ポラリス 海の香り

サタナエル

海の香り

五歳の頃のあたしは人生で初めて家出をした。

原因はお母さんがあたしのお気に入りの本を奪って捨てたからだ。

大人はすぐに自分の嫌なものを捨てる悪い癖がある。

それが子供にとって大事なものであろうとも。

大事な絵本も漫画も全部だ。

捨てられたものはしょうがない。

代わりに手に入れたのは海の香りがする小さな瓶だった。

「きっとこの香りは日頃のストレスを解消できるんだな」

カケルはそう言いながらあたしに笑い掛けた。



海の香りがする瓶を砂浜で落とした。

あたしが六歳の誕生日にカケルから貰った大切なものなのに。

デニムのショートパンツのポケットにも瓶はなかった。

あたしはスニーカーと靴下を脱ぎ捨てて波打ち際を急いで探した。

どこにもないなんてことはないよね…。

打ち寄せる波が容赦なくあたしの足を濡らす。

カケルから貰ったものを失くすなんてどうかしてる。

誰かがあたしの髪にそっと触れた。

その手は女の子だった。

「レミちゃん、こんなとこにいたのー」

振り返ればその女の子はリマだった。

リマはカケルのいとこである。

「瓶ならあたしがたまたま見つけたよ」

リマの手には確かに海の香りがする瓶があった。




あたしは集団が苦手だ。

彼氏であるカケルといつも共に行動してるのでリマとなると余計億劫な気分になる。

「レミがリマの事意識してるみたいでなんか俺の立場がないな」

カケルはあたしにそう囁く。

「女同士でそんなのなくない?」

リマに意識なんてしていない。

水族館にいた時に見たクラゲやペンギンを絵に描いてみる。

あたしは絵が下手なのだ。

ピカソが絶叫するくらいの下手なのだ。

クラゲの種類は様々である。ミズクラゲやタコクラゲは可愛い。

プカプカ浮いているタコクラゲ達を見てカケルがあたしに言う。

「こいつら可愛いよな。レミと俺のペットにしないか?」

「この子達はもともと海にいたんだよ。こんな水槽にいるより自由な海で暮らしたほうがストレスなく過ごせると思うんだけど」

「レミって本当に素直じゃないよな。一理あるけど」

クラゲだけでなく今度はペンギンの泳いでる水槽も2人で見た。

アクリル越しで見るケープペンギン達。

よちよちと歩くペンギン達は可愛い。

一匹だけ群れないケープペンギンを見てカケルが無邪気に笑う。

「なんかあのペンギン、レミみたいだな」

「そうだね。あの子は海で自由に泳ぎたいって思ってる」

クラゲもペンギンも可愛い。

けれど彼らはもともと海にいたのだ。

絵に描いてみたタコクラゲは超絶に下手だった。

ケープペンギンもだ。

「描いてみたけどこれ、駄目じゃない?」

あたしは自分の描いた絵をカケルに見せる。

中学生の描いた絵というより幼稚園児の描いた絵にしか見えない。

「レミらしくていいんじゃないか?俺は結構好きだけどな」

カケルはあたしの髪をくしゃくしゃにしながら笑う。

「カケルが言うんなら…」

この絵だっていつかは記録になるかも。


リマはいつものように明るくあたしに話し掛ける。

「でねー。隣の森田がフラれてさー」

「進路も全然悩まないで高校に行けたらなー」

図書館で読んだ推理小説の事を密かに思い出す。

推理小説なんてもう読まない。

あたしは難しいのが好きと周りの友達に公言してたのにいざコナンドイルを読むと頭痛がした。演劇だとシェイクスピアにチェーホフ、普通の小説だと漱石に鴎外と楽しめた。推理小説と物理の授業は社会科や公民の授業くらい憂鬱な気分になる。

「推理小説だと確かに余計頭を使うからね。先生も読めないで挫折したもんさ」



カケルとデートした日にあの水族館にもう一度行くことにした。

カケルはあたしの手を繋いで館内を歩く。

「あれを見ろ」

カケルがクラゲのいる水槽を指差す。

クラゲ達がライトアップされてそこにいる。

「綺麗…」

思わず息を呑む。美しい。

「俺はレミにいつも笑顔でいてほしいんだ。そのために俺はレミの隣にいるからさ」

カケルに抱き締められながらあたしは頷く。

「そうだよね。あたしがカケルのそばにいなくちゃ」

あたしはずっとカケルの隣にいる。

純粋さを失う前の五歳の頃の自分に別れを告げるようにあたしとカケルは未来に歩く。




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