緑の目のエディ
悠井すみれ
第1話
今日は家の中が騒がしい。ジェームズが親しい友人を招いてのパーティだとか。
パーティが始まってしばらくは
「エディ、ダメよ。もう戻らないと」
私がキャシーの目元の雫を舐め取ろうとすると、そっと指先で押し戻された。頬にキスをしようとしても同様に。無理をして化粧を直すくらいなら、私と過ごしていて欲しいのに。こういう夜はジェームズにキャシーを渡さなければならないのが悔しくてならない。あんな奴より、私の方がよほどキャシーを愛し愛され、必要とし必要とされているのだろうに。
「今日も緑の目が素敵よ、エディ。また、後で……ね?」
私のその緑の目には、不満が露わになっているだろうに。キャシーは私の耳を軽く摘まむと、苦しそうな笑みを纏ってドレッサーの前から立ち上がった。私には、それを見守ることしかできないのだ。
キャシーとジェームズが並んで立つ姿を見るのは、大層不快な気分だった。キャシーが張り付いた微笑を浮かべる横で、ジェームズは客の女に下心丸出しの目を向けているからなおさらだ。キャシーが本当に化粧直しのために外したのだと、信じ切っているのだろうか。
「あら、エディ。キャシーに構ってもらえなくてご機嫌斜めかしら?」
しかも、そんな女の一人が目ざとく私を見つけて、馴れ馴れしく触れようとしてきたから不機嫌もひとしおだ。わざとらしくそっぽを向いて手の届かないところに逃げると、香水臭い笑い声が追いかけてきた。女の目線を追ったのか、ジェームズも私に気付いて顔を顰めたのが見えたから、ほんの少しだけ気分が晴れたが。奴は、私が家の中をうろつくのが気に入らないのだ。自分自身の不貞にくらべれば、私がキャシーを慰めるくらい何でもないだろうに。
どうせだから、ジェームズへの嫌がらせに客たちに私の姿を見せつけてやろうか。そう思いついて、うるさい音楽や笑い声を我慢して、パーティルームを一周してみる。
「おや、あれは──」
「キャシーの
「なるほど、男前だな。緑の目が印象的じゃないか」
客囁き合う声が耳に届けば、気分もますます上向いた。どうだ、皆、私とキャシーの仲を認めているのだ。私に注目する客たちに、ジェームズが面白くなさそうな顔をしているのも良い気味だ。ふふん、客の前で私を摘まみ出すこともできないだろう。キャシーが私に構うのが嫌だというなら、自分の行いを改めれば良いのだ。
と──人声のざわめきの中に、何か揉めている気配を聞き取って、私は耳を澄ませた。抑えていながら緊迫した声のやり取りに、ジェームズと──キャシーの声も、混ざっていたからだ。
「そろそろお
「さあ、私は知らないが」
「さっき君といるのを見た! 寝室じゃないのか?」
「ごめんなさい、少し声を落として──あの、気分が悪くなってるのかもしれないから、私が見て来るから……」
客の多くは、まだ気付かないか礼儀正しく気付かない振りをしているようだった。揉めているのは、先ほどジェームズが抱き合っていた女の夫、なのだろう。あの女はどこに行ったのか──男が言うように、キャシーのものでもある家のどこかで、暢気に休んでいるのだろうか。まったく図々しいことだ。
それに、キャシーもあんなに下手に出なくて良いのだ。ジェームズが蒔いた種なのだから、本人に刈り取らせれば良いのに。
夫の情事の後を確かめに行くようなものだ、キャシーは大丈夫だろうか。不安に光っているであろう、私の緑の目が追っているのに気付いているのかいないのか。彼女の背がパーティルームを後にした。
キャシーの悲鳴が家中に響いたのは、ほんの数十秒後のことだった。
家は、先ほどまでとは違った種類の騒音に包まれていた。耳に刺さるサイレンと、ずかずかと家に上がり込む警官たちの、無粋な足音と緊迫した指示や命令。客を宥め、あるいは脅すようにして事情を聞く声。何より──キャシーを尋問する警官の、低く鋭い声だ。
「彼女はパウダールームに倒れていました。貴女のスカーフで首を絞められて。パーティを一時中座されていたとのことですが?」
「はい。でも、あの人のことは知りません……!」
「失礼ながら、旦那さんは彼女と不倫していた。今夜でさえ、旦那さんは彼女と……
「夫とのことは、知ってました。でも、あんなことは……!」
「貴女の指紋しか出ていないんですよ!」
必死に訴えるキャシーの無実は、私がよく知っている。パウダールームにいる間、キャシーは私と一緒だった。あの女の入る余地などなかった。だが、彼女は私のことには触れてくれない。私では証人にならないのだ。私が声を上げたところで、警官は顧みてはくれないだろう。
「キャシー、お前……何ということを……」
狼狽えるジェームズは、キャシーが殺人を犯したのだと信じて疑っていないようだった。まったく頼りにならない!
「違う! 私はやってないの!」
「お前がそこまで思い詰めていたなんて……エディがいれば、満足しているものかと──」
まさかお前がやったのではないだろうな、と睨む。ジェームズに、私の視線に気づく繊細さはないようだったが。別れ話が拗れたとかで愛人を殺して、その罪を妻に押し付けようとしている、とか──いや、キャシーがパウダールームを出た後は忌々しいことにこいつと一緒だった。だから、ジェームズが犯人ではあり得ない。
「とにかく、詳しい話は署の方で──」
「嫌! 離して!」
キャシーを助けたい。手も口も出せない非力が情けなくてならない。でも、私がここで騒いだところで彼女の濡れ衣を晴らすことはできないのだ。ならば、私なりに動き、考えなければ。真犯人は、別にいるのだ。
KEEP OUTの黄色いテープを潜って、私はパウダールームにまた入り込んだ。死体は既に運び出されているが、警察が見落とした手掛かりも、私なら見つけることができるかもしれない。
「あ、こら、入っちゃダメだろう!」
無論、警察が見逃してくれるはずもないのだが。摘まみ出される前に、私には
「エディ! キャシーが大変なのよ!? 何やってるの!」
私の行動を見咎めて声を高めたのは、キャシーの友人だろうか。彼女を案じてくれているなら良い。しかし、構っている暇はない。これこそ彼女のためなのだから。取り押さえようと延びる手を躱して、私はキッチンのゴミ箱を漁った。そして──
だが、この私の目と
「エディ。いつもはゴミ箱を漁ったりしないでしょう。どうして……」
不思議そうに呟くキャシーの膝の上で、私は身体を丸めて喉を鳴らす。彼女の指先は常に心地良い。思わず指を広げてキャシーの腿を踏んでしまうくらいに。同時に、つい爪も出し入れしてしまうのだが──スカートに穴を開くのを気にする余裕は、彼女にはないようだった。
「助けてくれたの? 貴方が、まさか……」
その、まさかなのだよ。彼女の温もりを全身で味わいながら、私は思う。
手袋を咥えて走る私の姿を見た時の、あの男の顔は見ものだった。警察の前でぽとりと落としてやったら、さすがに顔色を変えて食いついてきたからな。だから、キャシーが怖い思いをしたのはほんの少しの時間で済んだはずだ。
「何が何だか分からないけど……ありがとう、エディ」
礼には及ばないよ、キャシー。私は愛する人を守っただけだ。それに、私に何かと話しかけてくれた貴女自身の行いが貴女を守ったんだ。多分、だけど、全ての猫が人間の言葉を覚えるのではないのだろう。私だって、寝ている振りで貴女の好きなドラマをずっと観ていたんだ。証拠だの指紋だのという知識を得ることができるくらいにね。
「にゃう」
もどかしいことに、私には思いを伝える手段が限られている。少なくとも、人に通じるような手段、という意味では。だから私は、せめて信頼と愛情を全身で示そうとした。即ち、身体の力をくったりと抜いて全てをキャシーに預けるのだ。子猫に戻ったつもりで思い切り甘えるのだ。
猫にこうされるのを、人はとても喜ぶのだろう?
緑の目のエディ 悠井すみれ @Veilchen
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