アメイジング・グレイス

かぎろ

アメイジング・グレイス

 ぼくは天才だ。


 ぼくはリコーダーの天才だ。


 天才なんだ。


 三年生の頃にソプラノリコーダーを買ってもらってから六年生の今に至るまでずっと、ぼくの心はリコーダーとともにあった。学校の教科書に載っている曲は全部吹いたし、聞いたことのある曲を全てものにした。となりのトトロ。千本桜。星条旗よ永遠なれ。楽譜は読めなかったけれど、耳で聴けばいくらでもその曲を再現することができた。音楽の先生はぼくがリコーダーで曲を吹くたびに褒めてくれた。普段は『ゆうは猪突猛進バカだ』とバカにしてくるクラスメイトたちも、音楽の時間だけは、ぼくを認めざるを得なかった。

 ぼくは天才だ。

 ぼくはリコーダーの天才だ。


 天才……


 ……。


 …………くそ……


 リコーダーを手に取る。指を穴に添える。吹く。ぼくがなめらかに指を運ぶたびに、音色は踊り、曲が紡がれる。音楽の授業中、クラスメイトたちが思い思いにリコーダー練習をするなかで、ぼくのリコーダーは有象無象とは違う別格の美しさで音楽室に響いた。

 耕太こうたが「やっぱ優はすげーなー」と感心している。

 ぼくは苛立って、演奏をやめた。


「すげくねーよ」

「え? すげーっしょ。何だよ、いつもなら『はっ! ぼくは最強のリコーダー使いだからな』って威張るのに」

「なあ耕太」


 ぼくは耕太をじろりと見る。練習中に私語をしようが怒ったりはしない先生だから、こそこそする必要はない。


「この世には明確な答えってのはない。晴れた空は青いっていうけど、それは地球人から見た場合であって、宇宙人から見たら緑色かもしれない」

「何の話?」

「1+1=2っていうのも、もしかしたら地球人の頭には限界があって、1+1=2の世界しか知覚できないだけなのかもしれない。宇宙人からしたら、1+1=ムニャモニャミミャミャであってもおかしくないんだ。この世に〝答え〟はない。はずだ。って、思ってた」

「意味わかんないよ……」

「だけど、この前、公園に、いたんだ」


 練習再開しようとする耕太の肩を掴み、ぼくは声を落とす。


「〝答え〟を持っているやつがいた」

「……どういうこと?」

「そいつはリコーダーを吹いていた。上手いのか下手なのか、ぼくにはよくわからなかった。公園のジャングルジムのてっぺんで、夕焼けの空を遠く眺めながら、そいつは聞いたことのない曲を吹いてたんだ。あの音色を聴いた時、ぼくは確信してしまった。ああ、これなんだ。。〝答え〟があった。世の中の全てはあのリコーダーに辿り着くまでの途中式でしかなかったんだ。ぼくは動けなかった。そいつはいつの間にか消えていた。家に帰って、ぼくはそいつの曲をコピーしようとしたけど、できなかった。どんな曲だって耳で聴けばそのまま演奏できたぼくが、なんにもできなかった。なあ耕太。ぼくは明日から学校をサボろうと思う」

「うんうん」


 一息に話し終えたぼくは、適当に頷いていた耕太が「うんうんう……えっ? サボる?」と聞き返してきたことに気づきながらも、さっさと練習を再開することにした。


 ぼくはリコーダーの天才だ。

 リコーダーの天才は、あの〝答え〟の領域に辿り着かなければならない。

 学校に行っている暇なんか、ない。




     ◇◇◇




 ぼくはずっと練習を繰り返していた。

 あの日聴いた〝答え〟に自分も到達するためだ。

 リコーダーの演奏力という点において、かつてのぼくはぼく以外の全員を見下していた。どうして音が出せないんだろう。どうして曲が吹けないんだろう。こんなに簡単なのに。そんなことを思っていたぼくが、いざ格上に出会ってしまった時、ぼくは極度の不安に襲われた。

 あの〝答え〟の前ではぼくもまた屑同然なのだと自覚したのだ。

 そしてそれを認められず、練習を続けた。

 ぼくはあいつに追いつかなくてはならない。

 ぼくはあいつを追い越さなくてはならない。

 ぼくは。


 ぼくは〝答え〟を操るあの存在を演奏で殺さなくてはならない。




     ◇◇◇




「優~? 忘れ物なぁい~?」

「ない! 行ってきます!」


 朝。

 学校をサボると決めた日。

 ぼくは自宅のマンションを出て、ランドセルを背負ったまま、学校とは逆の方向へと歩き出した。

 公園の方角だ。


 公園でリコーダーの練習をしつつ、ジャングルジムを見張るという作戦だった。


 ぼくはあの〝答え〟を持つリコーダー吹きに会わなくちゃならなかった。理由は単純。あのリコーダー吹きに勝つためだ。ぼくはぼく自身が天才であることを理解している。事実として友達や先生にもすごく褒められた。お兄ちゃんから借りた中学校の音楽の教科書も全部読み込んで、全部吹けるようになった。


 ぼくはあのリコーダー吹きに勝つ。

 今から武者震いが止まらない。


 空は曇っていた。気象予報によれば、今日は雨が降ったり降らなかったりの不安定な天気らしい。今も霧のような雨が降っていて、半袖の腕がしっとりと濡れる。街路樹の土からは雨の匂いが漂った。


 あのリコーダー吹きは、ジャングルジムに来るだろうか。


 こんな天気だし、来ないかもしれない。そもそも、実は、あのリコーダー吹きの姿はよく覚えていなかった。演奏は焼き付いているのだけれど、顔はすっかり忘れてしまっている。というか、男だったか女だったか、大人だったか子供だったか、そのへんすらも曖昧だった。すべては〝答え〟が衝撃的だったせいだ。


 どんな姿をしているのだろう。もしかしたら人間ではないのかもしれない。あれほどの演奏に、人間が辿り着けるとは思えない。ぼくは何か黒い靄の塊でできた化物を想像し、ゴクリと唾をのんだ。


 一瞬、遠くの方で、笛の音が聞こえた。


 ぼくはハッとした。


 音の連なりが、音楽となって道の向こうから響いてくる。


 リコーダーだった。


 走り出す。がむしゃらに脚と腕を動かす。ランドセルの中身がゴトゴトいって、邪魔で邪魔で仕方がない。自分のリコーダーだけを外して、ランドセルを道の脇に放り捨てた。水溜りを踏んで、靴に泥水が染み込む。構わなかった。一目見たい。近くで聴きたい。そして、勝つのは、ぼくだ。


 公園の入口で、ぼくは立ち止まった。

 真っ先に、ジャングルジムのてっぺんを見る。


 曇天の雲の切れ間から光が降り注いでいた。


 天使が降りてくるみたいだとぼくは思った。灰色の空がつくりあげた色のない公園にあって、そのジャングルジムだけは色鮮やかな黄金の光に包まれていた。水溜りには雲の上の青空が映る。ぼくの睫毛に乗った霧雨の粒が、水玉模様の光となって、陽だまりをぽわぽわと煌かせた。


 その聖域に君はいた。


 ぼくより少し背が低い、女の子だった。ゆったりとした白のワンピースに身を包んでいる。無造作で自然なショートの髪もまた、綺麗な乳白色だ。肌の色素も薄くて、空から差す光との境界が曖昧にも見える。眩しかった。これ以上見つめていたら目が潰れるかもしれないとさえ思うのに、ぼくの両目は、釘付けだった。


 そして君は眠たげな瞼をして、リコーダーを吹いていた。

 やはり聴いたこともない、それでいて全ての到達点のような完全さをもった、不思議な音色だった。


 ぼくの胸の中で様々な思いがこんがらがる。この音色に出会えてよかった。生きていてよかった。今のうちに死んだ方がいい。どうしてぼくはさっきまで勝つとか勝てるとか思っていたんだろう。ぼくは天才なんかじゃなかった。天才を名乗っていいのはこの女の子だけだ。ぼくの表現したかった全部がここにある。なんて強くて、なんて弱くて、なんて綺麗な音。

 ぼくの理想の音。

 ぼくは今すぐ自分のリコーダーを折りたくなった。

 こんな音がこの世にあるのなら。

 全ての音は、無意味だ。


 だけど。


 ぼくはリコーダーを構えた。手がぶるぶる震えていて、心臓もばくばく鳴っている。それでもリコーダーを構え、咥えた。怖い。今すぐ逃げ出したい。でも、そんな気持ちよりも、ほんの少しだけ上回る衝動があった。


 あの子に、ぼくの演奏を聴いてほしかった。


 奏でる。


 曲はアメイジング・グレイス。


 ぼくが最初にリコーダーを手に持った時、演奏した曲。


 ぼくの原点。


 ぼくの、全力。




 君のリコーダーが止んだ。




 ぼくは構わず吹き続ける。穏やかなテンポで進んでいく。難しい曲ではないけれど、だからこそ完成させるのは難しい。不思議と指先の震えは消え、腹の底だけが熱かった。ぼくはこの曲の楽譜が読めない。歌詞もわからない。だけどその美しさを知っている。初めて吹けるようになった時の喜びを知っている。

 君よ、聴いてくれ。

 ぼくの立っているところが、君にとってはとっくに通り過ぎた場所なのだとしても。

 これがぼくだ。

 ぼくを聴いてくれ。

 リコーダーは楽しい。

 さっきまで思っていた、君に勝つとか勝てないとかは、もうどうでもよかった。

 君がぼくを全てにおいて上回っているのだとしても、それでも、ぼくは君の前でリコーダーを吹けることが嬉しかった。


 無我夢中で指先をしならせた。

 アメイジング・グレイス。


 演奏が終わった。


 雨が上がり、空が晴れていた。


 ぼくはゆっくりとリコーダーを下ろす。


 恐る恐る、ジャングルジムの上を見た。


 答えを持つ君もまた、こちらを見ていた。


 途端にぼくは怖くなる。きっと幼稚な演奏だと思われただろう。それが事実なのだから。でも君にそれを言われたら、ぼくはきっと深い傷を負う。今のリコーダーはぼくの全部だった。ぼくの技術を、人格を、魂のすべてを注ぎ込んだ、そういうリコーダーだった。君はそれを否定することができる。君の言葉はぼくの心臓を一突きにして、ぼくを殺すことができる。そしてぼくは、自分の心臓を取り出して、君の前に差し出しているのだ。


 ぼくはこんな状況で、なぜか口の端が吊り上がってしまうのを感じていた。

 きっと君はぼくを殺す。

 本望だと思った。


 ふわりと白いワンピースがはためく。


 君がジャングルジムから飛び降りた。


 重力を感じさせずに地面に降り立つと、水溜りが小さく跳ねた。


 それからぼくのことを眠たそうに見つめる。


 色素の薄い小さな唇が、ゆっくりと動いた。





 これから紡がれる君の言葉がどうであれ、ぼくはリコーダーのことが狂おしいほど好きだし、それが変わることはないだろう。その上でリコーダーを憎んだり、恨んだり、もう嫌になることもあるかもしれない。だけどぼくは君と出会えたことを決して後悔しない。

 決して吹くことをやめない。

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