三世紀ころの末廬国は松浦半島にあったのではなく松浦川の下流域であったと思われます。
3世紀には虹ノ松原付近は海の中で松浦川は唐津湾にまっすぐに注ぎ込んでいたらしいですから。
魏使は大河を渡ることは避けて松浦川の東岸に上陸したはずです。
糸島半島に伊都国があってそこへ向かうなら糸島半島側に直接船を向かわせたでしょう。唐津湾内に入れば海は穏やかで荷物を持って陸路を行くより船で直接前原に向かう方が合理的ですから。しかも前を行く人が見えない程うっそうと茂った草木。(海岸沿いを歩いたならそんな表現はあり得ない)
わざわざそんな道を行くのはそれ以外に道はなかったからと考えるべき。
松浦川の東岸に上陸して東南に500里南東に行ったら多久方面、有明海側に伊都国はあったと考えられます。
というわけで御説に大賛成するものです。
作者からの返信
ありがとうございます。
本当に、本職の学者先生方は何を議論してるんだ……と感じます。伊都国が糸島付近だとすれば、唐津湾に上陸した意味がわかりませんよね。
糸島には何度か行きました。伊都国感、ゼロです(笑)。魏志倭人伝に書かれている伊都国イメージにそぐわないです。国内重要拠点としての地理的条件を備えていません。
なのに伊都国で間違いない、として予算が下りて、伊都国歴史博物館なんてものが出来ていたりします。どういうことでしょうね。
勿来関(なこそのせき研究会の清流と申します。伊都国についての見解は全く同感です。私も『邪馬壹国女王の都を計測する』を書きました。また『周髀算経』からの「影寸千里の検証」も書きました。唐津港付近から38Km東南は佐賀城址にほぼピッタリです。要人、検察は現佐賀城址で吉野ヶ里は伊都国人のベットタウンでしょう。・・・
ということをかつてかきました。
『周髀算経』には現代でいうところの南北の「影倍率」= 1/80 の影差が記載されているので、正しいのです。これを大抵の設計事務所で持っている日影曲線図作成のソフトで確認すればだれでも千里は75Kmから77Kmの範疇になります。伊都国までの500里には「余」の字がありません。また倭人伝は八方位です。算経には東西南北の出し方も書かれてあります。この方法でやれば倭人伝の里数、方角、島々もすべて正しいことが分かります。倭人伝を素直に読めばよいことです。伊都国について全くの同感者に嬉しく思い陸奥の国の玄関より一文を書きました。勿来関研究会HP