伊都国が判れば畿内説は自然消滅する

 伊都国を福岡県糸島市周辺と比定するのは、誤りではないか。――

 筆者幸田がそう考える、もうひとつの大きな理由は、前章でも述べた考古学的見地によるものです。つまり、

「比定地糸島市及びその周辺に、伊都国説を推せるだけの考古学的物証に乏しい」

 という点です。


 の地には、弥生時代の遺跡が多数存在します。

 海際の平地で田んぼばかり。ですので昔から考古学調査も盛んで、多数の遺物や古墳が調査されています。

 しかし、だからと言って、

「伊都国比定地と言うには、少々根拠が弱過ぎるのではないか」

 と幸田は感じるのです。


 まず何より当地は、卑弥呼邪馬台国時代直前に衰退していた事が判明しています。集落の環濠(環壕)があちこちで埋め立てられた形跡があるのです。これは福岡市及びその周辺も同様です。

 つまりいくさに敗けて、埋められたのでしょう。時期的に「倭国大乱」のタイミングだと考えられています。北部九州とは正に、卑弥呼邪馬台国に服従した勢力の地なのです。


 当地に中小の古墳が多数点在します。ただし、それらはほとんど、卑弥呼邪馬台国時代より後の物だと考えられています。ですから考古学的成果に伊都国のイメージが見えてきません。

 ほぼ唯一の例外は(強いて言えば、ですが)平原ひらばる王墓でしょうか。直径46cmという巨大な鏡が出土した事で有名です。


 ですがこれも、卑弥呼邪馬台国との関連を思わせるような物ではありません。出土品は全般的に、邪馬台国よりもむしろ海外との交流の深さを感じさせられます。

 そして古墳のサイズ自体も小ぶりです。14m×12mしかありません。詳しくは後述しますが、幸田は宮崎出身で、県内に多数残る100mクラスの初期型前方後円墳を多数見ています。ですのでそこに違和感を覚えるのです。糸島が邪馬台国の重要拠点たる伊都国であれば、もっと大きな古墳が多数ありそうなものではないか、と。……


 結論を言うと、かつて当地に「けんか大六」という異名を持つ、ジャイアン(笑)がいました。

 いや、立派な学者さんですよ。原田大六という方です。一生涯を賭けて当地の古代史を研究しています。

 この方が過去に、デカい声で糸島伊都国説を唱えたので、学会がそれに従ったのでしょう。


 そして何より、伊都国が糸島付近でなければ、邪馬台国畿内説が根底から崩れるのです。

 畿内説は皆さんもご存知の通り、方角が完全に誤っていますし、距離にも大いに疑問があります。その上国内拠点たる伊都国の位置まで誤っているとすれば、もはや畿内説は完全に成り立たないのです。どう頑張っても近畿地方には行き着きません。


 いや、それどころか北部九州説も崩れます。

 北部九州説の根拠は、

「卑弥呼邪馬台国までの距離が、帯方郡-伊都国までの距離を差し引くと千数百里しか残らない。つまり卑弥呼邪馬台国は伊都国から近距離にあった。北部九州から大きく離れる筈がない」

 というものです。ですからもし伊都国が、福岡県糸島市周辺ではなく全く別の場所にあったとすれば、畿内説のみならず北部九州説までもが木っ端微塵に崩れるのです。


 学会が原田大六氏の説に賛同したのも、そういった思惑があったのかもしれません。

 幸田は主張します。

「方角の問題はどう説明するの!?」

 と。……

 しかし今日、いつの間にか糸島伊都国説が、

「疑いようのない事実」

 とされ、多額の予算が下りて伊都国歴史博物館等が整備されました。何とも不可解な話です。


 ちなみにもう一つ付け加えると、福岡奴国説も、考古学的物証といえば金印だけです。

 ですが金印は、

「元々あの博多湾志賀島にあって、全く移動しないまま江戸期に発見された」

 と断定出来る根拠はありません。あちこち何度も移動された挙げ句、志賀島で見つかったに過ぎない……という可能性も充分あり得るのです。金印出土イコール、そこが奴国であるという証拠にはなり得ないのです。実際、

「あれは海中から見つかったのではないか?」

 という説もあります。


 結局のところ、糸島伊都国説は全くの誤りなのです。同時に福岡奴国説も誤りです。

 おそらく学者先生方が、それを一番解っている筈です。解っていないとすればアタマ悪過ぎます。論理思考力ゼロ、学者失格ですよ。

 ですがそれを認めると、長年派閥総出そうでで掲げてきた「畿内説」「北部九州説」を降ろさざるを得ません。だから糸島伊都国説をうやむやのうちに認め、

「未だ決定的証拠なし」

 として「畿内説」「北部九州説」双方で出来レースプロレスに打ち興じているのです。


 なので今こそここで、幸田は彼らに引導を渡したいと思います。

「直接的間接的に税金で食わせて貰っている人間が、そんなイカサマを続けていて良いのか?。モラルはどこへ行った!?」

 と、強く問いたい。

 全員、素直に謝りを認めた上で一から出直すべきです。


 というわけで、伊都国について幸田の結論を述べます。

 魏朝御一行様が海を渡って唐津湾末廬国付近に上陸し、そこから東南五百里(40km弱)へ向かいました。

 どこでしょうか。――


 地図を御覧下さい。東南五百里は一目瞭然。候補はほぼ一択です。

 つまり、あの有名な吉野ヶ里遺跡がある、佐賀平野なのです。

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