我が名はレギオン

深上鴻一:DISCORD文芸部

我が名はレギオン

イエスまた「なんぢなにか」とたまへば「はレギオン、われおおきがゆえなり」とこたへ、またおのれらをそとひやりたまはざらんことをせつもとむ。

『聖書』マルコによる福音書 第五章



#01

 ハンドルネーム『ろびん』こと、本名『原田マサトシ』は東急ハンズ池袋店の入り口前にいた。

 背には黒い大きなリュックサックを背負い、右手には黄色いバナナを一本持っている。左手に持っているスマホを見ると午前9時56分だった。そこで彼はスマホをジーンズの尻ポケットにしまい、バナナのを皮を剥いて路上で急いで食べた。

 道路を横断してゲームセンターの横を通り、サンシャイン通りへ向かう。途中、右手側にあるローソン池袋駅東店前に設置されたゴミ箱に、バナナの皮をそっと捨てた。スマホを見るとちょうど10時だった。

 彼は最初の交差点を左に曲がり、そのまま直進した。その先にあるスターバックスに迷わず入る。混んでいる店内の奥に、彼は空いている席をひとつ見つけた。カウンターで何も注文せずに進み、リュックサックを床に置いてその席に座る。

 すぐに彼は、リュックサックの中から小型ノートパソコンを取り出した。狭いテーブルの上に広げると、スリープ状態だったパソコンは素早く起動する。画面にDISCORDというアプリが表示された。


 DISCORDというアプリは、もともとゲーマー用に開発されたものだ。ゲームをしながら同時に音声通話(ボイスチャット)を行うためのものなのだが、文字メッセージのやり取り(テキストチャット)も簡単にでき、かつメンバー管理の優秀さや操作性の良さからも、またたく間にゲーマー以外にも広がった。2019年5月時点で、そのユーザー数は全世界で2億5千万人以上だと公式は発表している。

 簡単に作成できる各コミュニティはサーバーと呼ばれ、作成した管理者によって運営される。日本にも雑談から仮想通貨、音楽配信から小説までとたくさんの幅広いサーバーが存在していた。

 サーバーはボイスチャンネルと呼ばれる音声通話専用の部屋、テキストチャンネルと呼ばれる文字メッセージのやり取り用のメッセージボードで構成されている。ダイレクトメールと呼ばれる個人宛メッセージを送ることもできる。


 原田はすぐに、参加しているDISCORDのサーバーのひとつ『レギオン』を開いた。ろびんという名前で、ミッション完了報告用のテキストチャンネルにメッセージを書き込む。

「ミッションナンバー10472、完了」

 エンターキーを強く叩いて、彼はメッセージを送信した。ふーっと息を吐く。これで今回のミッション「2月3日午前10時ちょうどに、ローソン池袋駅東店前のゴミ箱にバナナの皮を一本捨ててこい」も無事に完了したことになる。レギオンの確認が済み次第、彼には貢献ポイントが25点加算されるだろう。それによって貢献ポイントの合計はついに200点を越える。

 今晩の0時には、ついにレベル3に昇格するのだ。



#02

ろびん :レベル3になりました!

ミシェル:うわ、スピード出世だ!

空蝉  :いいなあ。私はまだしばらくレベル2。

那由多 :ミッションをそれだけ完了できるなんて、普段は何をされてるんですか? 学生さんですか?

ろびん :じつは浪人生なんです。

ミシェル:勉強しろよ。また落ちるぞ。

ろびん :勉強だってちゃんとしてますよ。

空蝉  :応援します。はやく大学生になりましょう。大学って楽しいですよ。

ろびん :ありがとうございます!

ミシェル:あれ? セミちゃんは大学生なの?

空蝉  :そうです。

ミシェル:知らなかった。今度、飲みに行こうぜ。

那由多 :ナンパ行為は感心しませんね。

ミシェル:ナユタさんは相変わらずかたいなあ。それとも自分が誘われなかったから機嫌悪いの?

那由多 :そんなことはありません。

ミシェル:じゃあナユタさんも行こうよ。たしか関東でしょ?

那由多 :私はあまり、そういうのに興味がないんです。

ろびん :おっともう1時だ。そろそろ勉強しなきゃ。ここで落ちます。おやすみなさい。

空蝉  :おやすみなさい、良い夢を。

那由多 :おやすみなさいませ。

ミシェル:やった! これで両手に花だ!



#03

 なにが「これで両手に花だ!」だ。まったくミシェルさんには真剣味が感じられないなあ、と原田は思った。ノートパソコンを閉じて、机からタンスの上に移動させる。そして参考書とノートを取り出して机に広げた。ここは自室で、東京の予備校に通うために彼は一人暮らしをしていた。

 彼がレギオンというサーバーを見つけたのは、3ヶ月ほど前の11月半ばである。勉強の息抜きに面白そうなゲームのサーバーがないかググっていたら、検索に偶然引っかかったのだ。その短いサーバーの紹介文に、彼は強くひかれてしまった。

新世界秩序ニューワルドオーダーの構築を目的とするサーバーです」

 新世界秩序というものが何かさっぱりわからなかったが、彼はサーバーに迷わず参加した。すぐにわかったことは、レギオンはDISCORDを利用しているのにボイスチャンネルがないことだった。つまりテキストチャンネルしかないのだ。彼は喋るのが苦手だったこともあり、それでますます興味を持った。

「ルール」という名前が付けられた短いテキストチャンネルを読んで、やっとレギオンが、オリジナルゲームを運営しているサーバーだとわかった。内容はきわめてシンプルで、サーバー管理者である『導師』からメンバーに個別にミッションが送られる。それをクリアすると貢献度ポイントが貰える。ある程度ポイントがたまるとレベルが上がる。それだけだ。

 だがこのミッションが、きわめて特殊だった。彼に送られてきたものでは「花小金井にあるじゃぶじゃぶ公園に行って、ドッグフードを65g入れたボウルを置いてこい」、「紀伊國屋書店新宿本店に行って、雑誌TVガイドの12月5日のページに郵便はがきを挟んでこい」。そして「2月3日午前10時ちょうどに、ローソン池袋駅東店前のゴミ箱にバナナの皮を一本捨ててこい」。

 こんなことに何の意味があるのか、彼にはさっぱりわからなかった。いや、意味などないのだろう。だが、かえってその無意味さが彼には面白かった。意味不明なミッションを、わざわざ金と時間をかけて完了させる。すると運営側がきちんと確認してるとも思えないのだが、貢献ポイントが加算される。貯まるとレベルが上がる。その異常さに不思議な魅力があった。

 こんな良くわからないゲームなのに、100人以上が参加しているというのも面白かった。ミッションの内容は、他のメンバーに教えてはいけないというルールがある。だから同時期にサーバーに参加して親しくなったミシェル、空蝉、那由多も、彼がどんなミッションを完了してきたのかは知らない。それが「誰も知らない、自分だけの秘密を持っている」という不思議な高揚感を彼にもたらしていた。ミッションが与えられることで自分が導師から必要とされている、完了することで役に立っているという喜びもあった。そしてみんなが貢献ポイントを貯めてレベルを上げていく姿が、彼の競争心を煽った。

 彼はもうレギオンの虜だった。勉強はしばらく、まともに集中できていない。



#04

 深夜2時頃、スマホが鳴った。原田は導師からミッションが来たらすぐわかるよう、DISCORDからメッセージが届いたら音が鳴るよう設定してある。ぼんやりと続けていた勉強を止めてスマホを見ると、レギオンのメンバーであるミシェルからのダイレクトメッセージだった。

「今晩は。今度オフ会やろうと計画したんだけど、ろびん君も来ない?」

 彼はしばらく考えたが、あまりミシェルに会いたいとも思わない。スマホで断りの返事を送信した。

「残念ですが、もうすぐ入学試験が控えてるので参加は断念したいと思います」

 すぐにメッセージが返ってきた。

「息抜きだって大事だぞ」

 さっきは「勉強しろよ。また落ちるぞ」と言ってたくせに勝手だなあ、と彼は思った。ミシェルからのメッセージは続く。

「じつは、ろびん君が来るなら、空蝉ちゃんも来るって言ってるんだよね」

 それに彼は驚いた。空蝉さんはとても礼儀正しい女性だった。しかもミッションに真面目に取り組んでいるところが、好感が持てた。大学生なら俺とそんなに歳は違わないんだろうな、どんな子なんだろう、と彼は思った。

 ミシェルからまたメッセージが届く。

「で、空蝉ちゃんが来るなら、那由多さんも来るってさ。つまり、ろびん君が来てくれないと非常に困るんだよね」

 本当にミシェルさんは勝手だなあ、と彼は呆れてしまう。しかし空蝉さんには会ってみたかったし、いつも冷静で博識な那由多さんにも興味があった。彼は5分ほど考えたあと、スマホでメッセージを送信した。

「わかりました。参加します。詳細が決まったら教えてください」



#05

 2月11日、火曜日、建国記念の日。原田は渋谷のお洒落なイタリアンレストランにいた。

「レギオンにかんぱーい!」

 ミシェルの音頭で、4人は乾杯した。ビールを飲んでいるミシェルは30代後半と思われる太った男。ジントニックを飲んでいる那由多はぴしっとしたスーツを着たロングヘアの知的感溢れる女性。お酒がだめだからとウーロン茶を飲んでいる小柄な女の子が空蝉。原田はコークハイを飲んでいた。

 4人はしばらく、どうやってレギオンを見つけたか、どうして参加したかなどを話した。みなが偶然見つけて、みながこのサーバーの奇妙さを面白く思っていた。誰も新世界秩序の構築という意味はわからなかったが、そこに興味はないようだった。

「それにしてもレギオンって変わった名前だよね」

 ミシェルが言う。

「参加者が大勢集まることを願っての名前なのかなあ」

「そうかも知れないわね」

 那由多がこたえる。

「あの。レギオンって名前に意味があるんですか?」

 そう尋ねた空蝉に、ミシェルが得意気にこたえる。

「あら、セミちゃんは知らなかったの? レギオンってローマ軍団兵のことだよ」

 原田も知らなかったが、とりあえず頷いた。自分だけ知らなかったと思った空蝉は、それが恥ずかしかったらしく、うつむいて赤くなった。

「レギオンは、聖書に出てくる悪霊の名前でもあるのよ」

 そう付け加えた那由多が、ゆっくりと暗唱する。

「イエスは『汚れた霊よ、この人から出て行け』と言われた。また彼に『なんという名前か』と尋ねられると『レギオンと言います。大ぜいなのですから』と答えた。そして、自分たちをこの土地から追い出さないようにと、しきりに願いつづけた」

「さすが那由多さんだねえ」

「私はおたくだもの。クリスチャンでもないなら、こんなこと知らなくて普通だわ」

 そう言って、空蝉に優しく笑いかける。

「あらあ。じゃあ俺も普通じゃないのかあ」

 ミシェルはひとりで大笑いした。

「で、みんなの最近のミッションは? 何か面白いのあった?」

「えっ」

 その言葉に、那由多がすぐに反応する。

「ミッションの内容を、他人に話すのは禁じられてるでしょう」

「やだなあ。そんなの守ってもしょうがないじゃん。俺はこの前さあ、双子のベビーカートを」

「ストップ」

 那由多は、左てのひらをミシェルに向けた。

「ゲームにはルールがあるわ。それを守らないのは絶対に良くない」

 うんうん、と空蝉が大きくうなずいた。

「ほんとに那由多さんはかたいんだなあ。たかが遊びだよ?」

「タモリは昔『仕事じゃないんだぞ。遊びなんだから真剣にやれ』ということを言ってたわよ」

「え? みんな、こんなの真剣にやってんの?」

 そう言ったミシェルの言葉に、みなが驚いた。

「俺はレギオンは面白いと思ってるけど、ミッションなんてやってないよ? ああ、またバカなミッションがきたなあと笑ってるだけ。で、適当に完了報告して貢献ポイントもらってんの」

 すると那由多が立ちあがった。

「不愉快だわ。帰る」

 そして店員に手を振って声をかけた。

「すみません。精算してください」

「ええーっ? そんな怒ること?」

 ミシェルの言葉に、空蝉がおずおずと言った。

「怒ること、だと思います。わたしは少なくとも、真剣にやってます。それをバカにされるのは、とってもいやな気持ちです。那由多さんも同じだと思います」

 空蝉は原田をすがるような目で見た。それで彼も口を開いた。

「俺も勉強の合間ですが、真剣にやってるんです。申し訳ないけど、これで解散にしましょう」



#06

「わたし、レギオンが楽しいんです」

 那由多が声をかけて、ミシェルを除く3人は近くの喫茶店に席を移していた。

 大人しく見える空蝉も本気でミシェルに腹を立てているらしく、さきほどから熱弁を振るっている。

「変なミッションが来て、それを真剣にやり遂げるのが楽しいんです。こんな無意味なことに真剣になるなんて、自分でもやっぱり変わってると思うんですけど」

「私も仕事が忙しいのに何やってるんだろう、と思うわ。きっとそこが楽しいんでしょうね。一種の現実逃避?」

「俺も勉強しないとまずいんですけどねえ」

 そう言って3人で笑っていると、突然、空蝉が言う。

「あの、皆さんは梶井基次郎の『檸檬』という小説をご存じですか?」

 原田は知らなかったので首を振った。那由多は知っていた。すらすらと粗筋を言う。

「文具書店の丸善に入った主人公は、積み上げた画集の上に、途中で買ってきたレモンを置く。そして、そのまま出て行ってしまう。レモンを爆弾に見立てた主人公は、こっぱみじんに大爆発する丸善の姿を想像して愉快な気持ちになる」

「そう、そうです!」

 何度も大きくうなずく空蝉。

「わたし、その小説が大好きなんです。レギオンのミッションって、どこか似てますよね!」

 大声を出してしまったことに気が付いて、空蝉はまた赤くなった。しばらくうつむいてもじもじしていたが、気まずさを消すように顔を上げて切り出す。

「もうすぐ、バレンタインですね! じつは今日のために、チョコレートを買ってきたんです」

 空蝉は黒いメッセンジャーバッグから、平たい四角の箱をふたつ取り出した。可愛い柄の入った赤い紙に包まれ、小さな金のリボンが乗っている。

 差し出されたそれを、那由多は両手で受け取った。

「ありがとう。ホワイトデーには3倍でお返しするわね」

 原田も素直に受け取った。

「ありがとうございます。俺も何かお返しします。その、3倍は無理かもしれないけど」

 それで空蝉は、あははっと笑った。ああ、可愛いな、と原田は思った。

 ホワイトデー近くにまた会おう、と3人は約束して別れた。



#07

 オフ会から一週間ほど過ぎた夕方、原田が勉強しているとスマホが鳴った。DISCORDのダイレクトメッセージで、空蝉からだった。

「少しお話がしたいのですが、いいですか?」

 彼はすぐに返事を送る。

「はい、何でしょう?」

「じつはミシェルさんから、また会えないかと誘われて困ってるんです。どうしたらいいのでしょう?」

 そんなことになっていたのか、と彼は驚いた。

「管理者である導師に報告するのが一番じゃないかな」

「導師に報告したら、私から訴えが出たとミシェルさんに伝わりませんか? ツイッターアカウントも特定されてるし、逆恨みされたら怖いんです」

「わかった」

 原田は長文を打ち込む。

「導師もしっかりした人みたいだから、そこはうまくやってくれると思います。でも空蝉さんの気持ちもわかります。そこで俺が、ミシェルさんがミッションの内容を俺たちに話そうとしていたことを報告します。ミッションをきちんとやってないと告白したことも。そうすればミシェルさんは退室処分になるだろうし、何かあっても俺が悪者になるので大丈夫です」

 返事まで時間があった。

「いいんですか?」

「いいですよ」

「本当にご迷惑をおかけします。ホワイトデーのオフ会、また会えることを楽しみにしています」



#08

 原田は西武新宿駅にいた。「2月28日、夜の21時、西武新宿駅の改札を出てすぐのロッカー、1007番ボックスに500ml缶ビールを2本入れること。鍵はかけない」、それが新たなミッションだった。

 スマホを見ると、あと5分だった。彼はスマホでレギオンを見る。DISCORDでは参加しているメンバーを確認することができる。ミシェルは、空蝉から事情を聞いたその日の晩に名前が消えていた。彼が送ったダイレクトメッセージを読んだ導師が、すぐにミシェルの退室処分をしたのだろう。

 3分前。

 彼は今年のすべての受験が終わり、ほっとしていた。だが手応えはまるでなかった。第一志望の早稲田大学は不合格だろう。たいして興味のない、滑り止めの大学に入ることになるはずだ。

 2分前。

 滑り止めの大学では授業に興味もないから、アルバイトでも頑張ろうかと彼は思った。いや、ひょっとしたら今以上にレギオンに時間を使うかもしれないな。導師は俺にこれからどんな変わったミッションを送ってくれるのだろう。あまりにも完了スピードが早すぎて、導師も困ってしまうかもしれないぞ。そう考えると彼は愉快になった。

 1分前。

 彼は歩き出してロッカーに向かった。1007番ボックスを開け、リュックサックから取り出した缶ビール2本を入れる。これで今回のミッションは完了だった。彼はその場を離れて壁際に立つ。そしてスマホでレギオンを開き、完了を報告した。



#09

 西武新宿駅の上にあるスターバックスでコーヒーを飲んできた原田は、階段を下りてくると意外な人物を見つけた。スーツ姿のミシェルだった。だらしなくコートを着て、ショルダーバッグを提げている。遠目でも、ひどく酔ってふらふらしているのがわかった。

 声をかけようとは思わなかったが、やはり気になる。改札に向かって歩いているミシェルの後を、スマホを見ているふりをしながら距離を大きく開けたままついて行った。

 ミシェルは大きく横によろめいて、ロッカーにひどく肩をぶつけた。しばらくそのロッカーをじっと見つめていた。何か考えてるのかな、と原田は思った。そしてミシェルは、そのひとつを開けた。また動作が止まる。彼はロッカーの中から、缶ビールを2本取りだした。代わりに自分のショルダーバッグを入れて、改札へと向かって歩き出す。

 ミシェルが去った後、原田はロッカーに駆け寄り1007番ボックスを開けた。鍵はかかっていなかった。ビールは消えてショルダーバッグが入っていた。荷物はそのままにして、彼はミシェルを追いかける。

 改札を通ったミシェルは停まっていた電車にも乗らず、そのままホームを歩き続けていた。どこまで行くのだろうと思って見ていると、不意にベンチに座り込んだ。そして缶ビールを開けて飲み始める。凄い勢いで1本を飲み干し、2本目にも時間はかからなかった。飲み終わるとミシェルは両手で顔を覆い、うずくまった。泣いているのかな、と原田は思った。

 次の電車がホームに入るというアナウンスが流れた。その声でミシェルは突然立ちあがった。駆け出した。叫んだ。飛んだ。そしてやって来た電車が、彼を轢き殺した。



#10

 西武新宿線は人身事故によって止まり、駅構内は人々がひしめき合っていた。駅員がハンドマイクで何か叫んでいる。手にビニール袋と火バサミを持った駅員達が駆けている。別な駅員は男達に詰め寄られていた。救急車のサイレンが聞こえ、白衣の男達は人混みを掻き分けてストレッチャーを運んでいた。多くの者がスマホで誰かに事情を説明しているようだった。

 そんな混乱の中、人混みに強く押されながらも原田はロッカー前にいた。思い切って、1007番ボックスをもう一度開ける。ショルダーバッグを引っ張り出して、それを膝の上で開けた。中に入っていたのは汚れたワイシャツ、スウェット、ペットボトルと弁当、マスクとハンカチ、そしてスマホ。

 彼はスマホを手に取った。一瞬だけ躊躇したが、ボタンを押して電源を入れる。するとパターンロックがかかっていた。指で正しい順に点をなぞらないと、中は見ることができない。

 彼はそのスマホを斜めに傾けた。画面は脂でどろどろで、Z型の指跡が残されていた。その上をなぞると、スマホの画面が変わった。ロックが解除されたのだ。

 この中に何かがあるはずなんだ、と彼は思った。データをすべて、どこかに転送しようかとも思った。だが時間はあまりかけたくない。誰かがこれを回収しに来る可能性が高いからだ。画面上に並ぶアイコンを眺めても、特に珍しいものはなかった。そのアイコンの中にあったファイルエクスプローラーで、ストレージを直接開く。ざっと指でスクロールさせるが、特に変わったフォルダは見つからない。ダウンロードフォルダを開く。アダルト画像と動画だらけだった。ドキュメントフォルダを開く。ゲームの攻略法メモや、自作の小説だと思われるテキストしかなかった。外部ストレージ、つまりSDカードを開こうとして、彼は止めた。大事なデータは、もっと外にあるのではないかと思ったからだ。

 ファイルエクスプローラーでグーグルドライブを開く。このクラウドの中に、ミシェルを殺してでも奪いたかった何かがあるに違いない。ゲームのROMや写真のバックアップが並んでいた。すべてのフォルダには『DS_ROM_Newスーパーマリオブラザーズ』、『2019年8月12日_夏コミ_コスプレ』等の名前が付いているから探しやすい。指で画面を次々とスクロールさせる。その中に恐らくこれだと思われるフォルダを見つけた。『20200228』。今日の日付名で作られたフォルダで、これだけ規則性が違う。彼は推測した。ミシェルは今日、何かをこのフォルダに保存したのではないか。それを欲しがる者が、ミシェルを殺してでも奪おうとしたのではないか。

 彼はそのフォルダを開いた。中にあったのは、今日の日付名の付いたPDFファイル。彼はそれを開いた。間違いない、これだ、と彼は思った。ファイル交換サイトに、彼はそのPDFファイルを転送した。パスワードをかける。これなら後からダウンロードしても、それが誰なのか特定は難しいだろう。

 彼はスマホを切ろうとしたが、もうひとつだけ作業を行った。GPS追跡アプリをインストールしたのだ。これでこのスマホがどこにあるか、彼はこっそりと知ることができる。



#11

 原田は自室でノートパソコンを開き、DISCORDを開いた。そして空蝉に、ふたりだけでのボイスチャットを申し込んだ。空蝉は驚いていたが、じゃあ30分後に、という約束になった。

 時間が来てチャットが始まる頃には、彼は缶チューハイを2本開けていた。

「酔ってますよね?」

「うん、酔ってる」

「酔った勢いで、わたしにボイチャを申し込んだんですか?」

「それは違うよ。ボイチャを申し込んでから、飲み始めたんだ」

 彼は間を開けず、マイクに向かって話しかける。

「ねえ、空蝉さん。俺たちがレギオンでやってることは意味が無いと思ってたでしょう? でもじつは、すべてに意味があったんだよ」

「ええっ?」

「『檸檬』という小説が好きだと言ってたよね。主人公は文具書店に置いてきたレモンを、爆弾だと想像して愉快になるんでしょ?」

「はい」

「でも主人公が知らないだけで、そのレモンが本当に爆弾だったとしたらどうする?」

 長い無言の後、空蝉は言った。

「主人公に、八百屋がこっそりと本物の爆弾を売ったと言うんですか?」

「八百屋だって、そのレモンが爆弾だとは知らなかったかもね。誰かがこっそり、八百屋が入荷したレモンの中に爆弾を混ぜたんだ。いや、そのレモンを混ぜた人だって、それが爆弾だとは知らなかったかも知れない。爆弾は、それを爆弾だと知らない人たちの間でやり取りされて、文具書店をやがてこっぱみじんにするんだ」

「ろびんさん、ひどく酔ってますよ。今日はこれで終わりにして寝ましょう」

「嫌だ。聞いて欲しいんだ!」

 彼は声を荒げた。

「俺は花小金井の公園に、ドッグフードを置いてきた」

「ミッションの話ですか? だめです! それはルール違反です!」

 彼はそれでも喋るのを止めない。

「そのドッグフードはどんな犬が食べたんだろう? その犬は一体どうなったんだろう? その犬は、誰かを噛んだりしなかったのかな? 噛まれたとしたら、その人はどうなったんだろう? 怖い。怖いんだよ。俺たちは何か、とんでもないことに参加してたんだ。そう、それが新世界秩序の構築ってやつなんだよ。じゃあ新世界秩序って? それは今の世界を終わらせるということなのか? 破壊? 革命? 空蝉さん、ちゃんと聞いてる!?」

 聞いてはいなかった。ボイスチャットはとっくに切れていた。



#12

 そこは二階建ての小さなビルだった。一階は不動産会社で、二階は会計事務所だった。部屋を探しているふりをして、窓に張られている物件情報の隙間から中をのぞいた。疲れた顔をした中年と、スマホをいじっている太った女性がいるだけだった。そこで原田は二階に上がり、ドア横のインターホンを鳴らした。

「どうぞ」

 彼は中に入った。

「待ってたわよ。座って」

 それは那由多だった。ぴしっとしたスーツ。黒ふちの四角い眼鏡。彼女は座った彼にお茶を出した。そして対面に座る。

「何から聞いてみたい?」

「GPS追跡アプリのことも知っていたんですか?」

「もちろん」

 那由多はポケットから、ミシェルのスマホを出してテーブルに載せた。

「俺があのPDFファイルを、ファイル交換サイトにアップすることも予測していた」

「もちろん」

「じゃあ、これ以上、聞きたいことはないですね」

「あら」

 彼は立ちあがった。

「レギオンから退室します。俺にはもう関係ないことです。新世界秩序でも何でも、勝手に構築してください」

「まあ、待ちなさい」

 那由多も立ちあがった。そしてロッカーから、可愛らしい白い包みを出してきた。それを彼に差し出す。

「これを空蝉さんに渡して欲しいの。バレンタインのお返し」

「そのために俺はここに来る運命だったんですか?」

 那由多はにっこりと笑った。

「それだけじゃないわよ、もちろん」

「でも、俺、空蝉さんとは縁が切れましたよ。ホワイトデーに会うとは思えないですね」

 那由多は何も言わなかった。それで彼は白い包みを受け取った。

「那由多さんは導師じゃないですよね?」

「私は末端の末端。小さなグループを任せられた小隊長って感じね」

「じゃあ最後に、もうひとつだけ質問。あのPDFファイル、聖陵女子学園の全生徒の個人情報は、世の中に何をもたらすんです? パスワードをかけたのに、俺以外にも数人がダウンロードしてしまったようですが」

「変質者の手に渡るの」

「そうですか。聞かない方が良かったです。死ぬまで後悔しそうだ」

「ろびん君が自責の念にかられることも予測済みなのよ」

「自責の念?」

 彼は大声で言った。

「あなたたちがミシェルさんを殺したんだ! 俺じゃない!」

「あなたたち? 俺じゃない、ですって?」

 ふふふっ、と那由多は笑った。

「我が名はレギオン、我ら多きが故なり」

 那由多は、彼の胸を人差し指で優しく突いて言った。

「私もあなたも、同じレギオンでしょう。違う?」



#13

 ホワイトデー3日前の午前中、自室に原田はいた。机の上のノートパソコンは閉じられて、その上には那由多の名刺が置かれている。彼はそれをじっと見つめていた。長方形の高級な紙には会計事務所の名前と、那由多の本名が載っている。そして右下隅には、鉛筆でLという小さな文字が書かれていた。

 インターホンが鳴った。出てみると郵便局員で、早稲田大学からの速達だった。彼はそれを手に持って机に戻り、カッターで封筒を開けた。合格通知だった。第一志望である早稲田大学に合格したのだ。通知の右下隅には、鉛筆でLという小さな文字が書かれていた。


 昼頃、スマホが鳴った。見ると空蝉からのダイレクトメッセージだった。

「合格おめでとうございます。ホワイトデーにはお祝いをしましょう。場所と時間を相談したいです」

 そこには本名とメールアドレス、電話番号も記載されていた。そして一番下にはLの文字。

 

 夕方、彼はノートパソコンを開いた。そして那由多の名刺を裏返す。そこには手書きでホームページのURLが書かれている。それをブラウザに入力すると、真っ白な画面が出た。中央には、たった1行の黒い英文。

「Enter Your Name」

 彼はもう迷わなかった。自分の名前を入力した。

「Legion」

 我が名はレギオン。

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