第4章 東天アパート 第3話 これからの眺め

 カイコさんと翌日から行動を共にする。

 畑も家もあり、生活費の一部を都会の息子から送金してもらっているという老夫婦、ないしは老寡婦とか何人も町にはいて、ヘルパーやデイサービスとか介護保険を使う人もかなりいる。それでも孤老の生活は難しい。

 こんな村落だからこその、カイコさんの需要があったのだ。小山の想像の範囲外だったがカイコさんは無くてはならない人物になっていた。

 畑や家周囲の草抜き水遣りごみ出し、畑の手入れ野菜の洗い、柿の摘み取り、皮むき、干し柿作り、年賀状を出しに行く、一時間五百円でカイコさんの仕事は尽きることなくあった。


「そもそも創造主こそ実は諸悪そのものである。つまりエネルギーの物質化こそ!」

 こんな風な、やや希望が見えてきた日々に、突然小山なずさを襲った恐ろしい考え。

 命が、生命体が実は悪そのものであろうなどと一度も考えたことは無かった。自分が生まれたことを呪ったりしたことはあっても、自分の中の善であろうとする願いは信じていた。戦争に参加する羽目になれば或いは敵を殺すよう洗脳されるかもしれない。発生の段階で何かが起こるか、或いはDNAの変異その他の影響で、さらには生育環境の影響で、憎悪の感情や自己否定感や孤独感が募り、未発達な性衝動が暴力へ傾くことがあるとすれば、それは偶発的な不運だと思われる。個人的には性善説を何となくとっていたろう。そのほうが自分に安心するはずであるので。


 小山なずさは、では今や性悪説に襲われたのか。

「そやない、そんなひとりの私が善だの悪だの選べるよなこっちゃない。人間だけが仲間同士で殺し合いしたり、地球を壊そうとしてるから悪いとかいう次元やない。

百億年以上前の無の状態から、物質と反物質が同数生じて、対消滅する計算やったという。どんな理由であれ、わざわざ物質が残ったのは何故なんやろ。

物質があれば環境しだいでは自ずと生命が生じる。

生命が生じたが最後、条件次第では社会と文化を持つにいたるやろ。

死んだり美しかったり、殺しあったり愛し合ったり、そんなどたばた劇場を誰かが喜んで観ているんやな。人間が映画を作り、疑似体験して愉しむように?


生命は小から大にいたるまで、弱肉強食と知っているのに、他利も自己利益のためであると知っているのに、これは悪いシステムだと知っているのに、何故思い及ばなかったんやろう?これほどに複雑な悪いシステムを作ったものは誰や?

生命は、物質は、悪でしかない。非存在のままでよかったのに。

私ら物質世界は滅ぼされてしかるべきやないのか。どんな宗教であれ、生命や人間を作った創造主を崇めるけれども、それが存在するとするとそいつこそが悪魔とちゃう?神などではなくて?我らは悪の権化やんか!

はよ滅ぼそ。地球を。

そや、人間だけがみんなを絶滅させ、地球を少なくとも生命体の居られんようにすることが出来る」

 ヒトにいたるまで生命体は他を殺生するしかない。ヒトの成すべき仕事はこの地球を終わらせることである。せめて。

 そしてせめてこのヒトたるもののみが絶滅を自ら招きうる存在である。子孫を残さないように配慮すれば静かに我らが夢想も終わる。この世があるかのごとき夢想も。そして我らが無想であったことが明らかになるであろう。



「そうかぁ、最も強大な殺傷者である我々のみが、この殺生のシステムを壊滅させられる。その能力を培ってきた。これには悪魔も思い及ばなかったやろう。ざまみろ」

 小山なずさの疲れた前頭葉は、決して脳が許さないようなことを考えさせた。

「死んで意識が無くなる。それで苦労が絶えるのは良いとして、しかし、何でエネルギー不滅の法則やねん!ああ、いやや。自分が悪の存在やて。時には美しいこの世も殺生の世界を巧妙に隠すためやて。美しさも善も囮作戦なんやな。自分で自分を騙しとんのか!」

 怒りと絶望とショックの渦に巻き込まれ、小山は、我を忘れてカイコさんに愚痴った。

「なあどう思う、カイコさん」

 命の恩人のカイコさんにしがみついた。

 二人とももう余り匂わなくなっている。体を清拭したり、時には町のなんとかランドに、洗い立てのこざっぱりした格好で出かけて、何食わぬ顔でお湯に浸かった。冬に臭っていた二人ではなかった。

「しょ、しょない。な、しょない。どしょもない」

と、カイコさんはしがみつかれて困っていた。小山の言うことはうわ言のように思ったのだろう。


 二人とも、少しずつ喋ることの出来るパートナーとなっていた。

「誰かをころ、殺したいの、んか」

「今生きてるものを殺すのは矛盾やんか。殺生の上塗り」

「よかったぁ、どしょうか思た」

「ごめんな」

 一息ついて、カイコさんが世間話のついでのように、

「わたしなんか、昔男を殺したよ」

とあっさり告白した。

「石のような子やって、父ちゃんが怒鳴った。学校は大変やった。男もぶった。石のように黙っていたんやけど、みんなますます叩いたんよ」

 淡々と作文のように話す。小山はカイコさんを抱きしめた。

「そ、それで」

「ある夜な、男が眠ったときな、もうお前は充分我慢した、よろしい、って誰かが許した。それで息の根を止めた」

「嘘やろ!」

と、小山は思わず叫んだ。

「ウウン、血がどくどくって」

 憎むべき卑小な哀れな男は、簡単に生涯を閉じた。その後のことは、余り意識に無いらしい。

 カイコさんの身体を抱いて揺すりながら、そうか、そうか、と小山は自分に呟いた。

 きっと罪を償ったり、治療されたりしたのだろう。その時だれかが、きっと小園佑子さんのような人が世話してくれたのだ。そしてこんな小さな共同体の、山と野原と小さな町のそばの、このアパートに暮らすよう取り計らってくれたのだ。

 善良で素朴でだれに害も与えない何も求めないカイコさんがこうして、その死のときまで静かにここで暮らす。

「ついでに私を、救う気なんか無しに、生き延びさせてくれた、生まれたからにはやがて死の時が来るまで」


「金や権力、名誉に憑かれた連中は、欲と好奇心にかられて、やがて決定的に踏み出してしまうだろう。栄華のさいちゅうに地球が破滅するまで。それは間違いないし、そうあるべきだ。でも、私ら、それについて行けなかった者は絶滅の日までも貧乏の悲惨な毎日が続くわけやなあ」

と、小山が呟くのをカイコさんはじっと聞いてくれる。


「というか、向こうは勝手にやってもろたらいいんやけど、こっちら、こっちらで静かに生きる算段をせなあかん。飢え死にとか凍え死にとか自殺とか、それはやはり可哀想やもん、人間の尊厳とか言うわけやないけども。尊厳が欲しかったらそれに値いせなあかん。人間の尊厳なんて、高望みというもんや、ねぇ。悪業のなかでも、悪行を避けられなくとも、幽かに生きる方法を探す」

 小山が「かすかに」という漢字を、幽霊の幽だというと、カイコさんがヘヘ、と歯を少し見せた。

 意を得たり、という感じの、小山には初めてのカイコさんの破顔であった。



 小山なずさの脳神経が、思いもしない回路で発火した。大体人間の意識は、回路に左右されているのだから無理も無かった。神経たちにしろ、何らかの目的があって伝達物質を光速でやり取りしているのでもあるまい。ある環境で肉体が同じような効率で生き延びていけば自ずと回路は太くなる。通行量の多い幹線道路だ。

 現在の幹線道路では、個人で何が出来るものか、政府や役人や行政が悪い、という通念が普通横行している。個人では何もできないと。しかし小山なずさは、ずたずたの道路を、しかも脇道を高速で走っていたので、つっと路地に入り込んだ、という感じだ。

 小山に高次の存在を信じるかけらでもあれば、天からの啓示とでも思っただろうか。

「そうっか。あれは言い訳だったんだワ。一人でもいいやん、たった一人ずつでも手を取り合って歩いて行けたら」


 よし、もっと体力をつけよう、と小山が決意したその日に、母親の大野みずさが訪れた。

 いつもの眉間の皺がなく動作が軽々していた。ふと、母の愛が感じられた。私のためにこの人喜んでいる。

「なっちゃん、元気そうじゃない。今日ね、ほら見て、食料と衣類と化粧品と、サプリメント、薬、と、」

と、次々に取り出した。かってないほどの量を運んできたらしい。並べて得意そうに笑顔で小山を見た。最後に写真を二枚出した。

 小山は瞬時にあらゆる想像をしたが、見当もつかなかった。

 手に取って見ると、顔がぼかしてある写真だった。家族写真らしい。子供が二人いる。普通の居間で楽しげに体を寄せ合っている。もう一枚には小さいほうの子供がひとり写っていた。これも顔に加工が施してある。しかし顔中で幸せを信じて笑っているその口元が少しばかり見えた。きれいな大人の歯が二枚揃いはじめた、可愛らしい女の子だ。

 小山なずさは涙をほろほろとこぼした。わが子だった。こんなにも愛らしい子を失ったのだ。小山に人間の欲が本能のままにふつふつと沸いた。

「なっちゃん!」

と、大野みずさは自分も泣きながら、わが娘の手に自分の手を重ねた。

「ママもなっちゃんを失って悲しかった。でも今は会うことできて嬉しい」

「あの子は幸せ?」

「そうよ、実の子として幸せに」

「私は幸せとは言えなかったんよ」

「わかってる。でもいつもそばにいたのよ、ママは。学校にも大学にも寮にも、下宿にもどこにだって」

「わかってた。手紙もくれたよね」

 小山なずさの父親が、心を閉ざすタイプだったのが理由だったのかどうか知らないが、そこから飛び出して再婚した母のみずさは、それ以来、なずさと接触するのに異常にこそこそした態度をとるようになった。そんな態度にかえって苦しめられた。母親の気持ちを思いやったことは一度もなかった。

 それでも小山なずさは、母親と暮らしたかった。だから憎んだ。しかしかりなは違う。さびしい。しかしそれがかりなの幸福なのだ。大人になれば、また会えるようになるかもしれないから、と母と娘は慰めあった。かりなの写真を長いこと眺めた。どう見ても心から幸せそうだった。


 とりあえず食べよう。

 カイコさんもいれて三人で町のレストランにくり出した。どこかのチェーン店ではなく、地元の素材で素朴においしく作ってある。三人とももりもり食べた。


 母親が食べているのを何十年ぶりに見たのだろう。こんな食べ方をする人だったんだ、と小山は観察せざるを得なかった。大野みずさも娘を見つめつつ食べた。カイコさんも楽しげにウンウンと頷きながら堪能しているのが、小山にはもうひとつ嬉しいことだった。

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