月下にて夜鷹


 そういえば、実家の近くにもこんな場所があったような気がする。

 町をじっとりと染め上げている人々の気配から逃れるように、ぽっかりと開かれた箱庭のような空間。どこかわざとらしさすらも感じてしまうような、病的に穏やかなこの空気を吸ったことが、私には確かにある。

 こんなふうに昔のことが今と結び付けられて再生されているのは、きっと走馬灯に似たなにかなのだろう。もしくは、脳裡に吹き荒れた突風が、普段は開けることのない記憶の箪笥を荒らしていったのか。

 そうでなければ、もっと単純に"現実逃避"ってやつなのかも。

 沈黙に耐えかねたのか、揺らすようにブランコを漕ぐ金属の軋む音が、隣から聞こえてきた。疲れたようにぐったりと地面に投げ出した華奢な脚は、常夜灯の強い光を受けて、白く色を失っている。

 本当に、どこまでも可愛い。あ、これも現実逃避かな。

「トノちゃんのこと、本当に好きだった。これは、誓って嘘じゃない」

 また、鎖が悲鳴を上げる。私のよく知っている軽くて柔らかい身体がこんな音を立てられるだなんて、知らなかった。


「――だけど。いつの間にか、駄目になっちゃったんだ」


 こんな時にでも誠実に言葉を選ぼうとする姿が、健気で愛くるしい。

 声が出せないのは、きっと喉が渇いているからだ。だけど、手にぶら下げた度数の低い缶チューハイを飲む気にもなれず、代わりに唾を呑み込んだ。ごくりと、どろっとした音が、乾いた砂の上を這った。

 こんな夜だというのに、月は当てつけのように真ん丸で、眩しい。深夜零時の満月は南の空に高く昇って、樫の梢からその顔を覗かせていた。だけどその光も、私たち二人をスポットライトのように照らし出している電燈のそれに比べれば、今にもかき消されてしまいそうな儚いものだった。

 また、静寂。

 当然だ。ここには、夜風に揺れる葉のざわめき以外に音はなく、それ以外に音を鳴らせる存在は、私と、隣で呼吸をする体温の二つだけ。その二つのうち、私の方はさっきからずっと黙り込んでいるのだから、静かになってしまうのも当然のことと言えた。

 だから、声を出す代わりに、一つブランコを漕いでみた。

 私に代わって、鉄の匂いのする古びた鎖が、錆びついた悲鳴を上げてくれた。


 どうして私は、こんな素敵な子から別れ話を切り出されているんだろう。


 公園は、町の機能を家族に喩えると、きっと物心もついていない小さな子供になるのだろう。誰よりも早く眠りについて、その眠りを妨げるものには、無垢を汚す者として白い目が向けられる。

 この子の選んだ治安がいいこの街には、そんな黒い病原菌は、私たち二人だけしかいない。可愛いこの子のことだ。きっと、お父さんやお母さんなんかに大切に育てられてきて、その延長線上として、郊外の静かな街に一人暮らしをする拠点を一緒に探したりしたのだろう。

 間違っても、お酒の入った状態で深夜にふらふらと出歩いている人のいないような町を。

 酔いが醒めたとは言い難い、ぼんやりとした頭でそんなことを考える。

 そっか。

 吐き出した息の熱さに、座りながら見上げる背の高い木々に、私よりもずいぶんと低いところにある隣の頭に、過保護なまでに汚いものを排したこの空間に、思い出すものがあった。


 ここは、あの病院の庭に似てるんだ。


 私のかつて住んでいた小さな町の、バス停に程近い病院の小さな庭に。


   * * *


 小瑠璃こるりと出会ったのは、大学のカフェテリアでのことだった。

 高校時代までを過ごした、空気の清浄さだけが取り柄のなにもない小さな町を離れ、一人暮らしを始めた一年生の春。まだまだ学生たちが真面目に通っていて、カフェテリアのキャパを遥かに超える人が押しかけているような、そんな時期の話だった。

 オリエンテーションで"友達"関係を結んだ子たちと、私は不覚にも別行動になってしまった。たしか、学力別に割り振られる英語のクラスで、私だけ中位クラスになったんだったっけ。あとの三人は、その一つ下のクラスで。あ、違った。浅黄あさぎだけは一番下のクラスだった。

 大学に入って早々ぼっち飯か、と気が重くなったのを覚えている。同時に、高校の三年間を一緒に過ごした友人、蛍子ほたるこのことも思い出した。一緒の大学に来てくれたらよかったのに。

 だけど、そんなことを考えていたから気の迷いを起こしたわけでは、決してない。仮に隣に"友達"がいようとも、蛍子がいようとも、私は同じように気の迷いを起こしていたはずだ。

 それくらいに、私の一つ前に並んでいたセミロングのふわふわとした髪は、可愛らしく映った。

 私よりも一人分早くパスタを受け取ったその顔を、まじまじと見つめてしまう。小さな花に、大きな瞳。緩やかにウェーブのかかった、内巻きの髪。色素の薄い肌に、小さな赤いくちびる。触ればぷるりと揺れそうなその赤から、私は目が離せなくなった。

 カフェテリアのお姉さんから受け取った春キャベツとアンチョビのパスタを片手に、会計の列に並んでいるであろうその姿を探した。

 身長は、私と頭一つ分違う。オレンジがかった照明に照らされてつやつやと輝く髪の毛には、天使の輪っかが浮かんでいて。スープパスタをこぼさないようにと、ひょこひょこ歩く姿も、小動物を連想させて、この上なく愛くるしい。ふらふらと吸い寄せられるように、私は、彼女の後ろに並んだ。

 早い話が、あのとき私は、彼女に一目惚れしていたのだ。

 私は、可愛いものが大好きだ。見ているだけで幸せな気分になれるし、私の心の隙間を、温かいもので満たしてくれる。

 例えば小鳥。カルガモの雛が、卵から孵った時に目の前にいた人を親だと思い込んで、後ろをついて回る姿は、愛くるしさと共に、愚かな小さいものへの庇護欲のようなものを掻き立ててくれる。巣にみちみちと収まって餌をねだる姿も、巣立ちに失敗して地面に弱々しく横たわる姿も、同じだ。

 例えばテディベア。愛くるしい見た目は当然として、物言わずにぺたりと座っているその姿に、どこかありのままの私を受け入れてくれる包容力であったり、子供が愛でる対象としてのその概念への安心感であったり、そういった種類の柔らかく、失ってしまえば二度と元のものは手に入らない感情を振りまいている。

 例えば蛍子。本当に小さいころの小さな恋心のエピソードを話してくれた時の、桜色に染まった首筋に感じた純真。こんな子に心を開いてもらえているんだという承認が、とっくに現在地の分からなくなってしまった私の心に、そのままでいいのだと語りかけてくれる。

 きっと、可愛さの振りまくもの正体は、優しさであったり、悪意のなさであったり、かつての私自身に対するノスタルジアであったりするんだろう。そんな、持たない者には絶対に与えられない諸々を私に与えてくれる存在が、"可愛いもの"なのだ。

 思うに、可愛いとは無垢であることに近いのだと思う。汚いものを知らないから、これまでの私が人生を送る中で取り落ちてしまったものを、まだその心のうちに留めていられる。

 一緒にいることで、私は満たされる。だから私は、可愛いものが大好きだ。

 せわしなく人の蠢くカフェテリアの中で、彼女はどこに座ったものかと目線を彷徨わせている。おろおろと困った様子の彼女に、これ幸いとばかりに、私は声をかけた。

「ここ、空いてるよ。一緒に食べない?」

 抜け目なく確保した、二つ横並びになった空席。それを見て……というか、私の声を聞いて、彼女は無防備な安堵の笑みを浮かべた。心の底から、私の向けているこれが純粋な善意なのだと信じ込んで疑わない姿に、私は無垢への確信を深めた。やっぱり、すっごく可愛い。

「私、斗星とのほしっていうんだ。あなたは?」

 脚の高いカウンターチェアを引きながら尋ねると、彼女は丸みを帯びた可愛らしい声で「砂濱すなはま小瑠璃こるりです」と答えた。その後に「1年生です」と続けられるまで、私が彼女のことを私と同じ新入生だと思い込んでいたことに気付かなかった。


   * * *


 同じ学部の、違う学科だったのは幸いだった。

 連絡先を交換しながら所属を聞いた時に、真っ先に浮かんだ感想はそんなものだった。

 一年生のうちは一般教養がほとんどだから、ほとんどの学生がこっちのキャンパスに通っている。しかし、二年生以降になると学部によってキャンパスが変わってきたりしてしまうのだ。

 それに。

 自分の頭の中で自然と続けられたもう一つの理由は、今から思い返せば、予言かと思うほど的を射たものだった。

 学科内で付き合うと、別れた時、あまりに気まずい。

 高校の時、部活内恋愛でよく言われていた言葉を応用しただけのそれに、私は既に付き合うという少し先の未来と、別れるというさらに先の未来の二つを、同時に予感していたのかもしれない。

 これまで、私は誰かを恋人にしたいと思ったことはなかった。

 蛍子は可愛い子だったけど、どんなことがあっても自分の元から手放したくないかと問われれば、そうでもなかったような気がする。というか、そんなこと考えもしなかった。蛍子は当たり前のように私のそばにいるし、当たり前のように私に可愛い顔を見せてくれていた。あの頃の私にとっては、つまらない田舎での暮らしに添えられた、一輪の可憐な花ぐらいの存在だったのだ。

 だけど。小瑠璃のことは、欲しくて欲しくてたまらない。

 友達としての時間を重ねれば重ねるほど、素敵な表情を見せてくれるようになればなるほど、私の中の彼女を求める気持ちは強くなっていった。

 あの頃と比べれば、この町での暮らしは花畑にいるようなものだ。日々の退屈なんて感じないし、可愛い花だって、そこらじゅうに咲いている。

 だけど、そんな咲き乱れる花々の中にあってなお、小瑠璃は魅力的だった。

 鳥の名前が由来なんだと語られたその名前も、触れればぐにっとした感触を返しながら私の指の形に添うように窪みを作る柔らかい頬も、私を「トノちゃん」と呼ぶ、その少し吐息交じりの高い声も。全てが、可愛かった。

 だから、何度目かに小瑠璃の家に遊びに行った帰りに、いつもの公園で冗談めかすようにして「付き合っちゃおっか」と言ったのを、大真面目に受け止めてもらえた時には、本当に嬉しかった。あの日も確か満月が綺麗な日で。私の右手には、ライチサワーの缶が握られていた。

 ずっと、私に笑顔を向けてくれていたのに。

 どうして、私の手から飛び去ろうとするんだろう。

 砂粒と砂粒の擦れる音が、私の靴の下から聞こえてきた。五月の新緑も、月明かりに羽根を広げる夜鷹も、ジャングルジムの青い塗料も、夜闇にとけてしまえば全部同じ色だ。

「……理由とか、聞かないの?」

 すっかり聞きなれた、というか、全パターン聞きつくしたんじゃないかと思うくらい聞いた声なのに、それなのに初めて聞く声が、私の耳に届いた。

 わからないんだ。なにか嫌われるようなことをしてしまった覚えもないし、ずっと小瑠璃のことは可愛がってきたと思う。だから、こんなに突然終わりを告げられるだなんて、思ってなかった。

 風のない夜だ。気持ちが悪いくらいにずっと変わり映えのしない空気が、ベールのように私の身体を包み込んでいる。

 それを無理矢理引き裂くように、私は缶チューハイを一口煽った。ぬるくなった柑橘類の味は、到底美味しいと言えるものではなかった。


「聞きたい」


 うまく動いてくれない喉は、「た」の所で声をひっくり返してしまったけど、それを控えめに笑う息漏れも、もう聞こえてこない。

 その代わりに細く白い喉から放たれたのは、躊躇うような、だけどその言葉自体はずっと考え続けてきたんだろうと思えるような、よどみのない言葉たちだった。


「……好きでいるの、私の方だけなんじゃないかって思ってたんだ」


 耳の奥の方で、わんわんと反響しているようだった。

 確かに言葉は耳に届いているのに、言葉の一つ一つは分かるのに、小瑠璃の言ったことの意味が、よく理解できなかった。

「私、トノちゃんのこと、優しくって素敵な人だと思う。初めて会った日のこと、覚えてる? 私、すっごく嬉しかったんだよ」

 勿論、覚えている。だってあの日は、私が小瑠璃を見出したその日で――

「私は、トノちゃんのこと、大好きだったよ。初めて会ったあの日は、優しい人だなって思っただけだったけど、どんどん惹かれていった。だから、告白された時は本当に嬉しかった。よかった、好きなのは私だけじゃなかったって、すごく幸せだった」

 だけど、と小瑠璃は続けた。こんなに苦しそうに語るその姿は、今までに見たことがなかった。

 声が揺れている。その大きな瞳に浮かんでいるであろう雫を想って、不謹慎だけど、きっと震えるくらい可愛いんだろうなと、そんなことを思ってしまった。

「だけど、トノちゃんの方は変わらなかった。ずっと私が向けている気持ちを、少しも返してくれなかった。それで、気づいちゃったんだ」

 ブランコを握る小さな手が、震えている。その胸に抱えている気持ちが、全然わからないことに、取り返しがつかなくなってから気が付いた。


「私の好きと、トノちゃんの好きって、全然違う気持ちだったんだ、って」


 その言葉で、堰を切ったように小瑠璃は言葉をぶちまけ始めた。ずっと心の奥に押しとどめていたものを、私に向けるべきじゃないと溜め込んでいた言葉を、一気に私の身体に放っているのだとわかった。

「もっと好きだって言ってもらいたかった。もっと私に嫉妬なんかさせてほしかった。もっと私の心を振り回してほしかった。もっと私に気持ちを向けてほしかった。それでもっと、安心して私にも愛させてほしかった」

 痙攣したように、小瑠璃の喉が浅く息を吸う。そのまつ毛から弾けた水滴は、月明かりをたっぷりと吸い込んで、乾いた砂粒のなかに消えていった。


「もっと、トノちゃんに愛されたかった」


 そう言うと、もう伝えなければならないことは全部吐き出してしまったように、今度こそ小瑠璃は黙り込んでしまった。

 やっぱり当てつけのように、月は欠けることなく私たちの頭上で輝きを放っている。その輪郭を歪めてしまいたくて、缶の中身をまた煽る。

 私は、気付くのが遅すぎたんだ。

 そういえば、この前気が向いて連絡をした時に、蛍子も誰かと付き合い始めたって言ってたっけ。きっと、蛍子ならこんなことにはならないんだろう。その誰かとやらを、上手く愛して、上手く愛してもらうはずだ。その違いに、私はとっくに気付いていたはずだったのに。


 私は、与えられる愛しか知らなかったんだ。


 可愛いものが、大好きだ。だって、可愛いものは私に、私の持っていないものを与えてくれるから。だけど、そこになにかを与えるなんて、これまで考えたこともなかった。

 これまで私を愛してくれた人は、愛を与えられる人だった。

 でも、仕方ないじゃんか。

 どうやって愛していいかなんて、分からないんだから。可愛いって、好きだって思うだけじゃ駄目なのかな。

 小瑠璃の言うように、気持ちをかき乱したり、振り回したりすることが愛するってことなんだろうか。私には、分からない。

 きっと小瑠璃が言いたかったのは、たった一つのことだったのだろう。愛玩を捨てること。それで、彼女が私に向けてくれていた気持ちに、きっと近づける。

 だけど、愛でることと愛することって、なにが違うんだろう。

 わかんない。

 だけど、なぜか。まったくなぜかわからないけれど、手紙を書くということを一瞬だけ考えた。

 いやいや手紙って。子供じゃないんだから。

 そんなもので誰かに愛を示せるんだったら苦労はしない。

 顔を両手で覆って肩を震わせている小瑠璃に目を向ける。その髪に浮かんでいる天使の輪を私の手が撫でることは、もうないんだろう。砂で汚れてしまっている、私よりもずいぶんサイズの小さな赤い靴も、しゃくりあげるたびに喉から漏れる、嬌声に似た高く短い声も、手を伸ばせばすぐそこにあるはずの、少し平熱の高い体温も。全部、私の指をすり抜けて零れ落ちてしまった。

 空になった缶を、ゴミ箱目掛けて放り投げた。随分と酔っているみたいだ。放物線を描いた缶は、ゴミ箱に掠りもせずに草むらに落ちた。

 ごめん、やっぱりわかりそうにないや。

 ブランコを、一つ漕ぐ。軋みは、夜の住宅街に吸い込まれるようにして、消えていった。


 だって、この期に及んで私は。

 貴女のこと、すっごく可愛いって思ってるんだから。

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