きで本当に参ってる」
「あぁー、もーっ、毎晩ほんとに困っちゃいますね」
おどけたあと頬を赤くする嵐と額を重ねて、ふふっと笑い合う。
「嵐の好きなほうでいいよ」
「はいっ。どっちにしようかなぁ」
迷うふりをしているだけで嵐はもう決めている。にこにこ笑ってふたたび背を向け、ぴったりくっついてくるのは、亜麻色の髪と羽に触れて眠ることが鶂己のこの上ない幸せだとわかってくれているからだった。
たまらなく愛しくて、加減ができずに力いっぱい抱きしめてしまっても、強くしなやかな身体を持つ嵐は平気で、鶂己の腕に手を添える。
「おやすみなさい、鶂己さま。明日もお守りしますね」
己の身は己で守る。信じるのは己のみだ――そのような考えに囚われていた鶂己に、守られる喜びを教えてくれる嵐は、毎晩必ず約束して、元気な寝息を立てはじめる。
「ありがとう」
かつての鶂己にとって睡眠とは悪夢を見るための、苦痛を伴う行為だった。
でも今は違う。陽光を纏う羽に顔を埋め、すうっと息を吸うだけで、泣きたくなるほど心地いい眠気がやってくる。
鶂己は嵐の羽や首筋に口づけて、まぶたをゆっくり閉じた。
「おやすみ、嵐……愛してる」
もう悪い夢は見ない。
鳥籠の悪夢は陽光に消えた。鶂己の夢は明るく暖かな煌めきで満たされて、その中心には嵐が立ち、笑顔で両腕を広げてくれている。
鶂己は今宵も愛しい勇鳥に会うために、甘やかな眠りへ落ちていった。
鴇六連先生★スペシャルショートストーリー 鴇 六連/角川ルビー文庫 @rubybunko
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