『忘れてください』
@ZinFuzisima
『忘れてください』
1
いつも届く手紙には必ず最後に一言添えられている。
『私のことは忘れてください』
そんなことができたなら、どれだけ楽だろう。あたしはそう思いながらいつも生きている。なにも変わらない日常、何も変わらない生活、何もわ変わらない風景。だけどあたしは思い出す。
夢のような日々だった。今でも夢だったんじゃないかと思う。でもあれは現実。彼と出会ったことも、一緒に過ごした日々も、ずっと会えないこともすべては現実。
スマホアプリを開発するプログラマーとして会社にあたしが入社した時、同じ部署の隣のデスクに座ったのが彼だった。同じプログラマーとして、入社も一緒で隣のデスクなのだから話すのは自然な流れだった。
彼は情報処理専門の大学を卒業して、あたしと同じ会社に就職した。でも話を聞くともっと上を目指せる人だとすぐに分かった。それなのに小さな会社に就職した理由をもちろんあたしは聞いた。
「人生、楽しいことして生きたいからさ」
それが彼の答えだった。彼の楽しみ。聞いてみて驚いた。彼は漫画が好きで、イラストを書いて将来的には生計をたてたいと思っていたのだ。
あたしも実は同じことを考え、情報処理学科へ入ったものの、絵の夢をどうしても諦めきれず、子供の時からずっと好きだった絵の世界で生きていきたいと考えていた。でも、親にそんなことは言えない。絵で生きていくなんて。
もし絵で生活ができたなら。あたしもそう考えていたから、思わず驚いた声を仕事中に出してしまった。
初仕事の初日にあたしたちは近くの居酒屋に飲みに行った。お金はなかったけど、2人で好きな漫画について、絵のことについて、どうやったら絵で食べていけるかについて話した。
彼も両親に絵で生きていくなんて言えなくて、美大に進みたかったけど、言い出せないまま、流されるままに就職したと言っていた。
他人とは思えない彼に親近感を抱いたのは、出会ってすぐのことだった。
2人でその日は終電まで飲んで、
「現実ってやつは思い通りになってくれないね」
と、何度言い合ったことだろう。
あたし達が男女の中になるのに、時間なんて必要なかった。
2
彼の横で夜中に目が覚めた時、静かに眠る顔がたまらなく愛おしくて、髭がザラザラとする頬をよくなでていた。
今でもあの時のことを夢にみる。起きるとあたしの瞳は涙で濡れている。
幸せだった。一緒に同じ目標を持って、会社でも家でも一緒で、友達には、辛くない? って言われていたけど、あたしにはそれが幸せで、本当に呼吸ができている人生に感じられた。
でも、彼は付き合い初めて半年くらいから、急に1人の時間を好むようになった。
夜、暗い部屋の中で月明かりに照らされる彼のシルエットは、まるでどこかへ飛び立ってしまうんじゃないかって思うほど、追い詰められているように見えた。
あたしが見ていた背中はきっと、そのままだった。彼は追い詰められていたのよ。それをあたしは気づいて挙げられなかった。
家庭環境が裕福で、あたしから見れば不自由のないように思えた。
下町で育ったあたしは、大学に行くにも苦労したし、学費を必死で親が稼いでくれた。父親は印刷工場で働き、母は縫製工場で働いて、あたしもカフェでバイトをして、大学に通った。だから絵の道には進めなかった。
何度か彼と話したことがあった。彼がどうしで美大にいかなかったのか。美大に行こうと思えば行く金銭的余裕も、才能もあると、あたしには思えた。
でも違った。もしかしたらあたしが彼を追い詰めたのかもしれない。一緒の目標を、彼の中にあった絵に対する情熱を引き出してしまったから。
心の中にしまい込んでいたら、あんなことにはならなかったのかもしれない。
あたしは何度「忘れてください」と手紙に書かれても絶対に忘れることはない。
彼は幸せな時間を、生きている充実を教えてくれたから。
それに一緒に罪を背負うことがあたしが、彼を追い詰めてしまった罪を償うことになる唯一の方法だから。
あの日の電話は今も忘れられない。あの日の天気も。真夏の暑い日差しの中で会社を休んだ彼があたしのスマホに昼休みに電話をかけてきたときのことを。
3
あの日の朝、彼は会社を休んだ。誰も彼が会社を休んだ理由を知らなかったし、あたしも何が起こったのかわからなかった。何度電話をかけても、LINEをしても返事は返って来なかった。
だから昼休みに電話がかかってきた時、自然と胸が締め付けられた。不安が心臓を締め詰めた。
彼はなにか、まるで魂が抜けたように力のない声であたしに言った。
「実家まで来てくれないか」
何があったの? そんなこと聞く時間も与えてくれず、彼は電話は切った。
押し寄せるすごい胸騒ぎを抱え、あたしはデスクに広げた朝起きて作ったお弁当箱もそのままに、会社を走り出ていた。
彼の実家の場所は聞いていた。会社からもあたしのアパートからも距離としてはそれほど変わらず、電車で二駅の場所にあった。
裕福な住宅地の真ん中に建つ一軒家。それが彼の実家だった。
記録的な猛暑の中、スーツが汗で体にひっつき、下着が体を締め付けるのを気持ち悪く感じながら、陽炎の向こう側に立つ彼の血の気を失った蒼白の顔色。間違いなくなにかがあったんだ。
足早に彼に近づいていくあたしは、でも彼に近づくことができなかった。
彼はスーツ姿だったけど、その手は真っ赤な血にで染まり、右手には包丁が握りしめられ、白いワイシャツは白い部分がほとんどないくらいに赤くなっていた。髪の毛は乱れてあたしがしる彼じゃないように思えた。
「ねえ、どうしちゃったの? その血は? 怪我したの?」
ゆっくりと彼に近づき、血まみれの手を握った時、真夏の日差しの下とは思えないほど、彼の手は冷たくなっていた。包丁を握った手には力が入り、開くことができなくなっていた。
あたしも頭が混乱してしまい、とにかく彼から危ない物を遠ざけようとしたのだろう、力が入った彼の手を開き、包丁を取ると、投げ捨てた。
「何があったのよ。ねえ」
頬に両手を当てて必死にあたしは叫んだ。でも、彼は遠くを見たままなにも言わなかった。
恐る恐る彼が出てきた家の方を見ると、玄関先で女の人が血まみれで倒れているのが見えた。彼のお母さんだった。
写真で見て顔は知っていたが、すでに事切れているお母さんは、悲鳴を上げたのだろう。そのままの苦悶の表情で倒れていた。
「なんで、なんでよ」
あたしは気づくと泣いていた。すべてが壊れて崩れてしまったことが分かったから。
あたしは彼にすがりつくように泣き崩れ、熱いアスファルトに膝をついた。
その先はどうなったのかは覚えていない。おそらく過呼吸をおこし意識を失ったのだろう。息苦しくなったのは覚えている。
あたしが次に覚えているのは救急車の中で救急隊員に声をかけられたことと、そのまま病院へ搬送されたことだけ。
もちろんその後に警察から何度も彼との関係、彼のことを聞かれた。でも何を話したのかは覚えていない。ただ聞かれたことに答えただけだった。
あんなに幸せだったのに、あんなに呼吸ができていたのに、あの日からあたしの日常は息苦しくなった。
会社は辞めた。居られるはずがない。
アパートを出て実家に帰り、近くの工務店で今は事務の仕事をしている。
彼はあの日、両親と仕事を辞めて絵の世界に入りたいということを、仕事に来る前に話し合っていたらしい。でも彼の両親はもちろん反対した。
彼にとってはそれが最初で最後の反抗だったのかもしれない。両親と口論になった彼は、気づいたら両親が血まみれで倒れていて、犯行時の記憶が曖昧だったらしい。
裁判で彼はすべての罪を認めたと聞いている。あたしは裁判にはいけなかった。どんな顔をすればいいのかわからなかったから。彼の顔を見る勇気がなかったから。
判決は無期懲役。刑務所に今も収監されている。
彼からは定期的に手紙が届く。その最初の一文が、
「忘れてください」
なのはいつものことだった。
手紙のやり取りを始めたのはあたしだった。
不思議だった。自然と彼に手紙を書きたくなったから書いた。
今日も彼に手紙を書く。
4
あなたへ
忘れてくださいとあなたはいつも書いてるけど、あなたを忘れるということがどんなことなのかわかる?
本当の自分が消えてしまうことと同じなの。だから忘れてくださいなんて言わないで。
どうしてあなたがお父さんとお母さんにあんなことをしてしまったのか、今でも考え続けている。でも、それはあたしには分からないことだし、きっと誰にも分からない。裁判官も、検察官も弁護士も記者も傍聴人も。あの裁判を見ていた誰にあなたの心は分からない。分かるのはあなただけ。きっと後悔を今も続けているんだって、あたしは考えている。だってあなた、裁判で一切の弁解をしなかったもの。きっと罪を受け入れ、自分が罰せられるべきだと思ったから、あえてなにも言わなかったのよね。
こんなことを書いててもあなたがどう持ってるからは、あたしにはただ想像するしかないけど、あたしは今もあなたを夢にみてる。もう戻れない、進んでしまう時間を止めることもできず、ただ淋しくて、あの幸せな日々を思い出して、あれが愛だったんだって感じてる。
もう一回書くね。
忘れてくださいなんて言わないで。あたしはあなたをずっと待ってる。何年だろうと何十年だろうと、もしかしたらあししがおばあちゃんになった頃になるかもしれない。あるいはあなたは出てきてくれないかもしれない。
でも待ってる。それがあなたの異変に、あなたが悩んでいることに気づけなかったあたしの罪の償い方。
どんなこと言われても、どんな目で見られても平気。
きっとあなたは帰ってくる。あたしはそう信じてる。
悲しみも苦しみも罪も。全部を背負うことがあなたへのあたしからの愛情。
じゃあまた手紙書くからね。体には気をつけて。
あたしより
「忘れてください」 完
『忘れてください』 @ZinFuzisima
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