アポトーシスとネクローシス
一緒に組み立てたシューズラックは、二段になっているものだった。
地面に近い方の段が私で、地面から遠い方の段があなた。ムートンやロングブーツなんかの、丈が高くて棚に入りきらなかったものだけは、天板の上を共有スペースとしていた。
真ん中の段の、ちょうど廊下に一番近いところ。
そこに不自然にぽっかりと生まれている空白に、今日も新鮮に心を貫かれる。
セットで思い出されるのは、屈みこんで靴を引っ張り出す、猫のように丸まった
一番下の段に今しがた脱ぎ捨てたパンプスを放り込むと、胸に溜まっていた空気がため息となって吐き出された。しんと息をひそめた2LDKでは、そんな空気の流れすらも大きく音を響かせる。
靴下を洗濯籠に投げ入れて、フローリングの廊下をぺたぺたと歩く。足に吸い付くようなこの感覚が、どうも得意になれない。空気は春めいてもう随分と暖かくなってきているけど、北側に面したこの廊下は、誰もいない間に時間と一緒に凍り付いてしまったかのように冷たい。
玻璃の部屋の前に置かれたヒメモンステラの小さな鉢。切れ込みのたくさん入った独特の形をした葉っぱも、主を失ってなんだか元気がないようだ。真似をして水をやったりはしているけど、どうも何かが違うらしい。
そういえば、葉っぱにあんな風な切れ込みが入るのは、切れ込みにあたる部分の細胞が死ぬからだって玻璃が言っていたような気がする。植物の身体を植物たらしめるために。その個体がその個体であるために。そのために一部の細胞たちを自ら殺す作用。そんな
傷ついた姿があるべき姿。殺した何かがその存在を揺らぎのないものにしている。
そんなことを考えていたら、ふつふつと自分の脳内にこの鉢植えを蹴り飛ばしている自らの姿が映写されはじめた。始めはぼんやりと。徐々に鮮明な像を伴って。
鋭い音を立てて飛散する鉢や受け皿の陶器の破片。よく根の張った土は、ぼろぼろと塊ごとに零れる。かびたような発酵したような土の匂いに紛れて、千切れて廊下に舞う
やめて。そんなことしたら、玻璃が悲しむ。
頭の中で暴虐の限りを尽くす私に言い聞かせるも、それとは対照的にどこか涼やかな風を心に感じている自分がいることも、私は知っている。慌てて鉢から目を背けてリビングへと無理矢理足を動かした。
じっと立っていたダークブラウンのフローリングには、くっきりと私の足跡が残っていた。
こんなことを、もう一週間も続けている。
目を覚まして隣に体温がないことに気付き。部屋を出る時には週に二回の燃やせるゴミの袋が軽くなっていることに気付き。部屋に帰るとシューズラックに靴がないことに気付く。
当たり前にあったものが消えて、当たり前じゃなかったことに思い当たって。
それで、心にまた一つ穴が開いて。
そんな風にして、玻璃のいない生活をだんだんと実感してしまっている。
玻璃は、本当に我慢強い人だった。熱がある日でも、料理の当番は絶対に譲らなかったし、部屋に帰ってきてからもアルバイトの愚痴は絶対に言ってこなかった。
私はといえば、当番は変わってもらうし、仕事で嫌なことがあったらすぐに愚痴をこぼしていて、それを聞いてもらって、頭を撫でてもらっていた。
一度、驚かしてやろうと思って休みの日に玻璃の勤めている喫茶店に行ったことがある。全国でチェーン展開していることもあって名前だけは聞いたことがあったけど、私はコーヒーが飲めないので実際にお店の中に入るのは初めてだった。
お店は、スマホの地図を頼りに探した。俯瞰で見るこの四角形の集合は、実際に私の目の前に広がっている街並みと上手く結びつかなくって、何度か迷った。
ようやく見つけた店の看板。見慣れたロゴマークの張られたガラス越しに店内を覗くと、お店の制服らしきパフスリーブに身を包んだ姿が目に入ってきた。
それが玻璃だと一瞬気付けなかったのは、髪を後ろで縛っていたのだけが理由ではなかった。
レジの前で二人連れのお客さんにぺこぺこと頭を下げている姿は、普段のおっとりとした玻璃の様子からは遠くかけ離れていた。なにがあったのかは分からないけれど、大切な人が人に頭を下げている姿を見ているのは、胸が痛い。
結局お店には入れずに、近くのレンタルビデオ屋で何本か映画を借りて家に帰った。泣きたい時にサクっと泣くための簡単な映画を、何本か。
病床で柔らかく微笑む演技をしている俳優さんを、リビングのソファに寝転がりながら眺めていたところに、玻璃が帰ってきた。普段と変わらないその穏やかな笑顔に、なにより心を痛めた。
私と一緒に暮らしている間は、ずっと同じところに勤めていた。昨日お店に行って店長さんに聞いてみたら、辞めるって電話で連絡されたって言ってたけど。玻璃は、そんなところも律義な人だった。
再来月には引っ越すことにした。一人で家賃を払うにはこの部屋は高いし、一人で時間を過ごすのには広すぎる。
リビングに足を踏み入れると真っ先に目に入ってくるのは、洗濯物が何枚かぶら下がったままになっているピンチハンガーだ。バルコニーとは名ばかりの、小さな屋外のスペースに面した窓。そこで鈴生りになって光を遮っている洗濯ばさみ達は、二年という時の中で白く劣化していた。
玻璃の下着は、一週間の間ずっと同じところにぶら下げたままになっている。とっくに乾いているけれど、どうしても触れることができない。
私が向かって左側、玻璃が右側。そんな風に決めていたから、私の洗濯物がぶら下がっていない今は、不格好に右肩だけを落として暗い部屋を見下ろしている。
和室に繋がる部屋に掛けた、私の部屋だということを声高に主張するコルクのプレート。貼り付けてある百円均一で買ってきたちゃちな木のアルファベットは、プライベートを守る必要性を失ってからも健気に仕事をし続けている。
二年間という時間を二人で過ごしたこの部屋には、やっぱりあなたが沁み込みすぎている。
玻璃の趣味でインテリアに取り入れられていった観葉植物たち。アジアンタム、ガジュマル、テーブルヤシ、
甲斐甲斐しく世話をするその姿が、今でも鮮明に思い浮かぶ。天気のいい日にバルコニーに出してあげたり、霧吹きで水をやったり、元気がなくなれば土を変えたり栄養剤を刺したり。そして、その健気さは私にも向けられていた。
机の上の割れたガラスのコップは、まだ片付けられていない。
キレ散らかしたのが午前中で本当に良かった。玻璃みたいな子が夜中に一人で歩くのは、やっぱり危ないから。
きっかけはなんでもよかったんだと思う。それくらい私は焦っていた。我慢強くて私に心の底を見せてくれない玻璃の姿が、怖かった。悲しかった。嫌いだった。無力感があった。疎外感を突き付けた。
私は玻璃のことを頼るのに、反対はそうでない。その非対称が私と玻璃の間に大きな溝になっているようで、その溝を、あなたの方は全然埋めようとしてくれなくって。
玻璃の料理を否定してみた。ちょっと薄味すぎるんじゃないかな。楽なバイトの玻璃にはわかんないかもしれないけど、疲れている身にとってはもっと味付け濃い方が嬉しいんだけど。
あてこすりのつもりだったのに、玻璃にだって大変な時があるんだって聞きたかったのに、玻璃はへらっと笑いながら謝った。次の玻璃の料理登板の日から、私は食べたくもないしょっぱい料理を食べることになった。
観葉植物を始めてみた。なるべく雑に世話をして、怒らせてみようと思ったのだ。機能性もなにもあったものじゃない、インテリアのためだけのブリキの小さな如雨露を買い、水やりをサボった。
適当に世話をしているはずなのに、植物は枯れなかった。多分、私のいないうちに玻璃がこっそり世話をしていたんだと思う。そのことについて、玻璃はなにも言わなかった。
キスをせがんでみた。ただシェアハウスをしているだけの、友達なのか同居人なのかよく分からない関係だったけど、一歩踏み込んでみたらなにかリアクションがあるんじゃないかと期待した。
玻璃は、言われるがままに唇を差し出した。引っ込みがつかなくなった私はおざなりにそこに唇を重ね、よくわかんないやと言って笑った。引き攣った笑顔だったと思う。
ただ、一言だけでも私を拒否して欲しかっただけだったのに。玻璃の本心が見たかっただけだったのに。
だから、爆発した。
なにも責めることが思いつかなくなって、キレるためだけにキレた。同じ食卓を囲んでいる玻璃が目を丸くしているのが分かったけど、わかんないと繰り返しわめいて、グラスを机に叩きつけた。一緒に雑貨屋で買った、お揃いのグラスだった。
私の肩に触れたその手を、手荒く払いのけた。その優しさなのかすらわからない、一方的な私への施しこそが私を苦しめているのに、この期に及んでそんなことをする玻璃が許せなかった。
私はもっと、私に本音を見せてくれるあなたが見たいのに。
グラスに入っていた炭酸水が、テーブルの上でしゅわしゅわと弾けている。テーブルの上のパキラの鉢に飛び込んだ大き目の破片が、窓から差し込む陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
出ていってよ、と私は言っていた。
だから、玻璃はこの部屋を出ていった。
それ以来、私は玻璃の姿を見ていない。
それを私への拒絶だと思いこまないと、どうにかなってしまいそうだった。
こんな風になってやっと、玻璃は私の行為に対して不快感を露わにして出ていったのだ。これがあるべき姿なんだ。ちょうどモンステラの葉があらかじめ決められたように細胞を殺すことで、ずたずたに切れ目の入った葉というあるべき姿に至るように、私たちも至るべくしてあるべき姿に至ったのだ。
あなたにずっと傷を刻み続けていたのも、全部あなたの本音を聞かせてほしかったから。それでやっと聞けた本音が拒絶だったんだと思わないと。そうしないと――
あなたがずっと変わらずに私に見せていた姿こそが、着飾ることのないあなただったことになってしまう。
私の前で強がってみせたのも、拒絶を前提にしたキスを受け入れたのも、出ていってという言葉を受け止めていなくなったのも、全部私のことを大切に思ってくれていたからなのだとしたら。
私のやったことは、到底許されることではない。
玻璃のいなくなった部屋で、やっと私は玻璃がいたというに気付いた。過去形という形でしかそれに気付けなかった私を、玻璃が本当はどう思っていたのか考えると、身が竦む。せめて嫌いであってくれたら。それで私はなにかから許されるような気がするのに。
掃除をするたびに、毎回綺麗にしているはずなのにどこからか私のではない髪の毛が出てくる。
切らしたシャンプーの補充をしようと引き出した洗面所の籠の中には、肌の弱い私には使えない石鹸が入っていた。
冷凍庫の下の方から、私の買った覚えのないアイスクリームが二つ出てきた。それも、同じ種類のものが二つ。
コンロの上の部分が綺麗になっていることに気付いた。油でベタベタになっていたはずなのに、私の知らない間に汚れがなくなっていた。
郵便受けに、私に宛てたものでないダイレクトメールが届いた。
私たちは、一緒に暮らしていた。そしてその残滓が顔を覗かせるたびに、私のやってしまったことが喉元に絡みついて、緩やかに締めつけてくる。
合鍵は、あの頃とずっと同じところに隠したままだ。玄関を出たところにおいてあるいくつかの鉢。その中のひとつ、ドラセナの鉢の裏に鍵を貼り付けてある。
その鍵の音を再び聞きたいのか、私にはわからなかった。ただ一つだけわかっていたのは、その鍵を隠してしまえば、玻璃は部屋に上がれなくなるということだけだった。大家さんに貰った鍵は三つ。一つは私が持っていて、一つは鉢の裏に隠していて、最後の一つは、キーフックにかけたままになっている玻璃の分。
引っ越しは再来月だ。
そしてその期限は、私と玻璃をかろうじて結び付けているものの消滅を意味している。
帰ってきてだなんて、私には言えない。
玻璃が私にうんざりして出ていったのなら、今のこの生活があるべき姿で、玻璃が私のことを大切に思っていたのなら、私が玻璃にしたことは許されていいものではないから。
それでも鉢をひっくり返さない私を見て、玻璃はなんて言うだろう。
軽蔑するかな。それとも笑って許すかな。
食卓の上に置きっぱなしになっている割れたグラスに、そっと指で触れてみた。あの葉っぱみたいにざくざくに切れて血が出てもいいと思ったのに、指は意気地なく側面のつるつるとした面をなぞるだけで、傷つくことを拒んでいる。
私はどうやら、モンステラにはなり切れないらしかった。
たまさかにして断片 青島もうじき @Aojima__
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。たまさかにして断片の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます