乞いと恋
ぱたぱたと駆けていく、その足音を聞いていた。
小さな赤いリボンのデコパージュが入ったその上靴が昇降口の角を曲がったのを見届けて、ほっと一息つく。校則スレスレの色付きリップの甘い匂いが、まだ私の隣から香っている。瑞々しく爽やかなそれは、ピーチの香りだって聞いたような覚えがある。キャラ付けかなにかの一環なのかな。
あざとさを感じさせない程度のかわいらしさが、彼女の信条なのだろう。もしくはそういう趣味なのか。だとすればいいセンスをしていると、私は思う。
慌ただしく下駄箱を開く、乾いた金属の音が響いた。背の高い下駄箱の陰に隠れてその姿は見えないけれど、そこで行われていることは容易に想像がついた。
一緒に教室を出る時から半開きになっていたスクールバッグ。きっとその中に、下駄箱の中に入っていたものを手早く突っ込んでいるのだ。
本当、下駄箱なんて、嫌になるくらいベタだよね。
たっぷりと時間をかけて赤い踵に追いつくと、彼女はなにごともなかったかのように、平常心を装ってローファーを地面に下ろすところだった。こういう芸当ができるところが、幼いころの私との違いだ。隙だらけなようでいて、大切な所で線引きができる。そんな子だから、私は安心して隣にいられるのだ。
「置き傘、よく見たらそこに刺さってたわー」
『二年三組』とテプラのシールが貼られた無骨な傘立てからは、黒や白の地味な傘に混じって、どう考えても見落とすはずのない真っ赤な傘の柄が生えていた。
そんな、誤魔化すのが下手なところも、私には好印象だった。
私も下駄箱から取り出したローファーに足を通して、泥落としマットの上でなにやらふわふわと揺れている生桃に追いついた。
「ごめん、待たせた」
儀礼的にそう詫びると、生桃はふざけた様子で頬を膨らませて、腕組みをしてみせた。可愛らしかったけど、それを「はいはい」と軽く流して校舎の外、夕焼けの中へと歩き出す。生桃も、笑いながら私に続いた。ピーチの香りが、再び色を増す。
「
「そうだなぁ……。私はいいかな。いざとなれば職員室で貸し傘借りるし」
いざとなれば、の後ろは、少し照れくさくて嘘をついた。
いざとなれば、生桃が入れてくれるでしょ。だって、友達なんだから。
可愛らしいキーホルダーのぶら下がったスクールバッグの中になにが入っているのか、私は知っている。
封筒だ。ワンポイントのサクランボが可愛らしい洋形の封筒。
そして、ただ急いで鞄に突っ込んだだけの生桃は知らないであろう、封筒の中身すらも。
中にはチケットが入っている。来週末の土日だけ美術館で催される、生桃の好きなポップカルチャーの特別展。そのチケットが、一枚だけ。
そして、私の家の引き出しの中には、同じチケットがもう一枚入っている。しっかりと鍵のかかる引き出しの、そのさらに奥の方。便箋や封筒に混ぜ込むようにして、極彩色のあしらわれたそのチケットは息をひそめている。
生桃は気付いていないと思うけど、この手紙を出しているのは、私だ。
* * *
『
そこに自分の名前を書かなかったのは、私がずいぶんと臆病になったからだ。
生桃のことを認識したのは、高校二年生の春のことだった。それまでにも廊下ですれ違ったり、視界に入ったことくらいはあったんだろうけど、一人の人間として初めて意識したのは、クラス替えで同じクラスになった時だった。
始業式の翌日、ロングホームルームの時間に、新しく担任になった若い先生に促されて一人ずつ一分程度の自己紹介をすることになったのだが、黒板の前に立った生桃を見たその時に私の胸の内で湧き上がってきた気持ちは、懐かしくって、瑞々しくって、既知のものだった。
それは、予感と言い換えてもよかったと思う。これから毎日が楽しくなるだろうと、退屈なんて忘れてしまうくらいの、刺激的で、身じろぎするたびに肌を刺激するような日々がやってくるのだと。
人間は、大きく二種類に分類することができるのだと思う。
好きになったものは手元に置きたい人間と、好きになったもの自体になりたい人間。
子供のころの私は、その前者だった。
身体が弱く、入院していることの多かった私は、病院の近くに住んでいるお姉さんに一目惚れをしたことがある。それで、ラブレターで告白して、一丁前に恋人になりたいだなんて望んだ。小学生の恋なんてお遊びの延長か、出来の悪いドラマの真似事みたいなものでだったけれど、それでも可愛いもの好きのお姉さんは、私のことを可愛がってくれた。
それを、無邪気な私は勘違いしてしまったのだ。
また来るね、と約束したお姉さんは、春を待たずしていなくなってしまった。ただの可愛がる対象でしかなかった私には、一言も告げずに。
四月になり、五月になり、一向に会いに来てくれないから、私の中でだんだんと心配の種は芽を出し、根を張り始めた。だから、相談することにした。そんな年齢でも、一丁前に恥ずかしいと思う気持ちはあるようで、ラブレターのくだりなんかを全部カットするなんて小細工はしたものの、お姉さんのことをお母さんに打ち明けてみたのだ。
お母さんは、町の小児科で看護師をやっている。だから、本当はいけないことだけど、こっそりとお姉さんの名前を探してくれたらしい。
結論を知ってしまえばなんてことはない。お姉さんは高校を卒業したのだった。
年齢的にそうなんじゃないかと聞いた時には、あまりの衝撃に耳から音が遠ざかっていくのが分かった。おそらく、どこか遠くの大学にでも進学して、それで私とは会わなくなったのだろう。
そんな可能性にも気付けなかったのは、当時の私にとっては旅立ちよりも病気のほうが身近で、別れなんてものをほとんど知らなかったからだと思う。
結局、お姉さんは私と本気で向き合ってなんかいなかった。無責任に約束をして、私を期待させるだけ期待させて、いなくなった。挨拶ぐらいできたはずなのに、それすらもせずに。
それが、私の初めての失恋だった。向こうからすれば、好きになったものを求めるだけのそれは、恋に見えてすらいなかったのかもしれないけど。
単純だって言われてしまえばそれまでだけど、その一件で私は疑うことを覚えた。向けられる言葉や気持ちには、裏があるかもしれないと。嘘が混じっているのかもしれないのだと。
怖かったのだと思う。求める気持ちが、また叶わない時が来ることが。だから私は、好きになったものへと変化する人間になったのだと思う。あの時のお姉さんみたいに、大好きだったお姉さんみたいに、割り切りが良くって、可愛いものが好きな人間に。
だから、生桃に好意を抱いた瞬間に脳裡をよぎったのは、あの時のお姉さんだった。きっと、あのお姉さんが私を適当に愛したように、私もまたこの子を適当に愛してしまう。そんな予感があった。
きっと、これは伝染病のようなものなのだ。可愛くって無垢なものを、身勝手に、無責任に汚してしまう病気。そんなものを、絶対に、うつしてはいけない。
純粋だった、疑うことを知らなかったころの私を思い出す。あの頃の私は、どうやって気持ちを通じ合わせようとしていただろう。そうやって記憶の糸を辿っていった先にあったものが、手紙だった。あの日のように、衝動だけで紡いだ言葉たちだけならば、愛せるような気がした。
今は私だと悟られたくない。だって、上手く愛せる気がしないから。
だから、手紙を出したのだ。
投函するポストは、生桃の下駄箱。思ったよりも緊張はなかった。帰宅部の生徒は既に下校していて、部に入っている生徒は部活動真っ只中の時間帯には、ほとんど下駄箱に寄りつく人はいなかった。手早く蓋を開け、上履き入れの方の段に封筒を滑り込ませると、得も言われぬ達成感と、少し遅れて、それとはまったく反対の、冴え冴えとした気持ちが私の中に湧き上がってきた。
後者の気持ちに、私は困惑した。どうして、好きだと伝えられたのにこんな感情がやってくるのだろう。幼き日、お姉さんにラブレターを手渡したときには、こんな不純物は混じっていなかったはずだ。
その正体に気付いたのは、一か月ほどしてからだった。
文通は、一週間に一往復くらいのペースで続いていた。差出人を明かしていなかったので、やりとりは全て生桃の下駄箱で行われていた。恋愛という意味での好意から始まった文通だったけれど、少しずつ私たちは文章を通じてお互いのことを知っていったように思う。くだらない話だけど、文章を飾るハートの記号に一喜一憂してみたり。
それと同時に、意外なことに私は日常生活でも生桃と仲良くなっていた。きっかけはなんてことはない。クラスの帰宅部が私と生桃の二人だけだったので、単純に一緒に行動することが多かったのだ。
思いがけない幸福を味わう毎日だったけれど、私の凝り固まってしまった表情筋は、素直にそれを表現してくれない。結局、うまく気持ちを表に出せずに、仲のいい友達という関係に落ち着いてしまった。メッセージアプリで友達登録もした。そのアイコンが可愛らしいクマのキャラクターになっていて、そういえば私が好きになったお姉さんも、クマにちなんだ名字だったなと、そんなことを思い出したり。それはそれで、夢のように幸せな時間なのだが、私は知ってしまっていた。
手紙の主である私は、彼女ともっと深いところで繋がっている。恋愛ができている。間違いなくそちらも私なのだが、実際の私は、友達という関係の沼から抜け出すことができずに、その術すらも知らずに、ただ慢性的な生ぬるい幸せの中に沈んでいっている。
私は、私自身が羨ましかったのだ。
初めて手紙を出したときの冷めた気持ち。それはきっと、私の中の純粋な部分だけが、彼女と仲良くなろうとしていたからだったのだ。もう疑いを覚えてしまった私は、それが私と分離したものになることを知っていた。
手紙の中で「三春さん」と名前を呼び捨てにしてしまったのも良くなかった。私はもう、面と向かって生桃のことを三春と呼べない。だって、その呼び方は純粋な私だけに許されたものだから。
だんだんと手紙の中で距離を詰めてくれる生桃が嬉しかった。だけど、それと同時に、その素敵なものがどんどん日常を生きる今の私から離れていくのが、理解できてしまった。
その手紙のやりとりを、一切私に匂わせてこないのも、苦しかった。それは手紙の私への優しさであると同時に、目の前にいる私への拒絶だった。
「今朝見たら置き傘なくなってたっぽくて、気になるからちょっと見てくるね」
そんな無理のある言い訳を並べて、秘密の文通を私から隠す。それが、だんだんと辛く、みじめになってきたのだ。
私は分からなくなっていた。今の私の気持ちは、適当で無責任なものなのか。最後まで愛し抜けるか、自信を持てずにいるのか。
少なくとも、この抑えようもない、自分自身の取り繕った無垢への嫉妬は本物だと思う。でなければ、こんな風に特別展のチケットを贈ったりはしなかっただろう。
日付は、初日の土曜日の方を指定していた。彼女に全てを打ち明けるか否かのタイムリミットを、私はその日に決めた。
鍵のかかった引き出しの中の、もう一枚のチケット。それを使うか破り捨てるかは、今、私の手にかかっているのだ。
だから、まさかこんな形で幕引きとなるとは思ってもみなかった。
* * *
金曜日の晩になっても、まだ私は結論を出せずにいた。ベッドの上から時計の針を見ると、さっき見た時から分針が半回転していた。もうすぐ夕飯の時間だけど、食欲どころじゃなかった。
顔を上げると、小学生のころからずっと部屋に置いている学習机が目に入ってきた。その引き出しの所が、今日は不思議な存在感を放っている。もっとも、私がそう思っているからそう見えるだけなんだけど。
カーテンを引いているのに、その隙間からは赤い光が忍び込んでくる。まるで、全ての光が赤い傘を通して私のもとへ届けられるように。その光は、なんとなく人を急かしてくる。急いで結論を出せるような問題でもないのだけど、その時間制限を決めてしまったのは自分だ。だけど、どこかそんな焦りすらも、私は楽しんでいた。
ああ。今、やっと私は恋愛できてるんだ。手紙じゃない、生身の私が。
だから、スマホに着信が入った時、いよいよ幻覚が見えだしたのかと思った。だけど、可愛らしいクマのアイコンに不釣り合いなすすり泣きが聞こえてきた瞬間に、一気に現実に引き戻された。
一瞬、どこからかバレたのかと思った。手紙の主が私で、自分をからかっていたと思って私を責めているのかと。だけど、電話のスピーカーから聞こえてきた声色は、それとはまったく異なるものだった。
「ごめんね。いま、ちょっと時間いいかな?」
「うん。大丈夫だけど……そっちこそ、大丈夫? なんか、大変みたいだけど」
言葉を選びながら返事をすると、生桃は弱々しく笑った。それがむしろ、痛々しい。私は余裕のある、可愛らしい生桃しか知らなかった。だから、こんな風に話すのを聞いて動揺してしまった。向こうでも言葉を選ぶ気配がある。どう言ったら伝わるか、そんな一瞬の逡巡を経て、普段の可愛らしい声が届いた。
「楽しみにしていた展覧会が、ボヤ騒ぎで中止になっちゃったんだ。放火じゃないかって」
一瞬、言っていることが理解できなかった。だけど、指は自然と通話中のスマホで検索をかけていた。私のチケットに書いてある美術館の名前と、
頭を殴られたようだった。そんな形で、私の迷いが全て無駄になるだなんて。そんなわけないのに、カーテンの向こうの赤が、私の家を取り巻く炎であるかのように感じられた。
だけど同時に、私の中でなにか、喜びに近い感情が湧き上がってきているのも感じていた。ちょうど、初めて手紙を出したときに感じた、出所不明の冷めた気持ちのように、掴み切れない喜びが。
「それは残念だったね……。七色展ってやつかな? ネットの記事見たけど、酷いね。でも、怪我人がいなかったのは幸いだったね」
私の口は勝手に語りだしていた。私がばらばらに分裂してしまったみたいだ。ああ。でも、もともと私は私に嫉妬していたんだったっけ。
「うん……。可愛い作品もいっぱいあったんだろうなって思うと、なんだか悲しくなっちゃって。それで電話しちゃった。ごめんね」
ううん、大丈夫だよ。なんて口で返事しながら、頭は快感を感じている。その正体に、だんだんと近づいていっている。
きっとこれは、優越感だ。手紙の私が知らない生桃を、私は知ってしまった。頼ってもらえた。一緒に過ごした友達としての時間だって、彼女は大切にしてくれているのだと、悟ってしまった。
彼女が悲しんでいるというのに身勝手な話だとは思う。やっぱり、私はお姉さんに似てしまっているのだ、とも。
それでも私は、どうしようもなく彼女のことが好きなのだ。手に入れたくって仕方がないのだ。私でない私がその心に近づいていくのを、絶対に許せないくらいに。
同時に、彼女がこの期に及んで文通友達のことを私から隠そうとしているのにも、腹が立った。彼女の涙の半分は失われた絵画に向けられていて、もう半分は立ち消えとなってしまった約束に向けられていた。
そうだ、約束。
信じていた約束が失われてしまうことは、形は違えど、私も経験している。そして、その経験こそが私をこんな形にしてしまった。
彼女を、同じ目に遭わせてはいけない。
涙の半分は、私に頼ってくれた。だけど、その約束に起因するもう半分は、向けられる先を未だに持たないのだ。
もはや、私のどちらが身勝手で、自己中心的なのか、分からなくなってきていた。だけど、これだけは確かに言える。
やっぱり、私は彼女のことが好きで。
そして、彼女は私のようになってもらいたくなくて。
生桃が好きなものを手元に置いておきたくなるタイプでよかった。じゃなきゃ、私のことを好きになったら、私の好きな生桃でなくなってしまうということだから。
心の中で宣戦布告をする。私は、手紙の私じゃなくって、生身の私のままで生桃を手に入れてみせる。口の中に広がった苦みは、過去の自分のものだろう。そうやって手に入れたものに、責任を持てるのか、そこに自信はなかった。
ただ、今の自分にできるのは。
「だったら、代わりっていったらアレだけど、明日は私とどこかの美術館にでも行こうよ。私、アートとかは詳しいわけじゃないけど」
その言葉を、慰めや優しさと受け取ってくれるくらいには、彼女は純粋だった。
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えることにしようかな」
そんな言葉を聞きながら、私は引き出しの鍵を開けて。
中から取り出したチケットを、勢いよく破り捨てた。
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