なぜ彼は死んだのか?

枕木きのこ

なぜ彼は死んだのか?

 部屋の中央に、一体の死体がある。


 ■


 その日大原は、珍しく遠方まで仕事に出ていた。特別、どうしてもそこに行かなければならないと言うわけではなかったが、執筆作業における取材の名目で確保した日程で、交際をしている女性が家にいてくれると言うので「どうせなら」と思い行動を起こした。仕事とは言ったものの、ほとんど気晴らしである。

 最初のうちは「どうして車を走らせてわざわざこんなところまで」と自らの立案にも関わらず思っていたが、慣れない土地に到着し、見慣れない人々と会話をしながら過ごしているうちに、だんだんと思考がほころんでいくのがわかった。


 スランプだと名前を付ければまだ格好がつく。しかし実態は、今が「スランプ」であると言えるほど、これまでが順調であったわけでもない。

 一冊出すくらいであれば、長文を書く自力と、運さえあればできる。ましてや大原はネット界隈からの出で、これまでの趣向をすべて捨て、気まぐれにありふれるブームに乗った題材のひとつをピックアップして書いたものが評価されているので、自身との乖離をまざまざと感じている。


 ——ここに居る人たちは当然、俺のことなど知らないだろう。

 ——そしてそれは、何もここに居る人たちに限らない。

 ——ネットでの俺、作家としての俺。

 ——俺を真に理解してくれるのは、美沙と次郎くらいのものだ。


 適当に決めた定食屋で少し遅い昼食を取る。朝早くに出た代わりに宿は取っていないので、この焼きサバ定食を平らげたら早々に帰路につかなければならない。

 収穫があったとはっきりは思わなかったが、帰ったらパソコンに向かってみよう、くらいのことは考えていた。きっと何かを書けると思い始めていた。


 物書きは、情動を伴って執筆を進める——、と昔に読んだ純文学作品のあとがきに書かれていた。それこそが人に訴えかける作品なのだと。

 しかしどうにも、それには賛同しかねる。平穏で、安心がある、穏やかな日々においても、話は書けるのだと。大原はそう思っていた。


 ——車を発進させる前に、一度美沙へ電話を掛けた。

 何度か発信音が続いたのち、留守電につながる。内心「何かあったのか?」と不安に思ったが、出発前の、気丈に見送ってくれた彼女の様子を考え、そんなことはない、寝てるだけ寝てるだけ——、とあえて楽観的に信じ込んで、ようやく車は道を進んだ。


 アパートの下まで着いて、おや、と思った。

 道路から覗ける位置にある我が家の窓から、光が漏れていない。先ほどの留守電からかれこれ二、三時間ほどは経っている。いつからそうであるかわからないから何とも言えないところではあったが、少しうたた寝をした、と言うには長いように思える。

 外付けの階段を上っていき、相変わらずの様子でチラシの飛び出た扉の前に立つ。すぐそこの商店街で若者が騒いでいるのが耳を突く一方、部屋の中からはこれといった音が聞こえてこなかった。


 ——回そうとした鍵が空転する。


 恐る恐る扉を開くと、仰々しく「ぎぃ」と音が鳴った。

 侵入者を危惧し、なるべく慎重に靴を脱ぐ。——いや、あえて音を立てたほうがいいのか?

 わからなくなりながら、狭い廊下を行く。右手のトイレ、その隣のバスルームからもこれといった音はしなかった。

 

 大原はリビングに顔を出した瞬間、強い衝撃を受け、目の前がちらつき、そのままくずおれた。

 頭を抱え、なんとか部屋の中央へ身体を引きづる。


 荒い呼吸が部屋によく響く。


 ——一体、なぜ……。


 そしてつぶやくのだ。


「おお、次郎……」


 




 ■


「え、マジ? 大丈夫なのそれ」

「いや、怖すぎて連絡とってない」


 混雑したスターバックスの向かいにある喫茶店は、いつも空いていた。だから、美沙はよく、友人の理恵とそこでティータイムを楽しんでいた。


「えー、大原くん怒り狂ってんじゃないの」

「着拒及びブロック済みです」


 力なく、美沙は敬礼のポーズを取る。


 大原との関係は、何の問題もなく、順調を極めていた。

 美沙にとって問題だったのは、彼の、次郎である。

 

 もともと猫アレルギーを持っている彼女は、どうしてか猫のほうからも好かれることがなく、「犬猿」がごとく関係性を彼らと結んでいた。

 それが、大原がどうしても日帰り旅行に出たいと、自身の鬱屈したスランプ期を脱するために車を走らせたいと言うので、——もちろん、彼のことは「大」が付くほど好きだったので、——断ることもできず、引き受けた。


「ケージに入れるから……。ごめんね」


 と大原は何度か言ったし、美沙も「それであれば」と思っていた。くしゃみと、目のかゆみを我慢すれば、一日くらいなら、と。


 ところが次郎は聡明だった。ちょいと手をひっかけ、華麗にケージから飛び出すと、珍しくやってきた美沙に、「」と飛び掛かったのだ。


 美沙は予期せぬ次郎の行動に慌て、手を振り払ったり、手近にあった折りたたみ傘を伸ばして防御をしていたが、ひるむことがなく——、座り込んだ美沙のもとへ、勢いを持って飛んできた次郎を振り払う際に——。


 ——美沙は、大きなため息を吐いた。それから首を垂れて、

「——でも、彼、自分の言ったこととかすぐ忘れるし、ほんと、すごい忘れっぽいところあるから——もしかしたら次郎のことも? 意外とすんなり? 大丈夫なのか? これはセーフな案件かしら——」とブツブツひとりごちたあと、「これからどうしたらいいのよ……」

 理恵に教えを乞うように、今度は小さく言葉を吐いた。


「——まあ、正当防衛ってわけには、行かないだろうねえ」


 理恵はほとんど興味がなかったが、一応、そう返して、またうんうん唸る美沙から視線をはずし、口をすぼめてストローから紅茶を吸い込むと、——今日はこの後何しようかな、と、ぼんやり考えた。

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