第4章 東天アパート 第4話 夢のように


「すみません、お邪魔します」

 カイコさんに向かって話しかける男の声が頭上から降ってきた。

 その声には小山なずさの性ホルモンに少々訴えるような感じがあった。恋愛のメカニズムにおいて外見や声、生き残る能力の優秀さなどを如何に瞬時に人は認識するのか、きっとそれについての研究はまだ道半ばだろう。第一、天下のアイドルのような存在には、おおまかに定義しての話だが、皆が認める美質があり、かつ皆にとって高嶺の花だ。それが得られない万人のそれぞれの男女が如何にして次善の、あるいはそのまた次善の人間に惚れることが出来るのか、考えてみると可笑しいことだ。

 そんなことを瞬時に小山の脳が思った時、カイコさんが彼を指差し、小山を見た。すぐに察して首にぶら下げている名札を見せつつ、

「地元で生きようNPOの赤松陽司です。始めまして、小山さん、ですよね」

と、真っ白い歯を見せた。いい色に肌が光っている。まだ二十二、三歳に見えた。

「どうして」

 小山は久しぶりに世の中の人と話すので、気持ちのままにぼんやり尋ねた。

「おととい花村さんところの豌豆の収穫をお手伝いされたでしょう。犬塚さんと一緒に」

 そうそう、カイコさんは犬塚という名前だったのだ。犬塚典子って堂々とした名前。

 小山が頷くとカイコさんもそうそう、と頷いた。赤松陽司はさっさと、失礼します、と言って大野みずさの横に座った。

「お母さん、ご苦労様です」

と、勝手にお母さん呼ばわりするのを、大野みずさが苦笑いしつつ許している。

「あそこの東天アパートで暮らしている人でですね、まあ、社会復帰の馴らしといいますか、人手が欲しいところに入って貰ってるんですよね。シルバー人材センターなんて市の組織がありましょう、シルバーじゃなくてリハビリ人材センターといいますか」

 ここ数年の経済危機のために、年齢を問わず職を失い痛手を負って、地元に戻った非正規労働者は増加の一途である。と、小園佑子から小山は聞いていた。都会に居ても田舎に戻っても資本主義の恩恵を受けられる人は少なかった。


 生産しても生産物が過剰となり、地球環境が悪化するのみ、という悪循環の現状となっていた。機械による生産システムでは優秀な人手しか要らない、自然からの生産システムは世界を分断している。過剰と、不足が同時にあった。今までの生産と消費の関係では、もうひとにぎりの成功者と、あとはスラムしか残らない。

 その後は両者の間で収奪と強奪の戦いになるほか無い。国は内戦状態となり、荒廃した国はまた環境を悪化させる。戦後の日本やドイツのように立ち直ることが出来たのは、根本的にはやはり資本主義勃興のいいタイミングの波に乗ることが出来たからであろう。


 小山なずさが猛烈社員であったころ、考えないようにしていた可能性が、静かに潜行し顕現してきた。何とかなる、とも思っていたし、誰かがいい案を思いつくだろう、とひとまかせにしていた。第一自分ひとりでどうするってのさ、個人で。政治の問題でしょ、と思っている間に金融世界が政治を置き去りにして暴走した。

 非政治的非営利的団体があることは勿論承知していたが、その活動に少し懐疑をもったり、おおいに感心したりしつつ、流されて生きてきた。赤松陽司は、内戦の一応終了したスーダンのことを語り始めていた。


 弱冠三二歳の日本人女性が、内戦後に兵士たちが所有し続ける銃器を回収する仕事をしているという。兵士としてしか生きてこなかった若者に危険な武器を捨てさせ、教育の機会を作って社会に戻す、それをDDR活動というのだ。勿論、これには国連や資金や政治が手を貸している。彼女がその国に滞在する期間も長くは無い。

 荒廃そのもののスーダン国内の視察を続けるうちに、彼女は一人の若者に目をつける。兵士を辞めて学校に行きたい、という兵士だ。勿論孤児であり、テント張りのキャンプに暮らしている。生まれて以来、環境の悪化によって希望を打ち砕かれ続けてきた。それでも麻薬などに手を出さなかったが、もう人間の言葉を信じることが出来なかった。

 彼女は、彼が学校に行けるように出来ること全てをする、と約束する。彼にとっては荒唐無稽なので、さっさと去っていく。翌日また会いに行く。兵士達は今や警察に属しているのだが、退職が許されないのだという。


 彼女はまず軍の准将に会う。それができるのは無論彼女の背後に国際的な組織があるからなのだが。

 准将は、勿論兵士は自由に辞職を決定していいと言う。

 念のため地域の軍の連隊長にも問いただす。何の問題も無いという。若者が信じていたのは根も葉もない噂だったのか。

 もうひとつ念のためその村の警察署長と話す。

「とんでもない、みんなが勝手に辞めたら組織がめちゃくちゃになるでしょう。今の身分から抜け出ることは許されないのです」

 頑として譲らないではないか。彼女は最後まで食い下がった。

「彼はただ学びたいのです。学校はできていますよ」

「アア、学校に行くのはいいのです。警察の仕事が終わったら学べばいいのです。彼の自由な時間ですから」

 彼女はこの言質をとると、即若者のもとに行った。

 経緯を語り、顔色を見る。まだ疑っている。どこまで信じればいいのか、本当に実行できるのかわからないでいる。

「あのね、私のできることはここまで。これは私の問題じゃないから。君の問題、君の人生だよ。ここからは君が実行していくのよ。君にかかっている、ひとえに」

 しばらく彼は考えていた。聡明そうな眼に次第に光が輝く。

「そうだ、これは僕の人生だ。僕がやるんだ」

 銃を用いずに生きる道を彼が自ら切り開いていけるよう、彼女は少し勢いをつけてやることが出来たのだ。

「勉強して何になりたいの」

「パイロットかな、先生かな」

「それじゃあ、よっぽど頑張らなくちゃね」

 彼の仲間が彼を見習うことを彼女は知っている。ひとりが歩き出すと次第に道が広くなる。


「ね」

と、赤松は小山の目を見た。

「運が良ければ、人間ってそんな風に前進していけるのかな。というか、運も作っていくわけよね」

 小山なずさはひとりごちた。



 まずは東天アパートの現在の住人と知り合いになる、という課題を小山はもらった。お願いですけど、と赤松は両手を小さく合わせたのだ。

 夜窓に明かりのついている部屋を確認する。自分の部屋、カイコさんの部屋の両隣にも誰か棲息している気配がある。赤松陽司がくれた名簿には名前と年齢、性別の欄はあるのだが、空白がいくつかある。

 名前にしても本名ではないのかもしれない。

 小山の左隣の仮名「大山」さん、女性三十歳前後、彼女とはもう話をした。どうした、と小山は直裁に尋ねる。世の中にどうもしない人は稀なので、失礼な質問でもない。うつ、失恋、と言う。驚きもしない。そか、と小山は言う。くっついて背中をさすってあげる。

 大山さあん、小山だよ、とノックすると顔を出して嬉しそうにしている。どう調子は、尋ねるまでもなく大分落ち着いて、こざっぱりした格好だ。

「ちょっと散歩がてらやけど、川向こうの一人暮らしのお婆さんを大丈夫か見に行かへん?」

「え、私が?」

と、世話されるのに慣れた大山さんは目を白黒させた。

「弱いもん同士、お互い様やん」

 とりあえず外の空気は気持ちいい。

「なんか食べた?」

と、小山がクリームパンをポケットから出す。

 途中のコンビニで文明の利器自動販売機でお茶を買う。

 学校でのいじめ体験のことや以前の仕事の収奪や、ボツボツ喋りつつ小さな橋

を渡っていくと少し棚田があり、次第に雑木林が増えていく。空に雲雀がうるさいほど囀っていた。風に楠の新芽の香りが混ざっている。


 お婆さんは大変なことになっていた。庭で転んだまま動けなくなっていた。もっと早く来てあげていたら、と小山は悔やんだ。骨折らしくひどく痛がって話すこともままならないでいるのを、二人で抱え起こしたが無理に動かしてもいけないと判断して、大山に頼む。

「あのな、そこら辺の人を見つけて電話を頼んで、多分救急車や」

 このうちにも電話はあるのだろうが、無断で入ることがためらわれたのだ。

 大山は意外とすばしこく動いた。さっきのコンビにまで走った。従業員に説明する間に、客の一人がもう携帯をかけてくれた。

 人間ってけっこう人助けも好きやな、面白いからやろけど、と小山は思う。


 翌日から二人は、首からぶらさげるIDカードを赤松からもらった。地域ボランティア云々と書かれている。カイコさんもエヘヘと言いながら、自分のカードを一緒にぶら下げた。

 さて、小山の右隣の部屋の、仮名右野さん、彼は神戸で派遣社員として製薬会社で営業をしていて、無慈悲に切られた。カイコさんの左の通称猫ちゃん、彼女は知的障害を持ち市道を歩いているところを保護された。右隣の実名牛山さん、彼はなんと絵を上手に描く人だった。しかし売れないままに路上で暮らしていた。

 赤松陽司が、ソーシャルワーカーらと協議して、これらの人々をこの東天アパートに住むよう取計らったのだが、普通そんなことは簡単にはいかない。それもこれも、このアパートの所有者が、自分の会社の倒産の憂き目に会い、ここを手放すことで借金を減らすことが可能となった、そんな経済的な事情が有利に働いたのだ。ひとつの幸運である。


 小山なずさは自分自身は信心とは縁遠いと思っている。しかし、仏教でも何でもいいが、社会の中に大いなるものの慈悲の手に困難の中にいる生物を救い上げてくれる、そんな組織が存在してくれたらいいな、と思うのだ。特に、その組織が魂の救済のみならず、場合によっては眠る場所と食べる物や、あるいは当座働く機会も与えることが出来れば、いまや四万人に近いこの国の自殺者を半分は減らすことが出来るはずだ。

 確かに死ぬのは個人の自由決定でもある。しかし、喜んで自死するわけではないはずだ。



 ともあれ、と小山は意欲に溢れて腕組みをした。そのためには施設と資金と人材が必要だ、広報も必要だ。

 半ば芸術家の村とでもいうものは?

 小山の脳裏にそのアイデアがひらめいた。作業場でもあるもの。生産の場であり、ヘルプサービスを与える側でもある場。


 余り行政からの援助を必要とせず、ある程度自立した組織であって、お互いに貧しくても補助しあうこととが許しあえるような、麗しい共同体。そこでは心の潤いと美への喜びを芸術が感じさせてくれるだろう。人間の尽きないアイデアも束縛を受けないことで泉のように湧き出てくるだろう。

 それは武者小路実篤のいわゆる美しい村現代版か、とうろ覚えの本を思い出した。

 小山なずさは急に嬉しくなってくるりと自転した。この東天アパートはそんな小さな多様性を花咲かすのにぴったりではないか。



二〇〇九年以来の経済破綻。自由資本主義の行き過ぎ、ないしは誤りの影響下で、人類は生き残りを賭けて必死に改革、改善を模索し、試行していた。

 架空のお金が蒸発してしまって以来、本物のお金の分配のために、結局競争原理が激しさを増していた。ふるい落とされる多数の不運な人々。彼らが有能でない、わけでは無い。運が悪かったのだ。

 いや、と小山は抗うように頭を振った。巻き込まれてなるものか、運良くも、我々は不毛な果てない競争から軌道修正したのだ。


 たとえば画家の牛山さんは、応募しては落選していた有名な画展の条件に何かが、少し足りなかったのだろう。だからといって彼の画家としての価値の絶対性に変わりはない。自然を切り取り永遠のものとする。日々その腕前は向上していたのだ。その作品は彼自身でありえた。

「牛山さぁん、時々、気候がよいときにやけど、絵を売りに行ってみる気ないか」


 元営業マンの右野さんが、当時は苦痛で仕方なかったというのに気軽に牛山さんに話しかけている。ドアから首だけ突っ込んで。牛山さんの声ははっきりとは聞こえないが、部屋の中から生活臭とは異なる匂いが出てきた。紙や絵の具、油。

 小山とカイコさんと大山も覗き込む。他の住人同様鶏がらのように痩せて髪の毛がむちゃくちゃなまま伸びているのが見えた。


 まずは身だしなみ、と頭を洗う手伝いをする。この季節、暑いといっていいくらいの日だった。その髪を緑の輪ゴムできっちりまとめる。顔の周りにたらしても、まるでキリストのようで感じがいいのだが、とりあえず印象をさっぱりとさせよう。牛山さんは嫌がるわけでもなく、ハイとか言って清潔にさせられている。

「みんなで渡れば怖くない」

と、何とカイコさんが発した。小山はその背中に自分を軽くぶつけた。


 牛山さんの絵の中にはここの窓からの景色、空と山と木々という、やたら色のしっかりした存在感あるものもあり、かと思うと夢のように美しい女や男の顔もあった。

「これもいいねえ!ほしいなあ」

 小山も大山も口をそろえて言う。牛山さんはすぐに二人にそれらの絵を提供しようとした。

「いいよいいよ、とりあえずは社会に見せに行こう。誰だって美しいものは欲しいよね。値段の問題やね」

 小山は自分が政治経済の専門家だったのを少し思い出した。



 洗濯当番の大山を残して、四人で畑の中の道を出発する。カイコさんの自転車に前後左右六、七枚の絵を取り付けた。

 人通りがある程度ある駅近くまでは三十分は歩くので、動きなれていない牛山さんはすぐにへたり出した。水を飲ませ、帽子をかぶせ、無理にサドルにまたがらせる。全員で籠行列のようにそれを支えて進んだ。

 滝野町の商店街は勿論ほとんどシャッターが閉まったままである。大きな店はスーパーとコンビニくらいで、この前までがんばっていた衣料小物屋はついに力尽きたらしい。


 駅に近い場所で歌っている二人組みがいた。

 いい声なので、ついでに聞くのもいいか、と少しだけ離れた所に陣取ることにする。

 二人組みの男の子達の声が涼しいので、買い物や帰宅中の通行人がついこちらに惹きつけられてやって来る。それを聞いたりきょろきょろすると、自ずと隣の美しい絵に目が行くという仕掛けになった。


 ひとりの初老の人がついに意を決してやってきた。

「売ってるんかな」

「はいはい、美しいでしょう。こちらが画家です。おうちに一枚飾ってみませんか」

と、右野さんがすらすらと誘う。

「いくらやねん」

「相談次第ですよ」

「ふーん、この小さな美人はいくら」

牛山さんは右野さんの耳に、六万円と囁いた。右野さんはびっくりして首を振り、

「六、千円ですって」

「ほお、そんなもん?額縁なしやけども、それじゃ」

「あ、では五千円で」

 男性は絵を手にとってぐっと近づけて眺めた。

「よっしゃ、もらっとこ。綺麗や。はい」

 ポケットから無造作に一万円札を出す。そして、おつりはいい、と呟いてすたすた去って行った。嬉しそうだ。


 みんな牛山さんをさっと見返る。彼はどんな気持ちでいるか、と。

「ありがとうございます」

と、牛山さんは笑いもせずに少しお辞儀をした。

 それから若い女性が、美しい男の絵を六千円で買って行った。景色の絵も人気があった。似顔絵書かないの、というおばさんもいる。

 牛山さんは、実はすでにコンテを描き始めていた。となりで跳ね回ったり、静かに囁いたりしている若者の姿を二本のギターと共に。

 顔が非常に魅力的に描かれていた。

 休憩に入った彼らが興味津々と言う顔で近づいてきた。

「ぼくらを描いたんすか」

「ごめんなさい、怒ってはる?」

「いやぁ、そんな人間と違いまぁす、ぼくら。涼しげですやん、シャープやし」

 歌の歌詞も書くのだろう、言葉に敏感そうだ。しばらく共通の時間をすごすうちに離れ難い気がしてきた両方のグループは、自然にどこに帰るかという話になった。若者達はとりあえず野宿だという。あさっての夜は隣の市のライブに出演するので大阪から出張してきたのだ。


 帰り道を二人増えた影法師が、東天アパートへ向かっていた。牛山さんが、

「音楽に生きてるんだ、君ら」

と、何度も感心したように言った。

 一階の端の部屋が彼らにあてがわれた。一応楽音的騒音を立てる可能性があったので。


 実はもうひとつの小さめの影が彼らの後をついてきていた。やせ細った十歳位の少年である。継父が彼を虐待する、というまるで新聞種そのものの境遇にいるらしい。彼は新聞の見出しを読んで自分の状況を理解し、勇気を出して逃げ出したのだ。

「そうなの、偉かったやん。新聞も役に立つもんやね。よく出てきたね。ここに住んだらいいよ。ソーシャルワーカーに話してあげるから」

と、小山が言った。自分の部屋に連れて行った。自分が産んだかりなが幸せなように、この子が幸せに暮らせるよう親身に尽くしたかった。


 地元で生きようNPOの赤松が太陽のような笑顔を見せて小山のドアをノックしたのは翌日の夕方である。

 もうひとつの顔が小山のわきの下からのぞいているので、赤松の顔は笑顔から驚いた表情に変わった。小山はニヤ、と笑った。

「小山さんの子?」

「そんなわけないでしょ、一晩で出来る?」

と、冗談さえ言う。その目にはしかし涙がにじんできていた。


 赤松は見なかったことにしてくれるという。少年をしばらく小山に預けた。

 そうなると、ますます生活資源がやはり問題だった。

 赤松は彼らに里山手助けの仕事をせっせと回すことにした。晴耕雨読のような生活になった。敷地の前には自前の畑を作ろうと、誰彼が暇なときに耕したり水をやったりする。きゅうりやトマト、小松菜、ねぎ、韮、植えるものには事欠かない。


 カイコさんと大山がセットになって、孤老介助と、それが無いときは空き缶新聞集めに回った。普通の暮らしをしている界隈でも、それらの廃棄物を影のように回収してくれるのを待つ人が多かった。

 牛山さんの絵には似顔絵も加わったので、珍しがられた。カイコさんの仏の木彫りも並べた。


 音楽家たちは本拠地を東天アパートとして活動した。CDも小規模ながら製作しているらしい。何よりも音楽が好きで、音楽を食べて生きていた。

 みんなが忙しいときは、猫ちゃんが少年、カズちゃんの相手をしてくれた。実はカズちゃんのほうが世話していた。


 小山がドリルを買ってきた。すると少年は喜んで勉強するのだった。

「君、すごいな。ハンサムでスマートじゃん。優しくて賢いって意味だよ」

 小山は泣きそうになりながら褒めてやる。カズちゃんはその微妙な表情を見ている。しかし大口を開けて笑ってみせ、小山にすがりついた。アア、神様神様、心の中で叫びながら小山はしっかりと小さなやせた少年を抱きしめた。


 東天アパートにソーシャルワーカー小園佑子が配置してきたのは、驚いたことに老人と老女だった。ふたりとも人生の半分を路上で過ごしてきたのだという。そして今や人生の最後のときを迎えるというのだ。


 小山は、これはいわゆるホスピスの代わりだな、と了解した。しかし、どうすればいいのか。年若い連中は回復していくが、死んでいくひとに自分が寄り添ってあげられるのか、見当もつかない。

 すると、母の大野みずさが手伝いを申し出た。自分は例によって夫に縛られているので使い物にならないのだが、友人で看護師の資格を持っている女性を引き込むことに成功したという。彼女自身は独身で通したため、年金はあり、時間もあり、人助けの精神的余裕もある。こうして彼女もやってきたので、一気に東天アパートは三部屋埋まった。

 医療の知識のある人物がいることは実はどんな施設にも重要なことだった。小山はさしずめ心理カウンセラーという役どころだった。



 赤松陽司と、右野さん、小山なずさ三人で町役場の支所の一室のひとつのデスクの周りでそろう機会が多くなった。


 やや元気を取り戻した若い三人、小山、大山、右野の生活保護が打ち切られそうな気配になった。完全に社会復帰できるとは小山には思えなかったし、これまでのように暮らしたのでは元の木阿弥ではないか。


 社会的弱者に空いた施設を提供する、という方法はかなり現在広まっている、と赤松は言う。財政的に厳しいのは、行政が税金を使いたがらないことにもよるが、日本では募金活動ないしは寄付という概念が一般的でないことにもよると付け加えた。


「そうやなぁ。お寺さんや神社にお賽銭を投げるのは自分のためやもんね。お寺の檀家もお寺を金持ちにするだけやしね。その点,キリスト教では自分の救いなんやけど、善人でありたい、そうすれば天国にいけるってんで必然的にひと助けっていう効果がでてくるんやね」  

「はあ、そうなんや」

と、大山がこっくりをする。彼女はコンピニでアルバイトする覚悟を固めつつあった。それを相談するためにその日支所に来ていたのだ。


 募金を募るのはひとつの実行できる考えだった。小山なずさは、赤松陽司を見つめて尋ねた。

「赤松さん、ここで私パソコン使わせてもらえへん?ネット接続してサイトを探したいと思うて」

「東天サイトをたちあげるんですか。僕も協力しますよ」

「たちあげる、というても、寄付を募るというのが目的やけど」


「わかりますよ。でもそのためには一度新聞とか取り上げてもらわないことには。つまり世間的に名を知らしめアドレスを知ってもらわないとですね」


「ふうん、やっぱりそうきますよね。そのためには何か、お金をせびるだけじゃないシステムでないとあきませんね。社会の負け組みへの施しではなくて、これがひとつの別の生き方であるような。そんな説得方法、というか、むしろ哲学かな」

と、さすがに小山も言いよどむ。



「そうかぁ。人生は確かに運不運次第ですよね。成功者は自分は努力した言うけれども、努力しても成功しない人が大部分ですもん」

 赤松も少し苦い顔を見せる。


「不運な我々が、贅沢は望まず欲も持たず、しかも運のいい一握りの人や、正規社員とか中流によって、見下されずに静かに豊かに自分の出来ることをしてこの人生を過ごしたい。怠けたいわけでもなく、社会から離脱したいわけでもなくその当然の成員として。しかも、実際今じゃ、不運な人間のほうが絶対的に多いと来てるし」

と、小山が本を読むように言う。いつの間にか、赤松陽司も不運の仲間に入っていた。


 小山なずさのここ数年音信不通であった父親が東天アパートに入居してくるという。尾羽打ち枯らしたのではない、娘がそこにいると聞いて退職を機に、身の回りのものを整理して身ひとつで引っ越してきた。といっても幾ばくかの預金通帳を持って。

 小山は思いがけなさに、尻餅をつくくらい驚いた。

 母親に対する気持ちは愛憎ともに深かったが、


 この父を小山なずさは好きでも嫌いでもなかった。消えた母親のことを一言もなずさと話さなかった。自身が何かに傷ついて心を閉ざし、妻の離反によってさらに心を硬くした父親との距離は縮まらないままだったのだが。頭がよくて根は優しい、と遠く感じてはいた。離婚後はずっと独り身を通したがその間に、娘とはつかず離れずという態度も通した。淡白な人間だったと思う。


 それに、小山なずさの忘れることもない娘かりなと父親には面差しに似たところがあった。そのためもあって父親を見ると喜びが湧いた。


 小山幸平のもたらしたものはしかし全員にとっても大きな意味をもっていた。 一階の最後の一部屋に落ち着いた後、幸平は鍋釜を揃えたのだ。しかも大釜大鍋だ。電気炊飯器ではない。ホーロー製のしっかりした大釜でご飯を炊くのだという。

 穀物は白米だったり麦が混ざったり、近くの生産者からわけてもらうのだ。ひとつきりのガスレンジで朝から全員の一日分の一升を炊く。その後すぐに大鍋で汁物を作った。

 その日手に入ったものが具である。畑の作物も使うが、食材の確保には農家の手伝いに行ったときに、現金の代わりに取れたての野菜をもらってくるという手がよく使われた。

「今日は大根と人参だけだぁ」

と、なずさは見ても信じられなかったのだが、すぐにここに馴染んでしまった幸平が庭で叫ぶ。

 混ぜご飯や雑炊、すし飯、焼き飯、メニューは結構多かったし、川や池でだれかれが釣ってくる魚も加わる。粗大ごみの日に見つかった七輪で焼き魚パーティも出来る。猫ちゃんが辛抱強く焼き当番をした。かりなに似た父と、かりなと同年齢のカズちゃんと生活することの幸せを小山なずさはしみじみと味わった。


 夏休みが終わるまでカズちゃんはここに暮らしていいことになっていた。その後は近くの施設に預けられて、そこから通学するのだろう。この瞬間がどんなに大切なものか小山なずさには痛いほどわかっていた。

 そんな夏の日々の過ぎるうちにみんなは何となく体力をつけていった。小山の免疫力も強くなった。


 それぞれが社会活動によって手にしたお金は共同の缶に入れる。それは小山幸平の部屋においてある。必要な額をそこから取ることもできた。幸平が時々自分の財布を全部空けているのをなずさは知っている。


 赤松陽司と情報を交換して、小山なずさは彼らのサイトの一部として「東天自然人サイト」をくっつけさせてもらった。赤松らのNPOサイトは地域の広報、あるいは全国的な同類サイトにリンクしている。小山なずさが、写真や人物紹介などを書き溜めていくうちに、コメントがつくようになった。応援したいという善人も多くはないが、結構存在してくれていた。たとえ千円でも、人が一日人間として生き延びられるのだ。



 カズちゃんは意外なほどあっさりして東天を巣立った。学ぶことが好きだったので学校に行けるのを喜んだ。それに、古里がこのコミュニティだということがカズちゃんの安心材料だった。小さな家族には怖い面もあることをよくよく経験していた。

「休みには帰ってくるよ、お母さん」

と、意気揚々と手を振った。迎えのバスに乗って去って行く。カズちゃんに泣かれたらどんなに辛かっただろう。


 暑く長い夏が過ぎると全員の寒さ対策が必要となる。障害者の運営する古着屋で買う意外に、家庭から出る不用品は寝具衣類その他お宝の山、という感じだった。

 昔、なずさが捨てたものは何と無用のものばかりだったことか、ただ生きるためなら。

 そのころしかし、生活のサイクルが落ち着いてきたとき、小山なずさの中で少し、欲が湧きそうになっていた。シャワー、本、鏡、携帯電話、ウォシュレット。


 しかしある夜。牛山、音楽バンドの若者らに難儀が起こった。即ち東天アパートに。

 ショバ代を要求する者がこんな片田舎に現れたのである。この連中も生活しなければならず、上納金を要求されているのだそうだ。やっと大人になったばかりのような小柄な男二人だという。ともかくいくらかでも金を払えという。結局その日に得た収入の半分、二千円を没収された。


「僕は実は空手とかできるんですけど」

「俺だってそうだよ」

「だめだめ。じかに応酬したら収拾つかなくなる」

「半分も持っていかれるとナァ」

「警察に言おう」

「やくざか。まだそんな者がいるんや」

「当たり前だよ。人類の多様性の一角?」

「そなアホナ。優生学的にいうと次第に消滅するはずなんやけど。平和が続くとな」

「だから、社会的な要因よ」

「うん、それがポイントやね」

余り筋肉も知力も発達していないような東天住人が知恵を振り絞る。

「わしが一緒に行たろ」

という声に全員驚く。ホスピスのつもりで入居した春日老人である。涼しくなった頃から、何となく生気に溢れてきた。


 もうひとりの老女秋野さんはかなり弱っている。看護師だった辰巳さんは、淋しく死なせた自分の母親の代わりのように、老女を世話する。病院の周囲だけが彼女の生活の場であって、しかも人手不足による過労のために、患者さんを人間として見ることもなく過ぎた四十年だった。


 辰巳さんのここでの新しい仕事の半分は、秋野さんの珍しい路上生活話を聞くことでもある。たくさんの野良犬野良猫、人間の赤ん坊まで彼女が世話した。次から次へとそれは途切れることなく連続した生活だった。

 辛かったのは寒さでも労働でもなく、路上生活者を自らの鬱憤のはけ口とするいわゆるぐれた少年達の攻撃だった。その犠牲者は多くあったのだ。



「あの子らの性根は腐っとってね。憎たらしいたらない。でも大部分は自分が虐げられたモンやねんな。親から無視されたんか、心がからっぽ、自分が生きられへんからやろか、自分の代わりに弱いモンを殺す」

 秋野さんは肺がんだ。弱い呼吸を荒げた。

 何が彼女を路上で生活するように強いたのか、それを語る言葉を秋野さんは持たなかった。

「誰でもなる、ちょっとしたことで。なったら最後、誰も振り向いてくれへん」

 辰野さんは看護師として脈をみながら、話し相手でありうることをむしろ感謝した。

「でもね、精一杯に生きたよ、私」

「そうよそうよ、まだまだ人生あるよ」

 秋野さんはうっすらと笑った。


 春日老人には、確かにこわもての気配があった。釜ガ崎で日々の仕事を求めた若い頃、親に仕送りが出来たりすると、男の仕事として自らを慰めることが出来た。経済が発展していく時期には結構のっていた。気づくと、賭け事、酒、トラブル、闇の世界、仁義と巻き込まれていた。その行きつく先が怖くなり、上京して山谷に紛れ込んだ。そこで目立たぬようにまじめに斡旋された仕事をこなした。


 近代までは労働力の収集派遣は「人買い」とも呼ばれたし、或いはやくざの本業でもあった。現代では派遣会社が同じ仕組みで法的に運営を行っている。

 そんな労働者のみが圧倒的に弱い立場だったのを、春日老人は今にして理解する。

 バブルがはじけた後、次第に簡易宿泊所は萎縮していった。関西に戻ってのち、春日老人は脳梗塞を起こした身を公園の青いテントから病院に運ばれ、公の容器に入れられたのである。

 最近は、リハビリの効果が目に見えてきた。長い木の枝の、手に余る程の握りの棒を杖として、ほとんど一人で歩く。


 牛山、バンドの若いもん、春日、四人で仕事に出かけた。ここは何としても、人生のすべての知恵と経験をかけて東天アパートの生存のリスクに戦いを挑まねばならない。春日老人には何の不安もなかった。今こそ彼の生きてきたことに意味が付与されるのだ。

 彼らが夜に帰ってきたとき、集団は他の住民で動ける者も加わり、それに赤松陽司も小園佑子も一緒だった。

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