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真花

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 目の前で起きていることは事実だが、俺の記したことが史実になる。

 こんなにも人数が居ると言うのに、牢の石壁は冷たい。ドクニンジンを飲んだソクラテスの命の灯が消えるのを待ちながら啜り泣く、他の弟子達をさっと眺めながら、プラトンは寄っかかった背が冷えるのを感じていた。

 ソクラテス師は彼の思想を文字にしなかった。「会話が死ぬ」からと言う説明をされていたが、俺には別の意図があったように思う。きっと師は否定するだろうが、思想は本人が語るよりもずっと、他者がそれを語った方が説得力がある。その効果を狙っている。俺がそう思う理由は、この処刑の段取りがソクラテス師自身によって決められたと言うことに因っている。もちろん公式には裁判の結果に従って行っているのだが、それは賄賂でどうにでもなるのだ。脱走することだって出来る。それなのに師は弟子が脱走するために集めた金を、死刑の執行の手順を変えることに使った。

「ソクラテスは死亡した。プラトン以外の者は外に出るように」

 官吏が宣言するのと同時に俺は出口に近い者から順に幾ばくかの金を握らせる。これは賄賂ではないが、純然たる感謝の金でもない。言わば、これからソクラテス師と二人になる時間を貰うための金だ。

 全員が退出したところで、官吏と獄卒にも、多めの、金を渡し、彼等が遠くまで行ったところで扉を閉める。

 目の前にはソクラテス師が横たわっている。ここに残された俺は、彼にとって特別な人物だと、今し方金を受け取った人々は吹聴することになる。何故なら、これがソクラテス師の遺志だからだ。

 師の側に立つ。

「俺はきっと、あなたの一番弟子と呼ばれます。だからこそあなたの思想を文章にして、世に出します。名声は既にあなたが獲得しています。必ずやその本は多くの人に読まれるでしょう」

 そうなるための仕掛けとして、俺だけを師の亡骸と二人きりにする演出をしたのだ。それは俺への強制力でもある。師だって思っていた筈だ、自分の思想がこの世から消えてしまうことが恐ろしいと。遠い未来のことは分からなくても、俺が文章にすることで師の思想が後世に繋がる一歩目には確実になる。俺はここに誓う。師の思想を間違いなく伝えると。でも、師よ、それが終えたら自分の哲学も発表させて下さい。

 プラトンは血色の悪いソクラテスの顔を見て、決意を胸に灯したからこその、その底に流れていた悲しさを初めてその全身に行き渡らせ、ああ、涙が、泣かないと決めていたのに涙が、頬を伝い落ちる。天を仰ぐ。

「師よ! このプラトンに後のことはお任せ下さい!」

「そうだね」

 え!?

 見るとソクラテスの目が開いて、プラトンをじっと見ている。

「ソクラテス師! 生きていたのですか!?」

 ソクラテスはうーん、と首を捻る。

「いや、一回本当に死んだと思う。でも、ドクニンジンが足りなかったのかな」

「そんなことってあるんですか?」

「あったと言う事実が一つ、ここに。追加を飲めば逝けると思うから試そう」

 確かにまだ予備のドクニンジンはある。でも。

「師よ、逃げましょう。今なら誰も居ません」

「儂は裁判に従い、死ぬ。それは曲げられない」

 そう言うところに惚れたのだが、一度死に損なってもまだこうなのか。

「だけど、追加を飲む前に、死んだ先のことをお前に伝えたい」

「死後の世界はあったのですか?」

 ソクラテスは体を横たえたままニヤリと笑う。

「無になるのでも、ハデスの世界でもなかったぞ。儂は死後の世界は知ることは出来ないから恐れることも妄信することも意味がないと言っていたが、困ったことに、あった」

 いつもと同じ調子であることにホッと胸を撫で下ろす。本人は死ぬと言っているが次のドクニンジンさえ阻止すれば生きた状態で連れ出せるだろう。

「では、死後の世界とはどのようなところなのですか?」

「無ではなく、全、全てがそこにある。時間の概念がなくて、空間の概念もない。では知恵がそこに溜まっているかと言えばそれもそうなのだが、それに止まらず知識も出来事も、そして情緒も、全てがあるのだ」

 イメージが出来ない。そう言うときこそ問答法を用いるのがいい。

「師よ、行った場所は間違いなく死後の世界なのですか?」

「体感的には間違いないが、この世と違い過ぎて、同じ尺度が使えないので、証明は不可能だろう」

「しかし、師はそこを死後の世界と言います。例えば、寝るときに見る夢や、精神病者の幻覚や、詩人の夢想と違うと言えましょうか」

「言えない。しかし実際に行った儂には現実だ。ではプラトン、もしも海のずっと西に別の大陸があったとする。そこに行って来たと言う者が帰って来て、そこに大陸があることをどう納得する? 月に行った者がそこに行ったと言う証拠をどう信じる?」

「師よ、西に大陸はありませんし、月は人の手の届く場所ではありません」

「行ったと言う者の言葉を信じないのは、自らがそこにそれがあると言うことを知らないだけかも知れぬぞ?」

 さっきまで死んでいたとは思えない明晰さだ。

「行く具体的な方法と、他の者が複数名同じことを成せば、恐らく信じます。いや、自分が行くのが一番かも知れません」

「儂は行ったのだ。プラトン、お前もドクニンジンを飲むか?」

 ソクラテスの眼がギラリと光る。

「私は……」

「だから証明は出来ないのだ。だが、この後に話す話の前提として、鵜呑みにして欲しい。儂のやって来たことと完全に逆光しているが、今だけは、神を信じる無条件さで受け入れて欲しい」

「分かりました。では次に、時間の概念がないとはどう言うことですか?」

「過去から未来に向かって進む時間が、ない。だから過去も未来もごちゃ混ぜになっている。強いて言うならば、全てが今に同時に起きていると言う状態だ」

「なるほど。そう言う場所なのですね。空間の概念がないと言うのは、つまり全ての場所がひと所になりながらバラバラでもある、と言うところでしょうか」

「そうだね。中に詰まっているものは、要するに何でもってことだよ。ここまでが神の領域だから、素朴に信じて」

 プラトンは入り切らない容積を無理矢理頭に詰め込むように何度か頷く。

「分かりました」

「その中ではね、情緒の色で中のものが集合するって言うのかな、濃淡が出来るって言うのかな、塊みたいなところが出来るんだよ。悲しみの集合体とか、恋の集まりとか、そう言う感じの村みたいなのがたくさんあるんだ」

「それも神の領域でしょうか?」

「いや、さっきの前提からしたら演繹的になにがしかの濃淡が出来るのは理解出来ると思う。ただ、そのルールに関しては向こうで勝手に決まったものだから、自然の法則を受け入れるように受け入れるしかない」

 プラトンは再び頷きながら新しい情報を整理してゆく。

「そこでね、ある『熱狂』が集まっている場所があったんだ」

「熱狂ですか?」

「そう。儂はそこに吸い寄せられて、それはいつかの未来に大勢の、本当に大勢の、この国の人口よりも多いくらいの人達がただひと組の音楽隊の演奏に熱狂した、そのときの人々のこころの記録なんだ。それだけの人が一緒に熱狂したそのときが、だから幾つもの形で追体験出来る」

「追体験ですか?」

「そう。その『熱狂』の情緒の村に入ると、そうなるんだ」

 ソクラテスは今まで見たことのない上気した表情、言葉は熱く、艶がある。

「フレディと言う髭面の男性が、大きな場所で歌うんだ。色気と激しさを兼ね備えた伸びのある声。儂は初めて聞いたその歌に、そこに集まった全ての魂と一緒に、こころを震わせて叫んだ、儂はそのときに生まれて初めて裸の自分になったんだ。プラトン」

「はい」

「知性を知性と重ねて届くところは真理までかなり低い場所までだ。こころ、だよ。こころこそが大事な場所なんだ。こころが震えるか、そうじゃないか。間違いなくそれが全てだ。儂はずっと知性だけで世界を見ようとしていた。でもそれは間違いだったんだよ。世界と触れる面として知性は狭すぎる。プラトン」

「はい」

「忘れるな。こころだ。お前はお前の哲学をやれ。だが、儂が忘れたこころを、お前まで忘れるな」

 ちょっと待て。

 プラトンは迅速に自分に起きている状況を整理する。

 ソクラテス師は、死後の世界で体感したものによって、自分の命まで賭けて貫いた思想を、覆した。しかもその死後の世界は証明出来ない。でも、自分が掴んだものを、確かに俺に渡そうとはしている。でも証明不能なそれの発表は、出来ない。もしすれば俺が狂人だと思われてしまう。でも、師は最期まで新しくその手に届いたものを表明している。人生を賭けた思想を、この人は新たに真理と思えるものが見付けられたら、あっさり捨てられるのだ。

「師よ。あなたこそが真の探求者です。このプラトン、あなたの思想を確と伝えます」

「そうか」

 ソクラテスは、本当にもう、思い残すことがなくなったと言った笑顔で、プラトンを見る。

「ただ、順番はあるので、一気に全部とは行きませんが、それはよろしいですか?」

「ああ、それはお前に任せる。プラトン、何故儂が長年連れ添った思想と別れられるか、不思議だろう?」

 見透かされている。隠しても意味がないな。

「はい。不思議です」

「それが、裸になると言うことなのだよ。いずれお前にも分かる日が来るだろう」

「楽しみにしています」

「さて、そろそろドクニンジンの時間だな。プラトン、持って来い」

「はい」

 予備の器には一杯目より多いドクニンジンが入っている。さっきの蓄積分もあるから、今度こそ致死量だろう。

「じゃあな。あの世に来たときには儂のことを思い出してくれ。そうすれば会えるから」

「分かりました」

 ソクラテスは死んだ。静かに眠るように。

 プラトンはそれを報せに牢を出る。夕陽が丁度、赤くなり始めていた。あの太陽にも触れる未来があるのかも知れない。でもそれを証明することは難しい。

 プラトンは予定通りにソクラテスの思想にまつわる本を書いた。数冊目から自分の導き出した哲学も書くようになった。だが、あの日牢屋の中でソクラテスとされたやり取りについて後世に遺されているものはない。プラトンが意図的に書かなかったのか、それとも歴史の中で散逸したのかは、分からないし、証明も出来ない。



(了)

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