「伊都国」こそが混迷の元凶

 卑弥呼邪馬台国はどこにあったのか、という問題は、昔から多くの学者やアマチュアが研究し尽くし、それでも未だ結論が出ません。混迷を極めています。

 その理由は何か。――

 そういう場合は大抵、誰もが正しいと思っているところが、実は間違っているものです。


 誰もが正しいとみなしていて、定説化し、再検討しない。それでいて謎解きのかなめと言える場所。――

 それが「伊都国」なのです。魏志倭人伝には、九州上陸地点たる唐津湾末廬国について説明した後、

「東南陸行。五百里。伊都国にる」

 と記述されています。で、現代ではそれを福岡市の西側、糸島市付近と比定しており、定説となっています。


 ん!? ちょいと待っておくんなせえ(笑)


 地図を御覧下さい。糸島市って、唐津湾の東南……ですか?

 違いますよね。概ね北東です。方角が丸っきり異なるのです。おまけに距離も、五百里(40km弱)どころかその半分程度しかありません。

 これはどういうことでしょうか。


 距離に関しては、まあ誤差の範囲だと言えます。当時の陸路がどのように走っていたかは不明ですから、五百里とざっくり記述されている点にそれほど違和感はありません。

 ですが方角に関しては、如何ともしがたいのです。なにしろ空を見上げれば太陽が見えますから、北東を東南と見誤る可能性はまず有りません。


 つまり、定説とされている「伊都国=福岡県糸島市」説こそが、邪馬台国論争における最大の誤りだというのが、幸田の主張です。

 かつ伊都国は、魏志倭人伝記述をみるに、正に卑弥呼邪馬台国に次ぐ国内重要拠点です(後述)。しかしそこを誤っているのですから、謎解きが上手くいく筈がないのです。


 なお、次の国については、

「東南、奴国に至る。百里」

 とあります。伊都国の東南に百里が、奴国だという意味です。さらに、

「東行、不弥国に至る。百里」

 東へ百里の位置に不弥ふみ国があると書かれています。


 三者は、千戸強の伊都国、その東南7km強に二万戸オーバーの奴国、さらにその東7km強に千戸強の不弥国……という位置関係、都市規模となります。


 なので学者達は、

「伊都国は、古くから『怡土いと』と呼ばれていた糸島市付近で間違いない」

「その隣、福岡市は昔から拓けていたし、各地に古くから『』という地名があるから奴国で間違いない。おまけに『漢委奴國王』印(金印)も出土している」

「あっ。その東隣には、不弥ふみ国を連想させる宇美町(福岡県糟屋郡)もあるじゃないか。三者の位置関係は魏志倭人伝の記述通りだ。うん、間違いない♪」

 と唱え、そこで思考停止しているわけです。


 いやいやちょっと待って。


 伊都国は、まず方角を決定的に誤っていますよね。

 また「伊都」を「いと」と発音した証拠はどこにもありません。むしろ「いつ」「いづ」が正しいのでは?


 「国」も同様です。「の」又は「ぬ」「ず」の方が正しいのでは?

 確かに奴国比定地たる福岡市周辺には、「那の津」だとか「那珂川」といった「な」の文字を含む地名等が点在します。しかしそれはあくまで海を表す文字に過ぎず、「国」由来とは限りません。


 そして不弥ふみ国。これは伊都国―奴国の位置関係から宇美町付近と推測したに過ぎず、両者の位置が誤っているとすれば、不弥国宇美町説はあっさり崩れます。


 ですので伊都国に話を戻しますが、そもそも「伊都」を本当に「いと」と発音したのでしょうか。実は「いつ」「いづ」ではないのか。

 これについては、全く調べようがありません。前章にて解説した通り、今や古代の漢字発音についてさっぱり判らないのです。

 強いて言えば漢音、つまり唐代の長安周辺の発音が「都=つ」だと考えられることから、

「伊都=いと、と発音していた可能性はある」

 という程度に過ぎません。


 また、当地が昔から「怡土いと」と呼ばれていた件も、文献で遡れるのは10世紀初頭の「延喜式」までです。

 それをもって、

「卑弥呼邪馬台国時代(3世紀)もそうだった筈」

 とは断定出来ません。


 というわけで、そもそも魏志倭人伝記述の発音すら不明ですし、根拠として弱過ぎです。

 伊都国-奴国-不弥国のトリオは今日、諸々の思惑有りきで事実上の定説と化していますが、実は極めて脆弱なのです。


 不思議なことに、決定的な誤りと思われる伊都国の方角問題について、学者先生方の邪馬台国解説本には何の言及もされていません。

 幸田は図書館(ここ福岡市の総合図書館は規模が結構デカい)の邪馬台国本を読み漁り、そこに首を傾げます。

「実は方角が、魏志倭人伝の記述と異なるんだけど……」

 と明記された本を、ひとつも見つけることが出来ませんでした。


 何度か述べたように、陳寿という人は、当時としては随分としっかり基礎資料を分析し、注意深く三国志を編纂したと言われているのです。ですから高い評価を得ているのです。そんな文献の方角記述が誤っている蓋然性は、いかほどでしょうか。

 距離が多少アバウトだとか、人名がイマイチ信用出来ないだとか、文化風習に関する記述が足りない……などといったイチャモンは比較的つけ易いかもしれません。しかし方角が根本的に誤っている、というのは考えにくいのです。


 にもかかわらず、方角記述が間違っていると言ってみたり、ハナっから方角問題を無視したり。……

 本来の謎解きとは別の謎が、そこに潜んでいるようです。

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