甘くほろ苦い祝福を貴女に
逆塔ボマー
Don't stop her now.
「よかろう、ならばこうしよう。素っ裸で馬に乗り、街の中を一周してみろ。もしも出来たのなら言うことを聞いてやる」
「その御言葉、二言はありませんね?」
★
その夜、領主の館の片隅の礼拝堂にて。
身なりのよい女がひとり、声もなく祈りを捧げていた。
「聖母様……どうかわたくしを導いて下さい……!」
深夜である。小さな燭台の明かりが揺れるのみで、女の声を聴く者などいない。
それでも彼女は、ひたすらに祈り続けて……
不意に、祭壇前の虚空に、小さな光が灯った。
握りこぶしほどの光の玉は、ゆっくりと大きくなっていく。祈る女の顔に歓喜の色が浮かぶ。彼女の前だけに過去にも何度か現れた奇跡の兆し。
やがて人間ひとつ包み込めるほどの大きさになった光の玉は、音もなく弾け、その中から一つの人影が翼を広げる。
天使である。
誰もが一目見て天使と思うであろう、神々しい微光を纏った、翼もつ白衣の人物である。
しかしよく見るとその胸にはふたつの膨らみがあり、髪は長く、顔は女性的で。
通常は男性の姿で現れると伝えられる天使の中でも例外的な、女性の姿の天使――
それは柔らかな笑みを浮かべ、女の前で両手を広げて見せた。
「迷いが、あるのですか」
「ああ、天使様……! ……ええ。迷っております。わたくしは……神の御意思に背いてしまうかもしれません……!」
もはや馴染みともなった奇跡を前に、女は苦悩に顔を歪める。天使は黙って女の言葉の続きを待つ。
「夫は約束を守るでしょう。時に感情的になってしまう人ではありますが、その点は信じられる人です……。わたくしも、きっとこの賭けをやり遂げることは、できるでしょう」
「…………」
「でも、全て終わったその時に……わたくしは神の御意思に背かずにいられるでしょうか。許されぬことと知りつつ、自害を考えてはしまわないでしょうか。それだけが心配なのです……!」
女は己の弱さを恐れる。
そも、貞操の観念において社会の求めるものが厳しい時代であった。夜の夫婦の営みにおいてさえも全裸になることはなく、全身の肌を湯で清めるのも年に数度きり。足首すらも人目に晒すことを躊躇う、そんな時代だった。とりわけ、女の属する地位や階級においてはそれらの要請は極めて強いもので。
衆人環視の中、裸で街を一周しろ……それは直接死を要求するよりも遥かに酷な、想像しただけで自殺すら考えてしまうほどの無理難題であった。敬虔な神の僕を自認し、自殺を許されぬ罪と信じる女ですら、地獄行きを承知で選びたくなるような、そんな誘惑であった。
「人の子よ、胸を張りなさい。貴女の懸念は、杞憂と終わるでしょう」
「天使様……?」
「わたしは何もしていません。奇跡ではありません。貴女の成してきたことが、貴女を助けることになるでしょう――」
女の不安の吐露に対し、小さく言い残すと、天使は無数の光の粒子と化して虚空に消える。きらめく光もやがて静かに消える。
元の暗がりと沈黙を取り戻した深夜の礼拝堂で、女は深く感謝の祈りを捧げるのだった。
「ガブリエル様……ありがとうございます……!」
★
『それ』はしかし、自らの由来を知らないのだった。
己が何らかの不具合を来しているらしいことは分かっていた。
何が原因なのか全く探知できないのだが、本来あるべき何らかの機能を損ねていることは確信していた。
ごく少数の、相性の合う、敬虔な信徒だけが自らの存在を視認できることは理解していた。
自分がどうやら『天使』と呼ばれる存在に近い外見をしており、また、自らに備わる権能もそれに近いものであることは理解できていた。
だが自らのルーツ、自らの名前などは思い出せないのだ。記録が破損している。
自らがどこから来て、どういう存在で、何をするべきなのか。まったく何も分からない。
気づいた時には、無意味にぼんやりと地上を彷徨っていた。
限られた能力で情報を集めた範囲では、いま、人の子らの世界は激動の最中にあるようだった。
世界の中心と言っても良い南方では、神に身を捧げたはずの聖職者たちが、教会組織の内部で数世紀にも渡る醜い争いを繰り広げている。いずれ教会組織が分裂するのも時間の問題であるようだった。
さらに南方、もうひとつ海を渡ったその先では、神の声を聞いたとする者が開いた異教の勢力が拡大し続けている。彼らに言わせれば、南方、そして世界の片隅にあるこの街の人の子らは、誤った古い教えを信じる罪人たちなのだという。
自らの不具合はそういった人の子らの信仰の揺らぎによるものであるのだろうか。分からない。
女は……かつて初めて姿を見せた時には幼い少女だった女は、女性の姿をした『天使』のことを『ガブリエル』と呼んだ。
聖母に受胎を告知したと伝えられる天使である。
おおむね男性の姿で描かれる天使たちの中で、乙女の寝室を訪れたその任務から、ほぼ唯一、女性の姿で描かれることもある大天使の名――
それは聖母への信仰深き少女にとって、ごく自然な連想だったのだろうけれど。
自らは本当にその大天使であるのだろうか。分からない。
三大天使とも四大天使とも伝えられる存在の一角としては、あまりに力がないようにも思える。
南方の異教においては同じ存在が『ジーブリール』の名で呼ばれているという。
ならば自らはかつての『ガブリエル』から『ジーブリール』が生み出された時に残された、残りかすなのか。
あるいは不具合を起こして姿すらも破綻を来した無名の天使の一柱なのかもしれないし、自らを天使と錯誤した堕天使の一柱なのかもしれない。
とにもかくにも、それには古い記憶というものがないのだった。
限られた能力の中で、それでも、『それ』はその少女……今では一領土を統べる領主の夫人、伯爵夫人である女を見守り続けている。
特に手助けすることはない。手助けする能力もない。
おそらく何かしらの奇跡をひとつ起こすだけで、『それ』は力を使い果たして消失する。それほどまでに力を失っている。
ただ、話を聞き、そしてささやかな助言をする。
たったそれだけのことで、少女は、伯爵夫人は、自ら苦境を切り開けるだけの能力を持っていた。
勝手なエゴかもしれないとの自覚はあったが、『それ』はそんな女を望ましいものと感じていた。
★
「こ、これは……!」
「奥様、お急ぎ下さい。そう長いことは出来ませぬ」
約束の日、約束の広場にて。
毛布1枚を肩にかけただけの姿で出てきた女は、街の様子に目を見開いた。
たまの水浴の時に身の回りの世話をする、すなわち裸を見せても気にならない貴重な存在である侍女たちが、引いてきた馬の手綱を片手に女を急かす。
「話を伝え聞いた街の皆が、奥様の勇気に感じ入って、こうしてくれたのです」
「街の皆は奥様の味方です。奥様のこれまでの働きを、今回の勝負を、みんな支持しているのです」
信じられない面持ちで女は周囲を見回す。
普段は人混みでごった返す広場は、露天商ひとつ残らぬ全くの無人で。
街の家々の窓は固く閉じられ、鎧戸のある窓は全てそれを下ろしている。
世話役であり証人でもある侍女たちを除けば、人の姿はどこにもない。
夫である伯爵と約束した時刻、普段であれば無数の目があるはずの白昼の街は、どこまでも静まり返っていた。
重税を課す方向を選びがちだった伯爵と、領民のために減税を働きかけ続けてきた伯爵夫人。
今回の賭け、伯爵の無理難題も、まさにその税金のひとつを巡るもので……この光景は、日々の生活を投げ打って建物内に篭るその姿は、住人の強い意思表明であった。
「人の子よ、胸を張りなさい。これこそが、貴女の積み上げてきたものなのです」
「天使様も……!」
上空には翼を広げて宙に浮かぶ、白き衣を纏った高貴な女性の姿。
その姿はどうやら侍女たちには見えていないようであったが、女はひとつ頷くと、用意された馬に跨る。その身を隠す毛布を投げ捨てる。
「それでは、行ってきます!」
「奥様、頑張って!」
「ええと、ご武運を……!」
あまりにも白い裸身を陽光の下に晒し、女は無人の街に馬を走らせる。
★
女が無人の街を行く。『それ』も静かにその上空を飛ぶ。
昨夜の礼拝堂の時点で、既にこうなることは知っていた。街の人々の相談を、決定を、盗み聞いていた。
天使などと呼ばれてはいるが、やっていることは不可視の身体を活かした覗き屋のような真似。
感情らしい感情を持たないはずの『それ』は僅かに自嘲する。これもまた、己の身に起きている不具合の影響なのだろうか。
女は誇りと自信を胸に、裸身を隠そうともせずに馬を進める。
豊かな胸、くびれた腰、豊かな尻。シミひとつない肌。
古代の異教の者たちは好んで人間の裸体を石に刻み、あろうことか大勢が目にする神殿や町中に飾ったのだという。
これほどの造形美が人の知るところであったのならば、そういう気持ちにもなったのだろうか。いずれまたそういうモノが飾られる時代が来るのだろうか。
まったく天使らしからぬ感慨だと、『それ』はまたもや自嘲する。やはりこの身は堕天使か何かだったのではないか。そんな思考が頭をよぎる。
――異変は予定された道程の半ばほどを過ぎた頃に起きた。
どこまでも窓の閉ざされた街の大通り。
きぃ、と遠くで小さく、無数の窓のうちのひとつが開く。
どんな社会にも馬鹿はいる。助平心を制御できない奴はいる。
馬上の女の表情が引き攣る。絶望の色がよぎる。思わず馬の足も止まる。
そういう貞操観念が支配している時代だった。夫にすら見せてはいけないものだった。自害すら考えるものだった。
刹那、『それ』は女の傍から離れ、開かれた窓の所まで素早く飛んでいった。咄嗟の行動だった。
そうして窓の中を覗き込むと、すぐに身を翻して女の所まで戻る。
「人の子よ、安心なさい。盲人でしたよ」
「え……ほ、本当に?」
「わたしは虚偽を報告できるようには創られていません。貴女の姿は誰にも見られていませんよ」
「……」
「街がこれほどまでに静かであれば、盲人も不審を抱くことでしょう。音を確認したくなる者も、出るでしょうね」
『それ』は微笑む。
精一杯、天使らしく、柔らかく、慈愛に満ちた表情で。
やがて落ち着きを取り戻した女は、再び馬を走らせる。
虚偽の報告はしていない。
嘘をつけるようには出来ていない。
大事なことを伝えず、的外れな推測を述べただけだ。それが『それ』にとってギリギリ可能な範囲だった。
女は走っていく。自らの力で進んでいく。胸を張って、誇りとともに。きっとおそらく、この賭けにも勝つだろう。
くだらない奇跡の代償、薄れゆく存在を自覚しながら、『それ』は最後に、ありったけの力を祝福として女に授けて残す。
自らの由来も分からない。
自らの名前すらも分からない。
成すべきことも分からない。
そんな『それ』に、確かな名前と意味を与えてくれた、かつて幼い少女だった者へのささやかな贈り物。
「レディ・ゴディバ――貴女に、ガブリエルの祝福を――」
無人の街を、天使の消滅にも気づかずに、女は一人、裸身で馬を走らせる。
★
その街にはひとつの伝説があった。裸身にて街を駆けた伯爵夫人の話。
研究者の多くはそれを後世の創作とする。
覗き見をして、そして目が潰れたという覗き屋の仕立屋、ピーピング・トムの伝説についても、『トム』という名が時代に合わないとする。
それでも、彼女たちが実在した領主であることは誰も疑う者はいない。
聖母への信仰厚き夫婦であったという。いくつかの寺院、修道院を建築し、あるいは建築を支援したという。
夫亡き後は、夫人が領主としてその地を統べたという。
そして、後にノルマン人たちがその地に侵攻し、新たな王朝を築いた時も――
★
多くの街で領主が倒され、侵略者に取って代わられる中、その街だけはぽっかりと残されていた。
強固な抵抗と、確たる支配。住人たちの強い支持。
侵略者たちはそして、無理に首を挿げ替えるよりも、下手に手を付けずにそのまま残すことを選んだ。
「そう……では、王様によろしくお伝え下さい。我々は決して新たな王に逆らう者ではないわ。そちらが我々の土地に手を付けない限りはね」
老伯爵夫人は王からの使者に対して微笑んだ。
許されぬ自害すら念頭に臨んだあの日は遥かに遠く、しかし、あの時の覚悟を思えば服従の屈辱などものの数ではない。
あり得ぬ強運と確かな人望に支えられた、乱世においても折れぬ女傑。
アングロサクソン人で唯一この地に残された女領主は、声もなく、もはや姿を見せぬ天使と聖母に感謝の祈りを捧げるのだった。
甘くほろ苦い祝福を貴女に 逆塔ボマー @bomber_bookworm
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