第3章 ホリスティック 後篇
「急」
「馬場さん!」
その声は昭の心を浮き立たす。満面の笑みが湧いてくるままに振り返り、いつまでも眺めていたい顔を見つける。じっと目を話さない。梨絵も視線をはずさない。
住宅地域で最初に昭を使ってくれた山市さんの娘である。
梨絵の兄、時人があれから昭と接触し、今も治療中である。同じひきこもり状態であった。昭のようにゲームに引き込まれたのではなく、勉学に打ち込み過ぎ将来を考えすぎ、悲観して対人恐怖になったということだった。
「症状はいろいろ出ますけどね,ボクもよくわかります、どうしてこんなに自分は、とか訳分からないでしょう。ちょっと頭の配線が偏ったんじゃないですか、絶対治りますよ,自己治癒力を確信してくださいよ」
昭は、相手のいつ髪を洗ったかわからない悪臭を気にせず、その肩に触れた。
まずはストレッチだな、と思った。つぎは深呼吸だ。そしてマッサージとリンパ節プラスツボ押しだ。
「ボクに任せてください、できるだけ頭はシャットアウトです」
一時間も施療すると、時人が、お風呂にはいろうかな、と呟いた。山市のお母さんは狂喜した。
一進一退の日々が続いたが,肝心なのはそれに心を惑わされないことである。誰かがそう忠告してくれると、ついはまり込んでいた絶望から脱出できる。
昭の両親は、口うるさくなかった。それをいいことにふとゲームに陥り怠惰に沈んだのだったが、時人の場合、万全の教育体制がしかれ、素直な時人がそのレールを問題なく進んだ時、ふと親も知らなかった現実が立ちはだかっていたのだ。
研究職に残る厳しさであった。彼がそこでひるんでしまったのは、性格やこれまで余りに庇護されてきたことからくるストレス耐性の弱さであったろう。
時人は自分を全否定してしまった。
すぐに、何か明るい色が山市家に存在するのに昭は気付いた。
時人の妹、梨絵の服や笑い声、そして時々挨拶する目と歯の輝きであった。
最初はその一瞬だけで、目が合わないようにしていた。じっと見詰めていても合いそうになるとさっとそらしたものだ。
そのうちに、時人は馬場治療院に通うことになった。梨絵がついて来た。
その時,昭と梨絵はこころゆくまで瞳を見詰め合った。はずれてもすぐにすがるように戻った、たがいの瞳の中に。
「薬はお医者さんにもらってるんですね」
院長である昭の父が、横たわった背中を押しながらたずねた。時人が頷く。
「薬は苦しみを穏やかにしますからね,言われた通りに服用して下さいね。でも一方ではね、こうして体の方から働きかけるんです。
フィードバックとかいうらしいですけどね、極端な話、犬が怖がって尻尾を足の間に入れている時、しばらく人間が尻尾を上にあげておいてやるんです。すると犬の気分がそれにふさわしいものに変わるんですよ。
ほら、ここ、背骨周囲の筋肉に強弱があるんです。こっちが凝っていて、血流が悪い、すると首筋でも同じ問題が起こっているだろう、すると脳内でも血流や活性がスムーズにいってないだろう、というわけですね。
ほらね、もう筋肉の凝りがほとんど解消しました。首の脈がはっきりしてきましたよ」
父親が適当なことを行って、時人を安心させ、希望をもたせているのを昭は観察している。やる気がこうして出てくる。それは自信へとつながる。それは成果へと結びつく。
彼ほどに勉強した人が社会にその場所を見つけられない筈が無い。試してもみないうちにすっこんでいては損だ。いつの間にか、昭は自分に向かって言っていた。
梨絵は昭と同窓のまだ大学二年だった。文化人類学を専門にしたがお情けで論文を通してもらった昭だったが、梨絵は人気のある英文学科にいて、自分に何が出来るかわくわくしながら探している娘だった。
何でもこなしてみせる、という自信に充ちていた。結婚はまったく頭に無いようだった。
時人と梨絵が並んで帰って行く姿を見送っていると、いかにも梨絵の全身からエネルギーが立ちのぼっていた。昭の身内からも何かに打ち込みたい、という充実を求めるエネルギーが湧き起こるのだった。
昭と梨絵がほどなく、当然のごとく結ばれた時、すぐに婚約という言葉が浮かんだ。結婚については、空に輝く入道雲のような、中のわからないものなのでとりあえず、お互いに離れないという意思表示のためであった。
しかし、二人の道は別れそうだった。
昭が受験勉強を始めたからである。梨絵も又、留学準備を始めたからである。
昭の目標は西洋医学を修めることだと言う。しかし本当の目的は、ホリスティックな(人間全体を診る)医療に従事することだった。
それはまだ認められたとは言い難い、代替医療を漠然と差していた。生活習慣病も癌も自己免疫病も、医学的解明や技術の改善はあるとしても、治療という面では、あるいは発症を押さえると言う面では行き詰まっている。
生かすことのみを重要視する医学において、人間の尊厳はしばしば無視される結果となる。よく死ぬことを提供できる仕組みと医者も必要だ。
一方、生きている貧しい人にとって次第に医療の格差がみえている現時点で、病の予防が第一の関心事となり、次に病を得た場合の心身の癒しと身の置き場、などの社会全体の仕組みが、すでに始まっている老齢社会において焦眉の、多数のための大問題である。
昭の勉強は日に日に進んだ。
頭が冴えるように心身共に施療しながら。
宣言した翌春には山梨の県立医大に合格した。
六年もかからずに卒業する予定だった。しかしそれからが本格的な学びと実践なのだ。
こんな昭をそばで見ていた梨絵も、将来の職業を決めた。英語教師である。しかも日本人の幼児、小学生のための教師である。
日本人がとくにエルとアールの発音のせいで聞き取りができず、したがって発話に遅れをとるのは周知の事実であり、しかもすでに一歳にしてこの聞き分け能力は完成されると言う。絶対的なハンディキャップである。
しかし、条件が整えばなんとかかなりの程度まで克服できるのも実情だった。
脳には可塑性があるのでやり方によっては希望がある。しかし問題は、そのやり方、であり、正しい発音の出来る教師であった。もちろんネイティヴをそれに当てることは必要だ。そしてもう少し、日本人向けの教材が欲しいところだ。これも差し迫った必要性である。
梨絵はそんな教材の開発者になることを目ざした。そのために自身ができるだけ完璧な知識と能力を獲得しなければならない。
世界で引目を感じずに英語で渡り合える、そんな人材をたくさん作ろう、英会話は基礎に過ぎないが,それ以上の考え方の変革を伴うかもしれない。
「でもね、あたしナショナリストじゃないから。祖国のために、とか願っているわけじゃなくて、ここにハンディを背負った集団がいるから。世界の平等に貢献するだけよ」
「うん、いいね、爽やかな立場だよ。ボクも負けないようにしなくちゃ」
二人は微笑み合った。 昭は、梨絵がもはやのんびりと学生生活を楽しむ方向にはいないことを誇らしく思った。
婚約をし、愛し合ってはいたけれども、それに依存している暇はなく、お互いの生き方故に尊敬もし合っている二人は、ためらいもなく前進した。
傍らに恋人はいないが、居るも同然なのは携帯電話やスカイプのおかげであった。
時に二人きりになれる時は、一瞬も離れなかった。そこには経済的にも援助してくれる両親の理解があった。
「りえこ、あれ、少し肥った?」
信州から昭が言った。
「うん、、、そうなんだけど」
梨絵はボストンから言った。
「そうじゃないの?」
「そうよ、ただ、ただね。あたし悪阻らしいの。それで気持悪くて浮腫んでしまった」
「ええっ、つわり、って、つまり妊娠したの? だ、だってちゃんと避妊したよ」
「わかってる。でも授かっちゃった」
梨絵は笑った。何故か授かる、と言ってしまって可笑しかった。
「授かってしまったの! そうなのか! ボクらの意思とは関係なくやってきたのか!」
「そうよ、素敵でしょ。私達の赤ちゃんよ」
梨絵はいわゆるシングルマザーであることに何ら不安を持たなかった。普通に見かけることだった。ここで産むつもりだ、と平気な声で言った。母には来てもらうかも。
梨絵の父は亡くなっているので、留学のために必要なお金は遺産でまかなえていた。勿論母親は喜んで援助をしてくれる。
実際には、やはり昭が分娩に付き添うことが出来た。医学生であり、理解している事柄ではあったが、梨絵が痛がるのにはショックを受けた。
骨盤がみしみしと開いて変形して行くのだ。梨絵自身も「あんまりだわ」と思った。そうして子宮口がやっと開き切ってからの、分娩の姿勢といい、息むうなり声といい、医者や看護師がともにはげます掛け声など、修羅と喧噪の場である。
嬰児にとっても恐らくストレスそのものであろう。突然明かりの真ん中に引き出され、肺胞が一瞬で膨らむ、命のプログラムであった。
深い息をついている梨絵の頭を昭は包み込み励まし讃えた。そして新生児が連れて来られた。もう叫んではいない。特殊な静謐な状態にあった。
初めて見る外の世界の光と陰を瞳を動かして追っている。その目はつやつやと濡れていた。
そのとき、両親の脳からオキシトシン産出の命令が溢れ出た。
二人は本能的にこれによってこの子を守り育てるのだ。
黒い無心の瞳は神の瞳のようだった。
「再びの序」
人類という集団が、いつの時代も自動的に大きな都市をつくりあげ、自然を食いつくし、森を破壊し、植民地を探し,人と自然を搾取し、宗教故に戦争が止まらず、地球を破壊する道を辿っている。
そんな人間の心は、脳の各部の連係により意識化される。あるいは無意識と関連し合って現れる。
電流が走り回り、化学物質が放出され、あらゆる反応が同時的に進行し、体からの情報が一斉に雪崩れ込み、同時に記憶が出し入れされる。
こんな脳の認知活動の解明は進んでいるのだが、こんな風な存在としての我々の命とは何であり、何のためにあるのか、それは永遠のテーマである。
昭が思うに命は細胞同士がエネルギーを交換し結びついている状態、即ちエネルギーの場である。医学の知識で細菌を叩いたとしても、その後の回復は自己治癒力のエネルギーに頼っている。
今や癌や自己免疫病など不治の病のみが残るであろう。
自己治癒力という命のエネルギーを高める医療が必要とされるはずだ。
昭のために、未知の未検証のはてなき分野が残されている。ひとつの結びつきとして神秘的なまでに関連し合う、そんな心身の仕組みを科学する、ホリスティック 第二世代である。
了
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