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  • 大変興味深く拝読いたしました。

    戦後自虐史観の史学会及び考古学会のご批判、誠に的を得ていて賛同いたします。

    私は、所謂「卑弥呼」の存在自体を疑っています。
    もし存在していたのならば、口伝や伝承そして神社など何かしらあるものだと考えています。

    宮崎に「本家邪馬台国」があった。
    それもよいとは思いますが、鵜葺草葺不合朝が存在したと考えるほうが自然なのではないかと思います。
    「魏書烏丸鮮卑東夷伝」においての「邪馬台国」描写は弥生時代(城柵、楼門など)時代が合わないのでないかと思います。
    大きな古墳が造営出来る政権なら、もはや環濠集落は必要ないのでないかと思います。

    全体的なまとめ方反骨精神に感服いたします。
    ありがとうございました。

    作者からの返信

    ありがとうございます。
    おそらく宮崎北部~大分の山中にかけて、ウガヤ朝があったでしょうね。
    今回は取り上げていませんが、それらしき痕跡は色々と残っています。たくさん神社がありますけれど、主祭神は伝承不明の人だらけだったり。
    そのウガヤ朝後裔が本家ヤマトであり、そのうち神武東征部隊が後の畿内ヤマト、と推測しています。

    環濠集落は、北部九州ですね。倭国大乱の時期に重なりますが、福岡辺りの環濠集落はあちこち埋め立てられています。敗北したのでしょう。

    弥生時代とイメージが合わない、とのことですが、そんなことは無いと思いますよ。
    例えば幸田は何度か吉野ケ里遺跡(それこそ卑弥呼邪馬台国の時代)に行っていますが、あれなど全くのインチキ復元です。いや、復元という名の捏造です。学者先生方がイメージする弥生時代像を模っただけで、どうやら何の根拠もないそうで。復元住居も櫓も柵も、全部インチキ。

    本文でも述べていますが、卑弥呼だとか伊支馬だとか、魏志倭人伝中のケッタイな人名表記に惑わされがちです。が、卑弥呼やその周囲の人名は、おそらく記紀にも記されているでしょうね。例えば幸田は、彌馬獲支がミマキイリビコ(崇神天皇)、伊支馬がイクメイリビコ(垂仁天皇)だと推測します。

  • 三世紀ころの末廬国は松浦半島にあったのではなく松浦川の下流域であったと思われます。
    3世紀には虹ノ松原付近は海の中で松浦川は唐津湾にまっすぐに注ぎ込んでいたらしいですから。
    魏使は大河を渡ることは避けて松浦川の東岸に上陸したはずです。
    糸島半島に伊都国があってそこへ向かうなら糸島半島側に直接船を向かわせたでしょう。唐津湾内に入れば海は穏やかで荷物を持って陸路を行くより船で直接前原に向かう方が合理的ですから。しかも前を行く人が見えない程うっそうと茂った草木。(海岸沿いを歩いたならそんな表現はあり得ない)
    わざわざそんな道を行くのはそれ以外に道はなかったからと考えるべき。
    松浦川の東岸に上陸して東南に500里南東に行ったら多久方面、有明海側に伊都国はあったと考えられます。
    というわけで御説に大賛成するものです。

    作者からの返信

    ありがとうございます。
    本当に、本職の学者先生方は何を議論してるんだ……と感じます。伊都国が糸島付近だとすれば、唐津湾に上陸した意味がわかりませんよね。
    糸島には何度か行きました。伊都国感、ゼロです(笑)。魏志倭人伝に書かれている伊都国イメージにそぐわないです。国内重要拠点としての地理的条件を備えていません。
    なのに伊都国で間違いない、として予算が下りて、伊都国歴史博物館なんてものが出来ていたりします。どういうことでしょうね。

  • 末盧国、伊都国は実は日本書紀にも書いてあったりしますよ?

    作者からの返信

    そうですね。
    ただ、それぞれ長崎県唐津市(松浦)および福岡県糸島市である……という根拠は、記紀をとことん読んでも出てきません。
    まあ、末盧国は唐津市である可能性濃厚でしょうけれど。「火前(肥前)国」と書かれていますし。
    ですが「伊都懸」については全く不明ですね。位置もわからないし、魏志倭人伝記載の「伊都国」と同一かどうかも不明。そもそも書紀は「伊都」と書いて「いつ」と読ませている。
    なのに伊都国糸島説が定説化しているわけです。そこが問題なんです。


  • 編集済

    考古学の問題点への応援コメント

    考古学的な物証となりうるものに、金印1つ、銀印2つがあり得ますね。
    それよりも前の時代の金印が見つかってるんだから、可能性は3倍はあるハズ(笑)

    追記です
    銀印のソースをと言う事でしたが、もちろん魏志倭人伝に書いてあります。
    卑弥呼には金印が贈られていますが、使者として行った難升米、都市牛利はその労を労うため銀印青綬を受けています。

    原文
    今以難升米為率善中郎將 牛利為率善校尉
    假銀印靑綬 引見勞賜遣還

    この銀印以外にも魏志倭人伝には+8個の銀印が贈られてる可能性もあり合計すると
    金印1個、銀印10個が日本のどこかにある(潰されてなければ残ってるかもしれない)

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    ん? 銀印というのは初耳です。
    ソースをご存知でしたらぜひ教えて下さい。
    ちなみに金印は、持ち運び可能というのが厄介なんですよね。もし見つかったとしても、出土位置イコール、奴国(委奴国?)あるいは邪馬台国とは限らないわけでして。……
    なお福岡志賀島出土の金印も、そもそも贋モノである可能性濃厚です。出土時の状況もアヤシいし、刻字の技法が古代のものではないのだとか。
    ですので考古学情報をどう解釈するべきか、というのは非常に難しいですね。


    追記
    ソースご提示、ありがとうございます。
    ホントですね。ちゃんと明記されてるじゃないですか(驚)。何故か見逃していました。
    ……つかその銀印青綬について言及している人自体、全然見かけないですね。琉球王がもらった銀印に関しては有名ですが。

    編集済
  • 卑弥呼様が降臨してアレの証拠隠滅を頼まれちゃった~
    を先に読ませていただきました。着眼点や構成も面白く楽しかったです。また、自分の見落としに気付かされたこともあり、ありがとうございました。

    ただ、この部分に引っかかりましたのでいらん世話かもですが
    >>「半島南岸狗邪韓国から宗像付近への上陸を目指すなら、対馬-壱岐ー宗像ルートではなく、対馬ー沖ノ島-宗像ルートを辿った筈だ」
     というわけです。先般、世界文化遺産に登録された、あの沖ノ島です。

    壱岐-宗像の関りは深く宗像氏が壱岐守護を勤めていたり宗像神社が壱岐や対馬南部に多かったりとか、中間地点にある小呂島が宗像大社領だったり、神功皇后や元寇などを調べられるといろいろ出てきますよ。鐘崎の織幡神社は代々壱岐氏が神職だったりとか、壱岐にルーツがある方が宗像には多かったりとか。
    まぁそれが弥生時代からの航路の絶対的な裏付けになるかは何ともですが…。ちなみに宗像から壱岐は目視できます。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。大変励みになります。
    宗像氏と壱岐の関わりというのは、不勉強にして考慮不足でした。ご指摘ありがとうございます。
    結局、総合判断つまり「蓋然性」ですね。幸田が末廬国宗像説を採らないのは。
    当節の後に続く「伊都国」の意義を考えると、末廬国唐津説に軍配が上がると考えているわけですが、その辺の解説が拙速だったかもしれません。もう少し練ってみます。

  • 吉野ヶ里遺跡!
    Wikiにも「3世紀頃に最盛期を迎える」と書いてある、あの吉野ヶ里遺跡!
    3世紀=西暦201~300年。
    魏志倭人伝にある難昇米の魏朝来訪は西暦238年!
    なるほど、これは説得力がある!!

    作者からの返信


    結城藍人ゴツトツコツさん、コメントありがとうございます。
    詳しくは次節での説明になりますが、佐賀平野は昔からひらけていたっぽいですね。3世紀(卑弥呼邪馬台国時代)の大規模集落は、おそらく吉野ケ里だけではないだろうと言われています。